真言宗豊山派



補陀洛山善明院歓喜寺



 ● 歓喜寺の「号」のこと  ■ 山号 「補陀落山(ふだらくさん)」
 補陀落山は、サンスクリット語 Potalakaの音写で、無量壽佛阿弥陀如来(むりようじゆぶつあみ
だによらい)の浄(じよう)土(ど)であり、観(かん)世(ぜ)音(おん)菩(ぼ)薩(さつ)の降り立つ霊(れ
い)場(じよう)とされる。
 インドの南端の海岸にあるとされ、補陀落山(ふだらくせん)とも称する。中国では、この名を取
った普(ふ)陀(だ)山(さん)は、五(ご)台(だい)山(さん)、峨(が)眉(び)山(さん)とともに三大名山
に数えられている。日本では、和歌山県の那(な)智(ち)山(さん)が南方にあるため、西国三十三所
観音第一番の札(ふだ)所(しよ)とされている観世音菩薩の浄土。『華(け)厳(ごん)経(ぎよう)』に
よると、「インドの南端にあり、善(ぜん)財(ざい)童(どう)子(じ)がそこに赴いて観音に拝謁し
た。」玄(げん)奘(じよう)三(さん)蔵(ぞう)法(ほう)師(し)の『大(たい)唐(とう)西(さい)域(い
き)記(き)』には「南インドの海岸、マラヤ山の東にある」と記述されている。『陀羅尼集経(だら
にじつきよう)』の注では、「海島という」とされ、海中の島のように信じられている。霊地とし
て、仏教圏の各地にこれにちなむ地名が生じた。チベットでは観音の化身とされるダライ・ラマの宮
殿がポタラ宮と名づけられている。
 我が国ではこうした観音霊場巡りが今日でも盛んである。
 往昔(むかし)は信仰が高じて、補陀落渡海(ふだらくとかい)を果たそうと、南方海上にある観音
の浄土補陀落世界に往生せんと、いのちをかけて、熊野那智山や四国足摺岬、室戸岬などから出帆
するものもあったほどである。
「北半田関ノ内にはこうした熊野信仰にまつわる熊(くま)野(の)権(ごん)現(げん)堂(どう)があっ
た。」
※御堂前面の木につるしてあった慶安四年(一六五一)六月吉日の銘がある鰐口が残されている。
 また、「補陀落山は古来より歓喜仏(かんぎぶつ)や歓(かん)喜(ぎ)天(てん)の本(ほん)地(じ)仏
(ぶつ)十一面観世音菩薩(じゆういちめんかんぜおんぼさつ)の浄土である」ので、「歓喜寺の創設
の際には、深い観音信仰の縁起があった」ことが窺える。歓喜寺は檀家歴代の先祖精霊や十方信徒
精霊の菩提を弔う寺として、阿弥陀如来・十一面観世音菩薩・歓喜天の厚く信奉する寺であること
が、山号の「補陀落山」から窺えるのである。



山号額:智山大和上代

          
■ 院号 「善明院(ぜんみよういん)」
 歓喜寺の善明院の「善明」とは、そもそも、仏教の根幹である「善明」すなわち「善」の教えか
らきている。
 仏教では、煩(ぼん)悩(のう)が無ければ無 いほど、「善」としている。煩悩が ないこと、つ
まり、心が浄まって いるほど善になり、心が明晰にな るという。
 逆に「悪」とは、煩悩の強いこと、心が汚れていることをいい、道理や法理に暗い悪(あく)業(ご
う)のことを無(む)明(みよう)という。
 
 歓喜寺の院号は、「善明院」と称する。この「善明院」の縁起は、歓喜寺創建に貢献があった稲
村氏の縁起によるものと思われる。稲村吉晴家に現存する家系図のなかに「善明院殿」の開祖名が
記されており、歓喜寺の古い過去帳には稲村氏を「開基檀那」として特記していることなどからも
窺える。
 ただ、歓喜寺の過去帳の記録は、慶安二年中興開山宥甚大和上遷化の記録から始まっており、そ
れ以前の記録は無い。
 寺「開基檀那」と銘記される稲村家の「家系図」から
 【稲村氏の始祖新田次郎紀伊守英雄(につたじろうきいのかみえいゆう)が駿河国蒲原城落城後、
岩松家に帰参するも新田岩松家逆臣と防戦戦い敗れ手勢三十六人とともに、上杉家に禄を求めたこ
とが記されている。(やがて、出羽国に善明院という新義真言の寺を創建したのではないかと推量
される)新田次郎英雄が他界した折、この功績により「善明院殿覚誉英雄大居士」の戒名が記され
ている。
 これは、北半田関ノ内の歓喜寺の院号「善明院」の縁起にも関わるものと推量されるものであ
る。ただ、歓喜寺の過去帳には新田次郎英雄精霊に関する記載はない。
 ※「院殿大居士」号とは、氏寺を建立するなどの絶大な功徳をもって貢献された方に対する称
号。

 歓喜寺過去帳の記載は、新田英雄の子、新田あらため稲(いな)村(むら)次(じ)郎(ろう)豊(ぶん)
後(ご)守(のかみ)英純(えいじゆん)精霊からである。
  さて、米沢には「善明院」という寺が数ヶ寺現存している。北半田の「善明院」歓喜寺の創建
に関わる深い縁を感じ、米沢の善明院に問い合わせたが、残念なことにこの寺は文化年間に火災に
あい、古い資料が焼失したとのこと。
 したがって、まだ、住職の推測の域を出でない。
  稲村家に残されている家系図から推し量るに、新田次郎英雄の次男新田次郎豊後守英純は父が
新田岩松家防戦に敗れた後、常陸国筑波山稲村ヶ嶽の歓喜仏を祀る寺社辺り隠棲し、北半田の関ノ
内に安住の地を得ることができ、この地域にもともと居住する人々の協力も得て、この地で更めて
先祖の菩提を供養すべく、補陀落山「善明院」歓喜寺を創設するに至ったと推量する。

■ 寺号 「歓(かん)喜(ぎ)寺(じ)」

  歓喜寺の寺号に由来は、当寺に祀られるご本尊の「阿弥陀如来」や「観世音菩薩」、「歓喜
天」等を主尊としていることに因んでいる。
  特に、歓喜寺に現存する「歓(かん)喜(ぎ)天(てん)」は重要であり、この尊像をお祀りし信奉
するが故に「歓喜寺」という寺名がつけられている。
 なぜ、「歓喜天」なのか。その由縁については、歓喜寺開基檀那である稲村家の家系図に「開基
檀那である稲村一族が常陸国筑波山稲村ヶ嶽に隠棲し、難を逃れ、北半田関ノ内に安住の地をに得
ることができたのも、稲村ヶ嶽の神仏のご加護があってのこと」と記されており、「歓喜仏(かんぎ
ぶつ)」や「歓喜天」やその本地仏の「阿弥陀仏」や「観世音菩薩」を末代まで拝み奉らんと、わざ
わざ姓を新田氏から「稲村氏」と姓をかえて、ご本尊やご先祖方や北半田町内の安寧を願う祈願
寺、報恩謝徳の菩提寺として歓喜寺を建立したことが、寺の過去帳や稲村家の家系図から推量され
るのである。
  ところで、寺名の元となっている「歓(かん)喜(ぎ)天(てん)」とは、頭は象、身体は人間の姿
をした仏法守護神。あらゆる障害や困難を取り除き、福徳をもたらす強力な天部の仏。円筒形の厨
子に安置され、秘仏とされる. 歓喜寺に歓喜天が現存している。

 筑波山麓の寺社境内に歓喜天を祀る聖天堂がある、
寛永五年頃の絵図 稲村氏と関わる寺かどうかは不明である。

  
※註「山号・院号・寺号」
 一般に寺院は、通称が〇〇寺であったり〇〇院と言われるが、そもそも寺院は七堂伽藍を擁する
ものであり、その伽藍のことを総称して『山』としていた。そのお山で務める僧侶達の住まいが、
『寺』『院』や『坊』や『庵』といわれていた。
 江戸以降、菩提寺のほとんどはこうした寺院の本末における寺格が重んじられるようになったの
で、末寺や門徒寺は、みな『山号』『院号』『寺号』有しているようである。ことに、真言宗では
「〇〇密寺」とされ、他宗との違いを重視していた。歓喜寺も「歓喜密寺」となるのだが、古くか
らの通称(その地域に親しまれている呼び名)で〇〇寺とか〇〇院ですむことであった。過去帳に
は『善明院』が早くから出てきているが、公には歓喜寺であったであろう。寛政七年幕府発行の
『寺院本末帳』に「歓喜寺」とある。中本寺から江戸の当番寺院真性寺に報告書が出されている。
  幕府が各宗本山に『寺院本末帳』の提出を求めたのは寛永九年頃であった。この時期に当たる
歓喜寺の住職は宥甚大和上であったので、おそらく、この頃から、信達の地方の寺の本末関係の見
直しが図られ始めたのであろうと推測する。寛永十年歓喜寺中興開山として歓喜寺の過去帳の記録
が始まっていることからも推量される。

 ●歓喜寺の創建はいつか?
  この歓喜寺が創建された時期や創建の僧侶については、残念ながら、その記録が定かでない。
しかし、それを推し量る手がかりとなる記述が寺の過去帳に残っている。
  その記述は、享保二年正月に善明院什物として記された過去帳である。この過去帳に「東渥総
之下州結城郡山川之庄山王村宝珠院」から歓喜寺に転住されたとする「祐眞大和上」に関する記録
がある。結城郡とは筑波山一帯に関わる地域で、稲村家と所縁が深い寺院の一つが宝珠院であった
と推量される。しかも、この「宝珠院」は豊山派の寺として、現存している。おそらく、稲村氏が
稲村ヶ嶽付近に隠棲していたときから、この宝珠院と稲村家とは深い関わりがあったことが窺われ
る。おそらく歓喜寺創建時の開基導師は「宝珠院の僧侶」であったのではないかと推測される。お
そらく、歓喜寺と宝珠院との関係は、本末制度以前にから歓喜寺の源法流として保たれていたので
はないかと思われる。というのも、後の時代の祐眞大和上や他の大和上が宝珠院に関わる僧である
記述が歓喜寺の過去帳の記録に散見されるからである。
  おそらく、歓喜寺はこの「宝珠院」の住職を開基とし、開基当初は、遠方なるが故に、僧侶は
常駐していなかったのであろうと思われる。ところが、時が移り、寺院存続を問う幕府の寺院本末
政策に対処するため、幕府公認の本寺に所属しなければならなくなり、近隣の寺院の大聖寺から宥
甚大和上を招聘し、前述の保原中村長谷寺末となるべく準備を調えることで歓喜寺の存続を図った
のであろう。寺の過去帳の記録から、宥甚大和上遷化の後、しばらく住職がいなかったが、これ
は、もともと、宝珠院の法流との絡みがあったからではないかと思われる。このことは、後に、こ
の宝珠院から来た祐眞大和上の記述からも推量される。
  ただ、不思議でならないのは、歓喜寺の住職である祐眞大和上のお墓のみが歴代住職のところ
ではなく、歓喜寺付近の古い墓所にあることである。 


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