真言宗豊山派



人類の意識の変容をうながす『萬歳楽山』のヒビキ



萬歳楽山は三界萬霊の意識を変容し、浄化をしている霊場です。このことをふまえて登山されま すように。 
(注:この記事は平成21年以前の記事です)
 
 国見町の町長さんをはじめ「山の会」の皆様のおかげで、どなたでも、安全に楽に萬歳楽 山に登山し、山頂からの
眺望を楽しむことができるようになりました。11月で7回目となります が、登山する度に、こうした山道をボランテアで切
り開いてくださった山の会の皆様に深く感 謝せざるを得ません。
 
 小職が15年ほど前に入山しておりました頃は道はなく、灌木を掻き分け掻き分け這うように して、きつい傾斜をゼイ
ゼイ言いながらやっとの思いで登ったものでしたが、いまは雲泥の差 です。
 入山者が安全に登山できるよう、細かな配慮と巡回が見えないところで為されている心遣い は山の会の代表の村
上さんの特別な心配りと、いつも深く感謝いたしておるところであります。 この場をお借りして御礼申し上げます。

 さて、小職が主催いたしております萬歳楽山山頂不生禪について、これまでの経緯 からあらためて、その趣旨をご説明
いたします。

 小生に与えられました萬歳楽山の啓示は「人類の意識の変容と解放」にあります。
近世の哲人クリシュナムルティがいう「自己変革」と「自由への道」であり、ブッダ釈尊や弘法大師空海が示したところの
ものでもあります。
 僧盤珪禅師の不生禪や、大日経の根本である「本初不生」を根幹に据えることで、このテーマを私たちひとりひ とりが
自己観察=自己凝視=如実知自心=「私は誰か」と自己を問うことにより、不 生の仏心に目覚めることをテーマにしております。
 萬歳楽山がまさに指し示しているものの根本として受け止めております。

 ただ、この萬歳楽山の持つエネルギーの霊妙不可思議さは計り知れず、小職の宗教的条件付けが反応して、
かなり秘境的、神秘的、霊的ビジョンのように表現しておりますので、このこと自体に嫌悪抱かれる方もおられるかも知れませんし、
逆に霊的現象の側面にのみ期待をされる方もおられるかも知れません。

 しかし、いかに、不可思議なこととはいえ、この不可思議なる「現象」にのみ囚われて、「本質的なこと」 から逸脱するすることは
遭ってはならないことですので、十分に注意して探求されるますように。

 例えば、萬歳楽山は病気に効く、地震除けになるという呪術的側面を強調するあま り、救済を求める我欲の波動は
この山がもっとも嫌うところ(浄化の厳しいプロセス が作用するところ)です。

 「奇跡」は他のなにものかが起こすのではなく、自らに息づいている「内なる力」、即ち、「不生の仏心」であります。

 病気が治ったり、願い事が なうあまり、嬉しくなって、誰でも彼でもと親切に振る舞うかたもおられますが、
そういった奇蹟の求め方は、言わば萬歳楽山に借りを作るようなものなのです。
 つまり、病気が良くなった といって、それで終わりではないのです。その人の良くなることを通して、或る
メッ セージが与えられており、それに気づくことが大事なのです。

 現象的に良くなった、 悪くなったというところだけを見ていては、萬歳楽山の本当の力を享受できものではないでしょう。

 萬歳楽山は 「その人、その人の人生において 不生の仏心に目覚めた刻々の生をうながしている」山であるからこそ、
小職はこの萬歳楽山に誘われたと感じております。

 ですから、単に物見遊山であるならば、この萬歳楽山よりもっとすばらしい山は他にいくらでもあるでしょう。

 単にいやしろ地であったり、磁気は狂う不可思議山といったり、あるいは風景や景色にこの山の魅力があるということより
大事なことは。現象界と見えざる世界を統合する地球規模の意識に深く関わった霊峰なのです。

 ですから、具合の悪い方がこの山と関わ ることによって奇跡的に良くなられた方もおられましす、逆に、余計ひどくなってしまわれた方も
もおられます。
 
 なぜ、そのようなことが起きるのか?

 それは、その方に最もふさ わしい、霊性の浄化がうながされていることだからとしか申しあげようがございません。

 「霊的に浄化をうながしている山である」ことを絶対に無視されることのないようお願いいたします。

 内なる力は、我欲の汚れにまみれていると、その我欲が妨げとなってその力を 覆い隠しますから、
回り道せざるを得ないことになります。

 大切なことは「不生の仏 心」でいきることにあります。

 物質的条件付けをよりよいものにするために、自分のため、あるいは人のためといいましても、「じゅうそう」を
「かぜ薬」と信じて飲んでいるようなものでは、そう!「偽薬」ならまだ知らず、「欺瞞や偽善」が満ちあふれていては
萬歳楽山が嘆かざるを得ないということでしょう。

 また、自分の信念や信仰、見解を中心に信仰を組み立てて、ありがたがり、世間に人のためだと称して
吹聴する輩(私自身も含めてですが)は、萬歳楽山の「沈黙」= 「静謐」=「神秘」=「不生」を妨げる、騒々しい輩でしかないのです。

 たとえば、これは私自 身、前前回「いや!というほど」知らされました。同行者の中にそれに気づかせるも のがいたのですが。
 この方は、人のために熱心な方ですがその親切心が仇になること もあることをわきまえられないと、かえって、人の迷惑になること
をよく理解できな いようです。

 自分の好都合なものでありがたがっているようではダメだという単純な啓示した。

 が、実はそこがかなり大事なところでもあるのです。そして、熱心な人ほど そこがなかなか理解できないものです。

 入山する前に「登山しているときから不生禪 です。おしゃべりをやめて、ただひたすら山の気に心を澄ませてください」と注意している
先から、べらべら話している。本人は感動して、大事なことだと思って話す し、サービスするのですが、そのことが自らの不生禪の
妨げになっていることに気づかない。

 いくら里山とはいえ、900メーターの山道は険しい。黙々登っていては疲れるだ ろうし、お互い励まし合って登り切るということも
大切なことですが、だからといっておし ゃべりをすることで「沈黙の美」を逃してしまっては勿体ないのです。

 このことは、萬歳楽山自体から厳しく指摘されてました。
 「そのような中途半端な気持ちで来るなら、入山するな!」と。

 事実、現象を通して入山を何度も阻止されてしまいました。

 もちろん、これは小生が主催するプロセスでの出来事ですから、誰でもということ ではありません。
 私自身のことですが、不生禪に参加される方をこのあたりをご理解 していただきたいのです。

 このようなわけで、なかなか難しい入山も、
 今日では、「山の会」の皆さまの並々ならない環境整備のご尽力により、
この貴い萬歳楽山に、どなたでも、安全に、気楽に入山し、登山を楽しめるようにしていただきましたことは、
入山させていただく度に、まことに有難いことと、いくら感謝申しあげましても感謝し尽くせない程のご恩であると感じております。
 日々、萬歳楽山をおまもりくださる「山の会」のみなさまに、この場をお借りしまして、深く感謝申しあげます。
合掌


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