真言宗豊山派



大光山正徳寺(廃寺)の阿弥陀大仏


廃寺『大光山正徳寺』本尊阿弥陀大仏の所縁


https://youtu.be/T5Ll94U9K_0

●被傳の経緯 

平成二十三年八月二十九日のこと。

 貴き佛縁を被り、補陀洛山善明院歓喜寺本堂内位牌堂に安置されし阿弥陀大佛に初拝仰したてまつるを得た。

 以来、このご本尊如来から頂戴するヒビキには、途絶えることなく続き、そのわけをお尋ねするに、「尋常ならざる苦悩に喘ぐ衆生をして慈悲救済の大誓願による」と、御自ら明示された。

 小生の貧相なる妄想で片付けられるそうもなく、いま、少し、その経緯について明らかにし、この大仏の御誓願を法縁のみなさまにもお伝えしたい。
 
 大仏初謁以来、不思議なヒビキに導かれるまま、先ずは、このご本尊を位牌堂から、歓喜寺本堂正面より入ってすぐ左、西を背にした処に移し(そのように如来からの直接の響きを感じ)ご安置申しあげた。そのおり、たまたま、大佛の御体内に、「大佛建立の所縁」の墨書きがあることを発見。次に掲げるごとく墨書きされていた。


 

 享保六年辛丑歳八月吉日(西暦1721年)
 大安寺十世 木蓮社良覚上人弟子
 大光山 正徳寺 住職 四世 想蓮社 良環團秀代
 施主化者 桑折町在住 角田三左衛門
 更に
 □供 俗名大和□彌□衛
 釈空心
 釈妙信   不退位
  角田三左衛門 花押
 □菩提也
 
更に その隣には
 
 文政十二巳丑歳二月吉祥日(西暦1826年)
 宥政 本尊 持久
 湯野不動寺大阿闍梨法印宥精佛子
 歓喜寺五世 法印 宥政

 この墨書きによれば、この阿弥陀如来が、何時、何処の寺で、どの住職と施主檀那によって造立されたかが明らかである。

 調べてみると、大光山正徳寺は桑折町にある現身の守一山無能寺の前身の寺名である。

 無能寺寺傳によると、正徳寺は第四世にしてひどく衰微したとある。 それを憂えた正徳寺第五世「不能上人」が、正徳寺再興ため、当時、希有高コの法兄「無能上人」の御威徳にあやかり、弥陀本願のご念仏を高揚しつつ、二十余年をかけて全国勧進された。
 「無能上人」は在住寺の住職には赴任されざる方なれども、その峻厳なるご念仏三昧の聖行の傑僧であった。その御名は全国に知れ渡り、念仏衆徒はこぞって「無能上人」を説法を聞き、拝み奉らんと、上人の住まう桑折の半田にある草庵に詣でたという。僧俗を問わず上人を慕うものの来訪、絶えることなく、日々、数万人にも及んだという。
 さて、正徳寺五世「不能上人」はついに、正徳寺再興の誓願かなって、復興。直ちに、正徳寺を廃して、すでに遷化されし「無能上人」を第一世とする「守一山無能寺」の浄土宗一山の新寺建立となる。
 爾来、この無能寺は、今日に至るまで、浄土門の大檀林として全国に名を馳せ、僧俗老若男女を問わず阿弥陀念仏三昧の高貴な寺院となる。

 ところで、北半田の真言宗歓喜寺に古くから祀られていたという大仏阿弥陀如来は、長い間、所縁不明な阿弥陀如来であった。古老の伝えでは、この阿弥陀如来は歓喜寺の近くにあった阿弥陀堂にあったが、堂宇朽ち果て、参詣人もなく、一時、小坂の禪寺預かりとなった。やがて、近くの歓喜寺預かりとなったという不遇な変遷を経ているとのことだった。しかし、詳らかには誰も聞いているものはなく、不明であったという。

 今回、不可思議なご縁で、その阿弥大佛の御体内に記された上記の墨書きを発見。彼の正徳寺第四世想蓮社良環團秀大和尚と本寺「大安寺」大檀那でもある角田三左衛門によって建立された造立佛であることが明らかにされた。

 いま、このときに何故かと、不可思議でならない。これまで誰も気づかなかったというのがまた不思議で成らない。

 奇しくも、平成二十三年八月二十九日、小衲、歓喜寺における突然の事情で、東日本大震災被災著しい歓喜寺本堂内に入り、被害状況を調査するなか、本堂裏の位牌堂にて、この阿弥陀仏に初めてお会いした。

 そのとき、なんと!こともあろうに、この阿弥陀大佛の御両眼から滂沱たる涙の流れたるを見て(光の加減ではあろうが)、しばし、呆然自若、身動き一つできずにいた。
 内心、(果て、これは、何としたことか。この歓喜寺の事情を憂えられてのこの御本尊のお悲しみであるのか?)しばらく、このご尊像の御前に佇んでいた。
 すると、やおら、この阿弥陀仏の御声が確かに聞こえ、わが心に響いてきたのである。

「多くの人々が苦しんでいるこの大事なときに、私をこのような奥にしまいこんでおかないでおくれ。私は、あらゆる生きとし生けるもののココロの支えとなって、苦しみを救済べく、発願されて刻まれている。お願いだから、誰もがお参りできるところに、私を置いておくれではないかえ・・・」

(それは何処にお祀りさせて頂ければよいのですか?)とお尋ねすると

「この寺の本堂正面より入って、すぐ左奥、西を背にした処だよ。・・・」と仰せになる。

 数日後、早速、この寺の総代さんがたに相談した。
 なんと、「この阿弥陀さまは昔は確かに本堂を入ってすぐ左手奥。西を背にした処に祀られていて、子供の頃にはよく台座の下に潜って遊んだ記憶がある。」という話であった。

 そこで、急ぎ、この阿弥陀大佛を御移座申しあげようと、六人ほどでお運びしお移し申しあげた。
 そのときに、この佛の御体内に墨書きが記されていることを発見したのである。

 折しも、千年に一度という東日本大震災の地震と津波と原発放射能汚染の未曾有の大災害に見舞われて間もないときであった。小衲、萬歳楽山信仰開山や法圓寺境内に現出する氷の聖体現の不可思議さとも相まって、この、不可思議なる阿弥陀如来の御音声に言い知れぬご法縁のしからしむるところを深く感じざるを得なかった。
 故に、いかなることがあろうとも、小衲、まことに愚僧なれども、生涯を赦される限りを尽くして、ご法縁を頂戴せし、法圓寺・歓喜寺・廃寺正徳寺の三本尊に念仏三昧のお給仕をさせて頂く決心をせずにはおれなかった。

 更に、この正徳寺の本尊の御前で黙想しているときに、驚愕すべき御導きを被ったのである。それは、その本尊供養の際に自ら修法すべき法を、直に、御本尊から戴いたのである。
 それは、修法次第である「紅玻璃色阿弥陀秘法次第」であった。

 ただ、せっかく、ご本尊の有り難い御内示を被りながらも、実は、阿闍梨から弟子へと口伝」を経た伝法のものではなく、直接内示という、何とも説明のしようもない出来事であり、しかも、小衲、極めて愚鈍の貧僧であり、とうてい佛の御導きに応えられるものとは思えない。この紅玻璃法を受け継ぐ阿闍梨から弟子へと口伝による、法脈や印信という重要な証は全く無い。傲慢不徳の越法罪に問われる代物である。

 しかし、そうではあろうが、確かに、間違いなく、この本尊の御前で起こった観相のビジョンは「紅玻璃色阿弥陀秘法」の核心であった。
 このビジョンについて次第を乞うべき阿闍梨は知らない。

 まさに、自身ににおいてこの三本尊のお導きに従うよりほかは無い。

 有り難いことに、確かなことで、如来からの直接のヒビキを頂戴してつづけている。
 それは、先に体験があり、しかる後に、その裏付けともとれる先師・先徳の著された「次第」が示されるということでその「修法次第」の準備は導かれた。不思議としか言い様がない。それ故、紅玻璃色阿弥陀如来は史伝や次第書として受け継がれる観法以上に、直接、実相として響いている現実の如来であるこ実感せざるをえない。

 その如来の直接の思し召しの一端は、以下の如くであった。

 あるとき、いつもの通り、歓喜寺本堂内の、亨保六年造立正徳寺本尊阿弥陀如来の御前でわずかばかりの阿弥陀仏の真言を誦じ、祈念を凝らしているときであった。

 突然、眼前に、真っ暗な虚空が広がり、そこにぽっかり浮かぶ碧き珠玉が顕れた。それは実に美しい瑠璃色の丸い珠玉であり、ちょうど、宇宙から見た地球のように見える。

 やがて、その地球上に白い雲海がたなびきだし、次第に包み込み、地球全体をすっぽりと覆い尽くすほどになった。しばらくすると、その雲海の雲間のアチコチで閃光が走る。やがて、地球の中心から、四方八方に閃光が長く伸び、放射されてきた。あらゆるものを貫き通す強い光のようであったが、その光は、決して眩しいものではなく、やわらかな慈光のようであり、恐ろしさはなかった。その光りは、生気に満ちた偉大なる光輝であった。

 やがて、その一条の光の一部が、緑がかった黄金の龍体へと変化した。その龍体は力強く流動していた。地球の中心から放射する光柱にそって8の字描くように流動している。しかも、旋回しながら、上昇し、下降している。龍体は無数の光の束であった。それらがまるで自転公転しながら、互いに全体として統合されているような、壮大なスケールで展開されていた。

 それは、また、よくよく観察すると、ちょうど、巨大な五鈷金剛杵を形作るような光の流れでもあった。

 その五鈷杵の芯、則ち、真ん中に地球のような珠玉があって、それを中心に縦横無尽にエネルギーが流動している。雲海の中に光が走り、五鈷杵が出現し、その五鈷杵は縦横に帯状の光となり、八輻の輪寶羯磨のようでもあり、八葉の蓮華のようでもあった。

 しかし、それは、もっと強大でダイナミックな流れがはたらき、宇宙から下降する三角四面体の火炎と宇宙へ上昇する三角四面体の火炎(光帯域)が互換重合している回転の場であった。
 
 やがて、光の放射の真ん中から、一条の光がまっすぐに、私へと伸びてきて、私の頭上から体内に流れ込み、今度は、その光に導かれて、私自身がその光の本である地球の中心へと吸い込まれていくように、向かう。
 その中心に近づくにつれ、蓮の花に囲まれた水晶のような柔らかな美しい球体が顕れ、その球体の芯のほうから、神々しい光、夕日のようなやわらかで、どこか懐かしく、穏やかで落ち着く、赤色の透明な球の光が射してきた。やがて、あたりもすべてその光り一色に包まれ、光りの他は何も見えない。

 更に吸い寄せられ近づくと、なんと、次第に、何か仏像のような姿が浮かび上がりだして、やがて焦点を合わせたかのようにはっきりと見えてきた、なんと!その中心には[寶冠をかぶった大日如来]が顕れ、輝いているのである。やわらかな光ではあるが、しかし、眼も眩む程神々しい光輝でおられる。

 畏れつつも、心を込めて凝視し続けると、やがてその大日如来の御手の印相に動きがみられ、いわゆる大日如来の「智拳印」から、大日如来の「法界定印」へと遷り、やがて「彌陀定印」で、この如来の印相は留まった。それ以上、動きはない。



 そのまま凝視し続けると、突然、視界が開け、天地一切の森羅万象、万生万物の生きとし生けるものの中芯に、この如来の光が十方から渦を巻きながら流入し続けており、光りは溢れだし、すべてを満たし、包みこんでいる壮大な光りの流れが刻々と動いている。その如来性からいのちの本源、光り本源が、個々のいのちを刻々に現象化させているのを親りにした。

 その遍満した如来の光が、局所化された個々性に阿弥陀如来として出現し、それは同時に背後に遍在する阿弥陀仏光と互換重合していて、時々刻々、決してとどまることなく阿弥陀如来の無量なる慈悲の光が創造の源泉となって、潜象と現象一つの光となって法輪を転ずるがごとく、万象万物に浸透していることを親りにした。

 嗚呼、これこそがブッダ親説の本不生の実相。弘法大師空海が示した阿字本不生であるのか!

 この、黙想は、すごく長いプロセスのように感じられた。だが、我に返ってみるとほんの数秒のことであったようだ。

 しかし、この導きにあって、間違いなくこれは、危機に瀕した地球上の大転換を導く如来性が、いずれも三〇〇年余前に造立された三体の御本尊を通して、ありがたくも万象万物の救済のヒビキが発せられておいることを確信する。

 しかし、いかにせん、小生は、微少にして、どうすることもできない。唯、このいのちの限り、これら三本尊の御加持擁護被らん賜らんことをひたすら念じ、させて頂くほか、何の能もない。それこそ、正真正銘の無能、不能の愚人にすぎない。

 とはいえ、この黙想を頂戴した後、自坊に帰り、別の件で、弘法大師著作の資料を調べていたのだが、なんと、そこで、いきなり、傳・弘法大師の『紅玻璃色阿弥陀如来供養次第』そのものがあることに行き当たった。
 それは初めて開いあたものであるが、その仮名に欠かれてあるものを見て、はじめて、自分が先ほどあの本尊前で見たビジョンが実は紅玻璃色阿弥陀如来のことだったと、それこそ初めてわかったのである。

 それから、だいぶ時がたって、このような、導きが再び起こった。

 今度は、不空三蔵訳の『無量寿如来供養作法次第』に行き当たったのである。しかも、この中に、紅玻璃色阿弥陀供養次第と同文のところがあり、しかも、この供養法次第が、わが真言宗大伝法院流で阿闍梨から授かっている「十八道供養法次第」の根拠ともなっているものであることを知った。無学でもの知らずとはのそしりは免れ得ないが、しかし、これは驚愕としか言いようがなかった。

 ここに至って、ようやく、愚僧が修法すべき紅玻璃色阿弥陀如来供養法次第を調えることができた。

 しかし、いくら経緯を説明しようとも、所詮、妄想類いで片付けられるものである。
 そうはいえ、佛から直接感得を戴いたものとして、他者はともかく、自身においては、ひたすら如法に取り組むのほかはない。

『紅玻璃色阿弥陀如来供養次第』法圓歓喜正コ版↓
https://drive.google.com/open?id=1th3xz_1ug3_AKtPaw1pQh6Okda7jQD4-


 正徳寺の阿弥陀如来が造立されたのは、高徳の傑僧無能上人が御遷化されてちょうど三回忌の歳であった。その施主角田三左衛門は大安寺の大旦那であり、無能上人を誰よりもしたい尊崇していた方であることは、町史にある寺の資料を見てもうかがえる。

 奇しくも、平成三十年はその無能上人の三百回忌の御遠忌にあたり、その法要が行われるらしい。このような年に、紅玻璃色阿弥陀如来供養次第に導かれたことは、まさしく、尊くも有り難き如来の思し召しによるほかはないと信じている。
                                     合掌
  平成三十年十月九日 

                        法圓寺 龍雲好久      


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