【はじめに】 萬歳楽山は人類の意識の変容をうながしている |
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萬歳楽山は人類の意識の変容をうながしている
龍雲好久
 
はじめに、いささか専門的用語が多く恐縮ながら、萬歳楽山からさまざまのプロセスを経て、いまここに小職が感受する内容を記したい。
というのも、小生にはとうてい及びもつかない不可思議なる現象に誘われ、萬歳楽山に導かれ、その根底に流れているものが、
『般若理趣経』に示されている「阿字本不生儀」であることを萬歳楽山自身によって初期のころから示されてはいたが、浅学非才の小生には
全く解明し難いものであった。
しかし、偶然というより、必然的に栂尾祥雲博士の『理趣経の研究』の「普賢金剛サッタの立体曼荼羅としてのボロブドール」の研究書に触れて、
はじめて、この萬歳楽山に響いている本源がいかなるものであり、なにゆえ、小生のような無学のものが、見えざる力で、この山に導かれてきたわけ
を理解したのである。
なにゆえ、この萬歳楽山に凡庸愚劣に過ぎない者がいざなわれてきたのか。
この山がいかなる山で、その根幹の流れているものとはいかなるものであるのか。
地球変動と人類の文明の大転換期にあるなかで、なにゆえ、いま、萬歳楽山なのであろうか。
見えざる法縁に導かれてとはいえ、その全てが不可思議で深淵なるものから明らかな現象として示されてきているので、いかに愚鈍のものとはいえ
萬歳楽山によって導かれ、明らかになってきた本源について、はじめに、記しておくことは、小生の責務であると感じている。
「萬歳楽山によって導かれた本源について」(龍雲好久記)
①萬歳楽山は、「宇宙の根源にして、個々の生命の基本たる、無始無終の普門本體の金剛サッタ即ち
本初佛たる普賢金剛サッタの性海より、大日、阿シュク、寶生、彌陀、不空成就の五佛を始め、神々の樣々の色身
を示現し、種々様々の説法と、種々樣々の意慧を啓示する妙用の立體曼荼羅の山である。」
②萬歳楽山は、宇宙の根源にして、個々の生命の基本たる、無始無終の普門本體の金剛サッタ(普賢金剛とも、普
賢法身等とも云ふ)は第六會の金剛頂經たる廣本の般若理趣經などで、 これを最上根本佛(Paramadya-buddha)と
云ひ、『文殊菩薩最勝名義經』(Namasamgiti) などでは、本初佛 (Adi-buddha)として示されているものである。
③萬歳楽山は、普賢金剛サッタの曼荼羅壇であるが故に、『萬歳楽山供養儀軌』として、不空三蔵訳『般若理趣經』と
『紅玻璃秘法』をブッダ親説を根本にして心解し、意識の変容すべきことをうながしている。
大興善寺三蔵沙門 不空訳『大楽金剛不空真実三摩耶経般若波羅蜜多理趣品』
大興善寺三蔵沙門 不空訳『無量壽如來観行供養儀軌』(弘法大師傳『紅玻璃秘法』)
である。
④萬歳楽山は、無始無終の普門本體の金剛サッタ即ち本初佛たる普賢金剛サッタであり、この普賢金剛サッタ
によって、萬歳楽山にひびいている『般若理趣経』の「ブッダ親説に基づく阿字本不生の解」が重要である。
⑤萬歳楽山は、天地自然によって創造された制底(Caitya)であり、仏塔であり、卒塔婆であり、曼荼羅である。
(ジャワのボロブドールは人造の建造物であるが、奇しくも、自然界において、潜象・現象が互換重合し、顕現した
霊山であり、仏塔であり、卒塔婆であり、曼荼羅である。
⑥なにゆえ、萬歳楽山に無始無終の普門本體の金剛サッタ即ち本初佛たる普賢金剛サッタが顕現しているのか?
その理由として考えられることは、これまでややもすると見失われがちな釈迦牟尼仏の親説「阿字本不生」の覚醒による
人類意識の変革をうながすことが、いま、ここで、不可欠であるからであろう。
すなわち、これまで、
〈人類が虚妄の思想や宗教やイデオロギーの謬見に堕していることへの警鐘〉
〈物質偏重の片寄りすぎた文明がもたらした天地自然や宇宙に対する人類の直感能力の回復〉
〈潜在・現象の重合による天地創造の実相を把握し、それが故の金胎両部不二の体・相・用であること覚る〉
よって、法身塔とは現象と潜象の三身仏の塔であり、卒塔婆であり、曼荼羅である。
ここに奉安すべき、釈迦牟尼仏の「ブッダ親説」・竜樹菩薩の「般若論」・弘法大師空海の「阿字本不生」である。
龍樹の『般若論』の「帰敬偈」に知覚されている「ブッダ親説」は、
まさに、万生万物一つ一つの「いのちの核心」に据えられた大宇宙体の根本原理である。
龍樹の『般若論』の「帰敬偈」
滅するのでなく、生ずるのでない。
断滅でなく、常住でない。
一たるものでなく、区別のあるものでない。
来るのでなく、去るのでない。
と、その方は戯論の寂滅した吉祥な「縁起生」を説示なさった正覚者である。
そのような説教者の最勝の方に私は敬礼する。
⑦法圓寺に度々出現し続ける氷の聖像や三角四面体によって導かれたところののものは
ハーッタッククの『エノクの鍵』や楢崎皐月の『日本の上古文明と日本の物理』や日本の『記・紀』、『旧事
紀』、や空海の傳持の金胎両部不二の曼荼羅や両部神道の『十種神寳』・『麗気記』などは、神話や
密教における単なる標示や象徴というのではなく、現前する天地創造における「潜象と現象」が互換重合する
実相としての天地自然の幾何学構造を明らかにしたものであることである。
まさに、宇宙の根源にして、個々の生命の基本たる、無始無終の普門本體の金剛サッタ即ち本初佛
たる普賢金剛サッタの阿字本不生の先験なる性海より、大日、阿シュク、寶生、彌陀、不空成就の五
佛を始め、神々樣々の色身を示現し、種々様々の説法と、種々樣々の意慧を啓示する妙用の刻々に新
生創造している立體曼荼羅であることを如実に示すものである。
⑧よって、『般若理趣経』は普賢金剛サッタのことを、「大樂金剛不空真實三味耶」と云ひ、これを
呼ぶに最高本初佛、即ち最上根本佛(Paramadya-buddha)の名を以てして居り、それがゆえに、
「大樂金剛不空真實三味耶」がブッダ親説の「阿字本不生」である。
「阿字本不生」はゴーダマシッタールタ釈迦牟尼佛・ナガールジュナ龍猛菩薩・龍智菩薩・金剛智
三蔵・不空三蔵・善無畏三蔵・一行阿闍梨・恵果阿闍梨・弘法大師空海によ傳持された秘法である。
それを現代に甦らせるためには、その根底にブッダ親説とJ・クリシュナムルティのコメンタリが小生に
とって重合するものである。
これにより、人類は虚妄から自由になって阿字本不生に供応する原理を感受できると確信する。
⑩近年の『万物の理論』や『新宇宙論』が、仮説とはいえ、古来より自然現象への直観や宗教的覚醒
によって神話や宗教的象徴として示された阿字本不生の潜在現象の法理に肉薄しつつある。
⑪最新の宇宙理論にも、ブッダ親説が指摘する「虚妄性や欺瞞性に対する厳粛なる検証」が求められ
ており、絶対主義や教条主義的宗教の欺瞞性を喝破しつつある。
⑫人間の欺瞞性に対し、厳しく迫り、無始無終の普門本體の金剛サッタ即ち本初佛たる
普賢金剛サッタの「大樂金剛不空真實三味耶」を証すことが重要である。
⑬われわれが、日本の神話や両部神道以前に伝えられてきた天地自然の潜象と現象の物理への直観性
を取り戻し、確立することが、いま、ここで、真に問われている。
⑭萬歳楽山に登らんとされる方々に望むこと。
萬歳楽山における方壇五層の繞道に於ける見えざるものの佛像、並びににそのビジョンは、本初佛
としての金剛サッタ、即ち普賢金剛の性海より發現する妙用が作動していることを感受されたい。
その萬歳楽山の妙用とは、
●「金剛部の妙用」:心の眼を開いて宇宙の本體たる大生命に合一する金剛部の妙用。
●「寶部の妙用」:至る所に宇宙の寶を發見して、これを公正に使用する寶部の妙用。
●「蓮華部の妙用」:宇宙特に萬生萬物の本性を實の如くに觀察して、その自性があたかも蓮華の泥中に生じてその汚泥に
染まらない如くに清浄のものなることを了知し、互いの自己確立を敬い、慈しみの調和に満ちた世界を響かせる
蓮華部の妙用。
●「羯磨部の妙用」:自ら宇宙の大生命としての活動體なることを悟ると共に、如何なる艱難や迫害に遭遇しても、撓まず
屈せず新生創造する精進の羯磨部の妙用。
との四種の妙用が響いている如来性顕現の霊山であることに敬意を以て登山されたい。
萬歳楽山は天地創造によってもたらされた立体曼荼羅山なるがゆえに、霊山とするような人為的建造物や伽藍は一切ない。
誰でもが分け入ることのできるただの平山である。しかし、人類の意識の変容を促す霊山であることを感受されたい!
さらに萬歳楽山の四種の妙用が仏教の六波羅蜜につい示している。
すなわち、
金剛部の妙用は、菩提心を以て戒とする「尸羅波羅密」にして「忍辱波羅蜜」を兼ねる。
寶部は「壇波羅蜜」である。
蓮華部は「般若波羅蜜」にして「禪那波羅蜜」を攝する。
羯磨部は「精進波羅蜜」である。
更にこれを、現代的に意を迎へて云へば、
金剛不壊の生命の世界と、
寶の世界と、
愛の世界と、
自由活動の世界と
になるので、この四世界を順次に主どるものが、阿シュク、寶生、阿彌陀、不空成就の四佛である。
故に萬歳楽山の見えざる制底では、
これを方壇第一層より第四層に至る四方に安置し、
更にこの四佛四世界を一として統轄するものが、如來部の主たる毘盧遮那なるが故に、これをその上
層の四方に奉安してある。
而も、この五佛五部五世界の妙用は悉く圓壇三層の普賢の性海より發現するものなることを象徴した
るのが、
萬歳楽山のボロブヅウルに見られる制底と等しき所以であること。
以上、萬歳楽の神秘性について述べ終わる。
参考文献:『理趣経の研究』栂尾祥雲著 密教文化研究所発行から「普賢金剛薩たの立曼荼羅
しての ボロブゾウル(抜粋)」
https://drive.google.com/file/d/1vctP1kGv1XyLR-TfICLya509Tl3dHYFy/view?usp=sharing
(以下 過去の記事)
弘法大師は『声字実相義』の中で
法身とは諸法本不生の義、すなわちこれ実相の義なり。
五大にみな響あり 十界に言語を具す。
六塵ことごとく文字なり、法身はこれ実相なり。
とお示し下さられておりますが、小生の萬歳楽山のひびきに対しても大師 のこの教えを核心
据えていたいものです。
ところで、このページに記載させていただきましたことは、小生の身近な自然界(人々と
の遭遇も含めて)を通して示される不可思議な現象との遭遇を記しております。
しかし、色々と不可解なことに遭遇いたしたとしましても、それをどのように 受け止め、
どのように理解するかについては、やはり、個人の受けとめ方にかかりますので、それを言葉に
してお伝えしようとしましても、限界がございます。まして、小生の愚鈍性は免れ得ないこと
ですから、いささか忸怩たる思いがいたします。
しかし、これは、何か、やはり、訴えかける ものがあるのではないかと、自身の迷妄と愚劣
さをを顧みず、考えてま いりました。また、これまで、様々な方々との邂逅により導いていた
だいたこともあり、できるだけ素直に、自分の感ずるままに、表現させていただきました。
ですから、ここに記載させていただいていることは、あくまで一個人の見解に過ぎません。
不可思議に思えるものとして表現しておりますが、いわば、個人が見た景色を、下手な表
現ですが、一つのカンバスに描くようなものとご理解いただければありがたく存じます。
なお、一連の記事は萬歳楽山に関わって以来、その現象に対する小生のくみ取り方にも、
刻々に変化せざるを得ないモノがありますので、ご理解賜れば有り難く 存じます。
合掌
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