真言宗豊山派



朝日山 萬歳楽院 法圓寺



2003年04月12日


法圓寺の山号『朝日山』の由来




 法圓寺の山号『朝日山』の由来
                           1999/11/13 當山主・好久
○法圓寺の山号『朝日山』は
朝日連峰の『朝日岳(朝日山)』を指す。
 (位牌には第四世住職は出羽の湯殿山注 連寺(醍醐三宝院流)出身の大阿闍梨あるこ とが
刻されている) 


 先日、思い立って、法圓寺第4世宥応上人 のご出身が「注連寺」とお位牌に記されてあっ
ので、どんな寺であったのか、山形県の湯
殿山へ調べにゆく。
 そこは出羽三山の湯殿山注連寺であった。 『即身佛』と森敦の小説『月山』で有名であっ た。
朝日村にあり、出羽信仰の奥の院に位置
するという。
 法圓寺の第四世は俳諧集『田植塚』のとき の住職であり、俳号を「乙角」と称した。當山 がもっ
とも隆盛を極めたときの住職でもある。な
ぜ、出羽の注連寺からやってきたのか気になっ ていたが、
注連寺の朝日村をみてはたと得心
がいった。永いこと不思議に思っていた法圓 寺の山号『朝日
山』の由来を暗示している。
(朝日連峰の朝日岳を指す。)
 おそらく、當山の開基上人宥圓快雄上人及 び第二世の開山上人尊海上人(湯殿山の行
の末字名に「海」がつく行者に通ずるか?)
及び第三世実宥上人と出羽朝日村の湯殿 山関係
の阿闍梨であったろうと推測される。
(ちなみに現在豊山派の「大日坊」・「本覚 院」もある。)
法圓寺開山の山号『朝日山』がそれを如実に 物語っている。
○法圓寺創建は寛文一年八月よりも古い。
  (法圓寺の創建は快雄上人15〜25歳ま での間)
  {慶安三庚寅年から万治三庚子年(1650 ~1660)}
 保原町の長谷寺の末寺と配されたのは、上 保原の泉福寺に残る資料(保原町史5)によ
と、延宝三乙卯年(1675)十二月十二日江
戸の月番の寺院・真福寺に届け出られてい る。
 寺院本末帳が最初に整理されたのは寛永 十年(1633)『諸宗本末帳』であるから、このと きはま
だ法圓寺は存在していなかったかもしれ
ないし、存在していたかもしれない。寛文2年 (1662)の創
建と明治時代に整理された「寺
院明細帳」に記されているが、その記録にには 「創立不詳」とも
あり、おかしいと思い、桑折町
史の資料を丹念に調べているうち、『上杉家 古文書』の寛文一年
(1661)八月に報告され
た「伊達信夫寺数覚」にすでに「朝日山法圓 寺」が出ているので、寛文
一年には法圓寺が
存在していたことははっきりしている。法圓寺の 創建は當山建立の僧・宥圓快
雄上人15〜2
5歳までの間{慶安三庚寅年から万治三庚子 年(1650~1660)}であることはほぼ
間違いない
と思われる。

○延宝三乙卯年(1675)十二月十二日法圓 寺が醍醐三宝院流報恩院の地方本寺・保 原の
長谷寺の末寺として登録された。(法圓
寺創建後5~10年経ってから)

○明治十一年に奈良県初瀬にある長谷寺を 総本山とする真言宗豊山派に所属し現在に
る。

  (このとき、江戸期の本末関係は解消され る。) 

※ 法圓寺は、創立後5〜10年たった延宝 三乙卯年(1675)十二月十二日に保原の長 谷寺
末として届け出られた。届け出たのが第
一番であったので、末寺筆頭となり、その後数 年を経て
他の近隣寺院が長谷寺末寺・門徒
の寺数三十余が届け出られている。当時はど の寺院も本
末関係をはっきり結ばなければ存続
を許されなかった。ただ、当時の法圓寺の住 職達の本末関
係の移動や出入りを見てみる
と、本寺筆頭の末寺であるにもかかわらず、法 圓寺から保原の本
寺長谷寺に移った住職は
今日まで一人もいないし、逆に本寺から下がっ たとみられる住職もいな
い。他の末寺から法圓
寺に昇ってきた住職はおられる。これは、長谷 寺の末寺として登録されて
はいたが、かなり独
立性の高い寺であったのであろう。

※ 法圓寺の敷地は天文七年(1538)の「段 銭帳」によると伊達家の旧臣で桑折出身でそ の当
時出羽の国長井庄のの伯楽(ばくろう)の
名家(馬医)・桑島氏の館であった。おそらく法 圓寺は桑
島氏のあとの役割を受けて(伊達家
の出先機関)その敷地を譲り受けて法圓寺が 建立されたの
であろう。「法圓寺一宇建立之
僧」と位牌に明記されている當山開基宥圓快 雄大阿闍梨(1635
~1694)は元禄七甲戌年
(1694)五月二十二日に60歳(満59歳か)で 遷化されているから、快
雄大阿闍梨26歳のと
きにはすでに法圓寺は建立し終わっておられた ことになる。法圓寺創立期
は快雄上人15〜2
5歳までの間{安三庚寅年から万治三庚子年 (1650~1660)}になることはほ
ぼ間違いないとい
える。今から三百六十年ほど前の創建とな る。それ以前は伊達家の旧臣桑島
氏の館で
あったから、伊達家が米沢から仙台に移り伊 達家の家臣達が桑折から仙台に移動し
た時
期の創建である。それにしても、朝日山とい い、桑島氏といい、出羽といい、伊達家とい
い、法圓寺建立の奇縁が伺える。
 余談になるが、近年、月舘の伊達家ゆかり の長谷部氏の依頼を受けて、『おでひめの短 刀』平
成十一年まで御安置させていただいた
経緯も不思議である。この短刀は長谷部家に 戻った。ど
うも、伊達家・出羽・奥州平泉・源
氏・佐藤一族の見えない流れが背景にあるよ うだ。

 ※さて、法圓寺は、はじめ湯殿山に関係する 僧によって建立された真言系の寺院であった が、
その後、幕府の政策により、本末関係を
登録せねばならず、幕府指定の地方の本寺 長谷寺の
末寺として届け出たことは前述の通
りである。保原の長谷寺の末寺筆頭として配さ れたことは江
戸の「寺院本末帳」にも記されて
いるが、届け出が第一番目になされたからで ある。保原の長谷
寺本山は醍醐報恩院であ
る。後に明治になって豊山派に組み入れられ た。このとき豊山派に組
み入れられた寺院は
「寺院本末帳」からの推移を見ると本山を江 戸の弥勒寺とする福島の真淨
院を本寺とする
末寺一派と伊達家の菩提寺であった亀岡寺 系列の寺院及び醍醐報恩院を本
寺とする長
谷寺一派である。

 江戸の頃は、法圓寺も、この地方における出 羽三山信仰の中心の寺として重要な寺であっ
ことは、桑折が伊達家発祥の地であり、奥
州街道、羽州街道の分岐点であり、交通の 要所、伊
達家の要所でもあることから伺える。
出羽三山の内、湯殿山が真言の醍醐三宝 院流の流れを
汲んでいることと、長谷寺が醍
醐三宝院の中の報恩院流の流れであるから、 法流のうえからも深
い関係が見られる。


○文化十年(1813)新潟県蒲原郡『乙宝寺 本尊出開帳』先寺院として法圓寺が出てく る。
 また、貴重な文献として最近石井僧正(伊 達町福厳寺)からいただいた資料によると、文 化十
年(1813)新潟県蒲原郡乙宝寺の『乙
宝寺本尊出開帳記録』(中条町郷土史研究 会報)にこ
の地区の代表格として法圓寺が出
開帳寺院として選ばれている。法圓寺のあと は松川の西光
寺である。このときの住職は當
山十一世宥精上人最晩年の時代であり、愛 宕大権現(北越の
田沢何某寄進)・秋葉大
権現を當山に勧請(文化五年)した住職でも ある。このときにはすでに
次の第十二世堯空上
人も在寺しておられたかもしれない。
 この『乙宝寺本尊出開帳記録』には当時の 法圓寺の檀頭として「田村武左衛門」・「菊田
右衛門」両氏の名が出ている。

いずれにしても、法圓寺開山の由来が見えて きたような気がする。



2003年05月19日


風流の初めや おくの田植うた    芭蕉真蹟




享保四年(1719)に建立さた法圓寺の「田植 塚」の傍に、
小職好久が長いこと念願しておりました
松尾芭蕉の真蹟「風流の初めやおくの田植う た」の句碑と
(芭蕉が須賀川で詠んだ句の真蹟をこの塚に 埋めて供養したという故事に由来して、芭蕉の
筆を石に刻みました。)

同じく享保四年(1719)に発刊されました『俳諧 田植塚』の原本の序文とその当時の法圓寺 の境
内図を石に刻むことができました。

石はある檀家の方から奉納していただいたもの です。





2003年01月30日


風雪に耐える寺





昨夜来の暴風雪に、朝方おそるおそる起きて 戸をあけてみましたが、いづれの戸も凍り付い てビ
クとも開かないのです。しばらく、全く外に出
ることができませんでした。やっとの思い出外に 出ま
すと、ご覧の通り、本堂がすっかり雪で覆
われて、混乱しているのも忘れるくらい、ハッと するほど
美しいものでした。

「凛として風雪に耐えて法圓寺」 





2003年04月12日


内陣の御本尊





手前:〔宗祖〕弘法大師・空海 
 「南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコン ゴウ)」

中間:〔秘仏〕歓喜佛(ヘールカ:チベット500 年前)

最奥:〔本尊〕大日如来(金剛界)
 ・殃淹湫折爪舗檻

光明真言(オンアボキャベイロシャノウマカボダラマニハ ンドマジンバラハラバリタヤウン)   





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