五月雨の 初めや終わりや お香盛り

少年期に佛教童話全集に触れて、仏道に対するこころざしが芽生えて、仏教の大学に進学したのだが、実践仏教における声明はこれまで素養が皆無で、全くわからないものであった。或る高徳の僧がいることを教えられその門を自分で叩くよう促され、天命の邂逅に導かれた。
この高徳の僧に「仏に仕える機縁は希有のものである。まず、寺に随身し、学びの足場を得るように。」と、この僧が生まれ育った深川の或る真言宗のお寺を紹介されて、その門を叩くことになった。18歳の頃であった。
紹介を受けて、初めてこの寺に挨拶に伺った。「挨拶はいいから、忙しいので、塔婆の下書きを今してくれないかね。」といきなり6尺の塔婆ひと束をどんと置かれて、硯と墨と筆が用意された。(後でわかったことだが、檀家さんが900戸を超えていた。)実は、これまで塔婆を書いたことは全く無い。どうしてよいかかわからないでいると、この寺の若住職が「な!なんんだあ?おまえ!塔婆も書けないのかあ?」
「ハイ、書いたことありません。」
「なんだなあ。塔婆書けないなんて、そんなあ、なんで、こんな役立たずなんぞ送り込んできたんだ。一体どうするっていうんだよ。ったくー、何考えてんだか。」とことばを荒げて怒りだした。なんとも所在が無いので黙っていると、「しょうがない!法事があるから、二階の本堂に上がって、コウモリをしてきてくれ。」
(ん?コウモリ?一体何ことだ?)と、グズグズしていると、
「なんだあ?おまえ、香盛りもわからんのかあ?おまえ、本当に寺の子なのか?まいったなあ、一から教えないと使えないんだ。このくそ忙しいのに・・・こんな何もできない学生なんぞ預かれって言われても全く迷惑千万だろう。いらないなあ、こんな者!」そう言って本堂に行ってしまった。
しばらくして戻ってきていうには、「おい!お前!ここに随身したいんなら条件がある。卒業までの4年間おいてやるんだから、寺からの手当ては一切無い。もちろん大学の学費は自分で工面しろ。そして、卒業したら、一年間はこの寺でお礼奉公することが絶対条件だ!親と相談して来い。」
田舎に戻り、親にこの話をしたところ、
「そらみたことか!私のいうことを聞かず、そんな仏教大学に進み、得たいのしれないよくわからん寺の門など叩いて、住み込んでなおかつお礼奉公だなんて、今時そんな話あるかい!お前バカだったなあ。これじゃ、人生全く狂ってしまうだろうが・・・!だめだ、そんなところに行くな!
一年浪人したと思って受験勉強して、国立大学を受け直せ。」と、父は本当に落胆してしまったようだった。
あれから、57年経った。私はさまざまな経験を頂いて、今、自坊で五月雨の音を聞きながら、静かに香盛りをしている。
ふりかえってみるに、大寺に育った母の縁で家族してこの寺に入寺したものの、父が教諭を務めながらの在家であるということもあって、私は寺のことなどはほとんど無教育に育っていた。
それでも 小学校4年生のときに、当時出版されたばかりの大法輪閣の『佛教童話全集』十二巻を、その頃、住職になるための夏休みの休暇を利用して修行に出ている父から、突然、送られてきた。この『佛教童話全集』十二巻に触れて、わたしの心は一変した。その当時、この町の環境になじめなかった私は学校に通うことが苦痛で、ほとんど休みがちの状態にあった。もちろん学業成績は目も当てられないほど惨憺たる有り様であった。童話とはいえ、漢字のほとんどが読めないから、読むにかなり難儀していた。当初せいぜい挿絵を眺めるぐらいが関の山であった。だが、その絵に引き込まれ、読み進めるうちに仏(ほとけ)の教えというものに光りを得たように心が清々し、非常に興味が湧いてきて、どうしても、読み切りたいという強い衝動が働いていた。そして、なんと、土日の2日間で読み切ってしまった。そのとき、私の心は一変してしまった。そう!見えないものがはっきりするように心の視界がぱあっと明るくなっていた。病弱な母とともに引きこもりがちであったこころに法燈が灯ったのだと思う。(私は生きていていいんだ。生かされているいのちなんだから。そうか、私はほとけの弟子になるために、この世に生かされていんだ!)そのような思いが心の奥の奥の方から、強く湧いてくる不思議な感覚をいまでも覚えている。この瞬間から、あれほど苦手だった学校や学業や人とのコミニケーションも苦にしなくなった。相変わらず鈍重な私ではあったが、自分は自分だ、という感覚が蘇り、初めて生きた心地がした気がする。 しかし、仏道修行の志を立てたようだったが、一体、どこに、どのようにして進めばよいのか、皆目見当がつかなかった。小学5年頃から、しきりに「仏弟子になるために修行に出たい。」と、父や大寺の伯父に、何度も何度も尋ねていた。が、どうしたわけか、このとき、歓んでくれると思った父や伯父からは、勉学放棄と思われたのだろう、「無住になりがちなこの寺だけで暮らすことは難しい。おまえは、先ずは小中高を経て大学に進学し、よい就職先を見つけて、自分の力で生計をたてられるよう自立の道を歩むことが仏道修行の第一歩だ。それからでも、坊主になるのは遅くはない。」と跳ね返されてしまった。
もちろん、もともと学校嫌いできた私に一般大学に進学できるほどの力量は初めから無いと自分で思い込んでいた。他の道を歩むしかないと。(団塊の世代であったので受験戦争の時代であった)
それでも、親の意に反して、巣鴨にある仏教系の大学に進学することを選択した。
しかし、仏教の大学とはいえ、学問の場であるから、子どもの頃に童話を読んで描いていた修行の場とは全く異なる。代々続いてきた大寺の跡継ぎが大半の学生であったが、彼らは寺の子達なので実践仏教などでは経文や陀羅尼を唱えることなど幼少の頃から身についているので、私のように無教育のものとはスタートラインが違っていた。 仏教系の大学に進学したものの、大きなショックと壁はまずこの無知なる自分であった。次にショックなことは、私がこの大学に進むならせめて文化系にしてくれると父に懇願されて、文学部哲学科宗教学を専攻したのであるが、指導教授は東大の宗教学でも教鞭を執っていた教授で、その宗教学のレベルは世界的にもトップレベルではあったが、想像もしなかった『仏教とキリスト教の比較研究』で著名な学者が主任指導教授で、彼のゼミに英語やヘブライ語で聖書を読むこなどを行っていたのである。
仏道修行を志しては見たものの、この大学で自分はお門違いだったことに大きなショックを覚えざるを得なかった。だが、この教授の主張する「仏陀の教えを原始仏教と呼ぶ輩を許せない。われわれは仏陀の教えを根本仏教とする。」という。その通りであるなあとは思っていた。しかし宗教学という学問の研究室だったのであるから愕然としたことは確かだった。 研究室においても、また、組み込まれていた実践仏教の場においても、自分のこれまでの了見がいかに狭く、無知で、しかも、無能であるか!ということをいやっと言うほど知らされたのである。
大学入学した夏休み、実践仏教に全くついて行けないので、田舎で父に相談し、大寺の伯父に相談したものの、どういうわけか、また撥ね除けられた。
どうしてもお経を学びたいなら自分でこの方の門を叩けと突き放されて、東京都清瀬市在住の高徳の僧をお尋ねした。
そして、この老僧との邂逅が、仏道を歩む最大の転機となった。当初、この大阿闍梨をお尋ねしてご教示賜ったのはわずか10日ほどではあったのだが、それ以降の私の人生の全ての教導の第1原因となっている。すべてのものの法燈を点してくださったのである。般若理趣経の伝授、真言声明・真言加行・灌頂、便壇、雲傳神道、密教観法、とくに真言以外のさまざまな教訓や或る霊的教師への引き合わせ(この教師との邂逅が更に大きな転機となった。)による導き、更には、母への孝養のためにと生きる喜びと病者加持の秘法などかぎりない教えと導きを賜って、今日までの私の活動の心の核となっている。
その老僧から、僧になるなら、寺に住み込みながら勉学に励みなさいと、深川の某寺院に随身できるようお手配いただいた。
とはいえ、この頃は大学に入ったばかりで、しかも、前述のように寺のことは全く何もわからずに育っていたので、さあ!大変であったのだ。
あめつちに 遍照金剛 ただひとり

五相成身観という観法によって、釈迦牟尼仏が遍照金剛光り輝くものそのものとなられました。
そして、あらゆるいのちは光り輝けるものの唯一の顕現であることを指し示された。
これをまのあたりにしたことがあります

なむやなむ 雪こうぶりて 黒不動
半田山の手前に黒山という清浄なる山があります。どなたも気づいておられぬようですが、 この山は霊妙不可思議なる身色青黒なる大聖不動尊に思われてなりません。 アルナチャラメルカバなる三角火輪のかの大聖不動山なのですが・・・・

まだ桜が咲き残り 桃の花が満開の桃源郷気温が29.2度季節外れの暑さに耐えかねて 田起こしも 田の水張りもまだなので草むらの露に隠れて涼をとるカエルがぴょこぴょこと 草むらからでてきました
遠くの森で鳴いていた鶯の声も だいぶ近くなっています。
ときおりキジの声がケーン、ケーンとして季節外れの真夏日です |
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法圓寺には創建のときからの柘榴の木がある。 芭蕉翁追善興行の俳句にもときどき読まれることもある。 とげのある木を嫌う庭師が入ってからというもの、この柘榴の木処分されるところだったが 寺にとって大事な木だから残すように頼んで移設してしてもらったが、老木なので数本枯れてしまい 今では2本だけかろうじて生きている。 今朝、何気なく、棘のある木に葉が燃えだしてきて、おお!今年も元気だねと声をかけてしばらくみていると 柘榴の木の根元で角を生やした幼子が楽しそうにダンスをしている。 柘榴の木の妖精か?でも、柘榴は朱のあざやかな花を咲かせるし、その実は「屏風の影にお姫様千人 なーんだ?」 と昔からクイズにもあるように実には綺麗な赤い粒がたくさんあるから、妖精にしては、幼児とは・・・不思議に思って、調べると、 鬼子母神を祀る寺に柘榴があるという。 古今東西を問わず柘榴は子孫繁栄、子安安寧をもたらす木であると伝えられているという。 神話や伝説ばかりでなく、実際にこの寺にまだ生きている柘榴の木には子どもを守護する霊力があるのだろうと思われる。

朝日さす 柳若葉の いのち萌え
山里の桜や桃の花が満開のころ境内では柳の若葉がいのちの光を浴びて耀いています

春やはる ひたすら あるじの 帰り待つ
おお!なんとけなげなことでしょう。
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