真言宗豊山派



補陀洛山善明院歓喜寺


歓喜寺 本尊仏 
●真言言宗豊山派宗紋「輪違(わちがい)」

  仏さまと私たち衆生は、もとは同じで異なることはない凡(ぼん)聖(じよう)不(ふ)二(に)とい
う教えを表す。
 また、四国八十八カ所霊場巡りのように、いつも、お大師さまと「同(どう)行(ぎよう)二(に)人
(にん)」ということでもある。

■宗祖寶號 「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじようこんごう) (真言宗開祖、弘法大師・空
海。豊山派の宗祖)
 南無大師遍照金剛とは、宗祖弘法大師空海大和上のご寶
號(ほうごう)。真言宗で必ずお唱えする。「本尊大(だい)日(にち)如(によ)来(らい)と宗祖弘法大
師空海大和上(しゆうそこうぼうだいしくうかいだいわじよう)に帰(き)依(え)する」ということで
ある。
 「遍照金剛(へんじようこんごう)」とは、空海大和上が唐に留学して、真言密教の奥義をきわ
め、真言の恩師大阿闍梨恵果大和尚(けいかかしよう)から授ずかった灌(かん)頂(じよう)名(めい)
である。真言宗では最奥義の伝(でん)法(ぽう)灌(かん)頂(じよう)における大(だい)阿(あ)闍(じ
や)梨(り)耶(や)が誕生する際、曼(まん)荼(だ)羅(ら)界(かい)の結縁のご本尊を授かるのである
が、授者は目隠しをして華を曼(まん)荼(だ)羅(ら)壇(だん)に投入することで結(けち)縁(えん)の
ご本尊を得ることができる。これを真言宗では投華得仏(とうけとくぶつ)といって、真言僧の最も
最奥義の(おくぶかい)ことである。空海の結縁の如来はまさに大日如来であった。
 恵果大和尚(けいかだいかしよう)はいたく驚(きよう)嘆(たん)喜(き)悦(えつ)され、「不(ふ)可
(か)思(し)議(ぎ)、不可思議」と叫ばれ、受者である空海に「遍照金剛(へんじようこんごう)」と
いう希(け)有(う)なる灌頂名を授けられたのである。
 なお、弘(こう)法(ぼう)大(たい)師(し)という諡は、空海大和上ご入滅後、延享二十一年(九一
二)に東寺長者観(かん)賢(けん)大和上が醍(だい)醐(ご)天(てん)皇(のう)に奏上し賜った諡であ
り、大師といえば弘法大師といわれるほどに親しまれ、広まった。
 新義真言宗では弘法大師を「宗(しゆう)祖(そ)」としているが、古義真言宗では弘法大師を「高
(こう)祖(そ)」としている。              歓喜寺創設期の弘法大師↓



■中興祖寶號 「南無興教大師(なむこうぎようだいし)」
 (新義真言宗の祖、 豊山派の中興の祖)
教大師覚鑁上人(こうぎようだいしかくばんしようにん)

興教大師覚鑁上人は、弘法大師
 の教えを再興、高野山に大(だい)伝(でん)法(ぽう)院(いん)、密厳院(みつごんいん)を建立し、
高(こう)野(や)山(さん)金(こん)剛(ごう)峯(ぶ)寺(じ)座(ざ)主(す)に上られ、学徒を養成し、後
に、根(ね)来(ごろ)に一山を構えられ、「新義」といわれる真言宗の教学を確立された真言宗中興
の祖である。

■派祖寶號        「南無専誉僧正(なむせんによそうじよう)」
 (豊山派の派祖)
 専(せん)誉(によ)僧正により真言宗豊山派が大成された。豊山派の第一祖。

 ■歓喜寺 本尊仏 
 阿(あ)弥(み)陀(だ)如(によ)来(らい)


阿弥陀如来は、大乗仏教の如来の一つである。梵名はアミターバ、あるいはアミターユスといい、
それを阿弥陀と音写する。阿弥陀仏(阿弥陀佛)ともいい、また略して弥陀仏ともいう。
 梵名のアミターバは「量(はかり)しれない光を持つ者」。アミターユスは「量りしれない寿命
を持つ者」の意味。これを漢訳して、無量光仏、無量寿仏ともいう。西方にある極楽浄土という仏
国土(浄土)を持ち、五智如来において、西方の阿弥陀とする。
 歓喜寺本尊 阿弥陀如来 木像一体(制作年代等不詳)歓喜寺創建時のご本尊と思われる。  
上品上生本尊阿弥陀如来(じようぼんじようしようあみだによらい)



 ■正(しよう)徳(とく)寺(じ) 阿弥陀如来


下品上生本尊阿弥陀如来(げぼんじようしようほんぞんあみだによらい)

木像 胎内に以下の墨書きあり。


▲享保六辛丑歳(一七二一)八月吉
祥日
大安寺十世木蓮社良覚上人弟子
大光山 正徳寺住職四世
想蓮社良環團秀代
施主化者 桑折町在住角田三左衛門
 ▲文政十二巳丑歳(一八二九)二月吉祥日 
 宥政 本尊持久
 湯野不動寺大阿闍梨法印宥精弟子 歓喜寺五世法印宥政





歓喜寺に安置される諸尊等  

●金剛界 大日如来                   

【平成23年龍雲奉納】
真言密教の教主。大日とは「偉大な輝くもの」(サンスクリット語マハーバイローチャナ
Mahvairocanaの訳。摩訶毘盧遮那(まかびるしやな)と音写)を意味し、元は太陽の光照のことであ
ったが、のちに宇宙の根本の仏の呼称となった。「大日如来」とは、真言宗で、最高の仏とされ、
大日如来は宇宙そのものであり、また阿弥陀如来や薬師如来はすべて、大日如来が変身した姿とさ
れている。
 大日如来の名前は、大日の智恵の光が、昼と夜とで状態が変化する太陽の光とは比較にならない
ほど大きく、この世の全てのものに智恵の光をおよぼして、あまねく一切を照らし出し、また慈悲
の活動が活発で不滅であるところから名づけられている。
 尚、歓喜寺には「當寺本尊大日如来納ム享保七年」と尼僧により、大日如来が寄進された記録が
あるが、それがこの大日如来かは不明である。
 歓喜寺に現存する大日如来は古いもの一体で念持仏の小さな木像。年代不詳である。

 金(こん)剛(ごう)界(かい)大(だい)日(にち)如(によ)来(らい)木(もく)像(ぞう)仏(ぶつ)一体

●四臂十一面観世音菩薩(しひじゆういちめんかんぜおんぼさつ)木像一体(制作年・作者不詳)




 「四臂十一面観世音菩薩」とは、観音菩薩の変化身で四本の腕を持ち、二本は合掌し、もう二本
の右手には水晶の数珠、左手には真言(オムマニペメフム)を唱える為に使用する蓮華を持ってお
り、「人々の危難に際し、救済の手を差し伸べ、その名を唱えれば、七難を免れ、礼拝すれば、財
を蓄え福をなす」といわれている。
 歓喜寺にある四臂十一面観世音音像はその様式が、弘法大師空海大和上が唐より日本に伝えられ
たものと同じ様式。極めて珍しい。この四臂十一面観世音菩薩は「歓喜天の本(ほん)地(じ)仏(ぶ
つ)」であり、弘法大師空海ご自身が四臂十一面観世音菩薩と歓喜天を東寺に勧請されている。
 歓喜寺の草創期の極めて重要な観世音菩薩である。
 歓喜寺の祈願札


●青面金剛(しようめんこんごう)         (制作年作者不明)
 「青面金剛」とは、

帝(たい)釈(しやく)天(てん)の使者の金(こん)剛(ごう)童(どう)子(じ)。身体は青色で、六臂(ろ
つぴ)または二臂、四臂、目は赤くて三眼で、怒りの形相をとる。病魔を退散させる威力があるとさ
れる。庚(こう)申(しん)信仰の中で独自に発展した尊像で「庚申待の本尊」とされ、三(さん)尸
(し)を押さえる神とされる。
 歓喜寺の庚申信仰の大切な本尊である。

 ●毘(び)沙(しや)門(もん)天(てん) 金仏
 (制作年・作者不詳)


仏像の四天王のひとつで,北方の守護神。四天王がそろっているときは多聞天といい,独尊のもの
を毘沙門天という。インド神話のクベーラが仏教に取入れられたもの。須弥山の第四階層に住し,
可畏,天敬,衆帰の三城の城主。密教では十二天のひとつ。日本の民間信仰では七福神のひとつで
もあり,「福徳を司る神」として広く信仰されている
 この毘沙門天は歓喜寺の非常に重要な本尊であった。
 歓喜寺の御札版木



●庚(こう)申(しん)塔(とう)
 弘化四年(一八四七)二月十日の庚申塔ほか多くの庚申塔が當寺境内に祀られており、庚申信仰
が盛んであった。

 新墓地の付近の円形サークル上に祀られた多数の庚申塔は檀家の故羽根田文雄氏が近在に散在し
ていた庚申塔をまとめたもの。
 「庚申信仰」とは、人間の体内には三(さん)尸(し)という三種類の悪い虫が棲み、人の睡眠中に
その人の悪事をすべて天帝に報告に行くため、三尸が活動するとされる庚申の日(六十日に一度)
の夜は、眠ってはならないとされ、庚申の日の夜は人々が集まって、徹夜で過ごすという「庚申
待」の風習があった。
 歓喜寺では養蚕農家による庚申信仰のため「百庚申供蚕養」の供養が行われていたようである。

●地(じ)蔵(ぞう)菩(ぼ)薩(さつ)
木像一体(制作年・作者不詳)


 「地蔵菩薩」とは、閻(えん)魔(ま)大(だい)王(おう)の
 化(け)身(しん)であるともいわれ、この世で一度でも地蔵菩薩に手を合わせると身代わりとなっ
て地獄の苦しみから救うとされ人々から信仰を集めた。一般的に、親しみを込めて「お地蔵さ
ん」、「お地蔵様」と呼ばれている。
 特に、歓喜寺は半田銀山にある愛(あた)宕(ご)山(やま)を別当にしており、愛(あた)宕(ご)大(だ
い)権(ごん)現(げん)の本地仏として、この地蔵菩薩を「将(しよう)軍(ぐん)地(じ)蔵(ぞう)」とし
てお祀りしている。
 なお、銀山の愛宕神社には歓喜寺の愛宕大権現の御像一体をご神体としてお祀りしている。銀山
の愛宕大権現は江戸後期から明治の頃までは、信達三大愛宕として、大勢の参詣人で賑わってい
た。今日でも銀山地区の人々によって大切に護られている。

●不(ふ)動(どう)明(みよう)王(おう)
木像一体(制作年・作者不詳)



 不動明王とは、大日如来の化身として、どんな悪人でも仏道に導くという心の決意をあらわした
姿だとされている。特に日本で信仰が広がり、お不動様の名前で親しまれている。歓喜寺では伽藍
安穏・寺檀繁栄所願成就の護摩祈祷の本尊である。


●過(か)去(こ)帳(ちよう)
 過去帳とは、寺院が、檀信徒の死亡年月日、戒名、俗名、年齢などを記載する帳簿。『続(しよ
く)日(に)本(ほん)紀(ぎ)』にみえる点鬼簿がそのもっとも早い例と考えられる。また円(えん)仁
(にん)が結集(けつじゆう)の名前を記した結集名簿もこの一種である。『平家物語』に「後白河法
皇の長講堂の過去帳」とみえるのが名称のうえでは初見である。中世には時(じ)衆(しゆ)(時(じ)
宗(しゆう)の僧俗)において重視され、これに記載されることによって往(おう)生(じよう)とみな
された。神奈川県藤沢市の清(しよう)浄(じよう)光(こう)寺(じ)(遊行寺)の『時衆過去帳』(国
の重要文化財)は著名である。
 近世に入って寺檀制度が成立すると、過去帳は全寺院に備えられるものとなった。
 一六三五年(寛永十二)の寺社奉行設置と寺請制度の開始がその契機となっており、この年以前
の過去帳はきわめてまれである。様式的には、命日ごとに記載した日割過去帳と死亡順に記載した
ものとがあるが、前者は、日めくり形式で日々の供養を目的としたものである。
●歓喜寺の過去帳
 補陀落山善明院歓喜寺什物として現存する『過去帳』は四冊。最古のものは過去帳巻末に「享保
二年善明院什物」と記されたもので
 @(慶安から文化年間)
 A(文政から明治四十四年)
 B(明治四十五年から昭和二十五年)
 C(昭和二十六年から現在)
 歓喜寺の過去帳から、「慶安二年(一六四九)二月七日当寺中興開山、法印宥甚 遷化」以後の
記録が残されており、地域の檀家や半田銀山で働いていた人達の記録もある。


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