真言宗豊山派






法圓寺の諸尊






幻の弘法大師

昨年の12月1日に、お大師さまからの突然の強い内示を頂戴して(詳細についてはここで述べ得ないが)、平成18年12月5日、大阪の或るお寺(現在は廃寺)に江戸時代後期頃、京仏師(「廣」の落款が刻)が建立された『幻の弘法大師』(青銅製)を勧請させていただいた。お大師さまがご入定なされる頃(御年齢62歳)のお姿を如実に表現した秀逸な作品ではあるが、造形を超えた生き生きとしたリアル感が溢れ出たお大師さまで、実に温顔な慈悲に満ちており、拝する者の心をして感涙の涙を禁じさせ得ない有り難いお大師さまである。その、内的啓示というのはこうである。
「これまで汝を導きしはわれなり。まさしく人間が陥る蒙昧な古き概念や伝統、価値観、宗教観を打破しなければ、ダンマなる新しい叡智が創出することはない。人間の紡ぎ出す種々の硬直化した宗教の寄せ集めが曼荼羅ではないように、全的統合はダンマ顕現をおいてほかにない。わが願いはひとりひとりの内心のダンマ覚醒にこそあるのであって、新しい宗教を打ち立てるための教判ではなく、ダンマ探求のための教判であった。ために、われは常にダンマそのものとなって入定し、いつも汝らと共にある。そは汝らの内心においてダンマに導かんがためなり。汝はわが入定の深意を汲み取り、人々と共にダンマ探求にいそしめよ」と
「虚空尽き衆生尽き涅槃尽きなば、
         我が願いも尽きなん」
 大師の啓示を頂戴し、弘法大師とともにダンマ探求を志したいと思います






法圓寺 大日如来(金剛界)



だいにちにょらい[大日如来]
梵マハーヴァイローチャナ(Mahavairocana,摩訶毘盧遮那(まかびるしゃなと音写),
訳。大遍照如来・遍(偏)照如来
[名義]摩訶は大・多・勝,毘は普遍・広博・高顕,盧遮那は光明・美麗・与楽の義。
異名:最高顕広明限蔵如来(金剛頂義訣・不空撰・大39・1798)・無量無辺究竟如来(理趣経・金剛智訳・大8・241)・広博身如来(施諸餓鬼法・不 空訳・大21・1315:)・一切法自在牟尼(大日経疏18・一行記20巻・大39・1796)など。
 宇宙の真理そのものを現わすとされる密教の絶対的中心の本尊である。大日経疏には,その智慧の光明は除闇遍明であり,昼夜・方処の別 ある日の神とは比較にならない大光明が,遍ねく一切処に及び,慈悲の活動が活溌で不滅永遠であるところから,特に大を加えて〈大日〉と 称する所以を述べる。
 このように大日如来は,宇宙の実相を法身として捉えたもので,すべての諸仏諸菩薩はこの如来より出生し,すべの働きもこの如来の徳の 顕現とされる。
 大日経や金剛頂経は,らの如来の徳の現われ方を,多くの諸尊との関係において説いた経典で,それを図示したものがそれぞれの胎蔵・金 剛界の両部曼荼羅である。
密号は遍照金剛。
[形像]如来としては異例の菩薩形である。
A金剛界大日
[三形:塔(鑁一字塔),種子: vam, ah, om]
九会のうち金剛薩?を主尊とする理趣会以外の八会の中尊で,金剛頂経系の経典に説く。金剛頂瑞伽中略出念誦経(4巻・金剛智訳・大18一 部 866)巻3に,毘盧遮那仏を想ふべし,首として壇め中央に坐す。結跏趺坐して大威徳あり,色白鵝の如く,形,浄月の如し。一切の相好,皆,悉く 円満す。頭に宝冠を具して髪を垂れ,縮綴の軽妙なる天衣をもって腰に饒らし,披絏して而して上服と為す,と。諸仏境界摂真実経(3巻・般若 訳・大18・部868) 巻中には,頂に五宝の天冠あり,天冠の中に五化仏ありて結跏趺坐す。この観を作し已りて即ち堅牢金剛拳印を結ぶ。先 ず左右の大母指を以て各々左右手の掌中に入れ,又,左右の余の四指を以て堅く指を握りて拳を作す。即ちこれ堅牢金剛拳印なり。次に左の 頭指を竪立し,その左挙の背を心上に安当し,その掌面は転じて左辺に向かふ。即ち右拳の小指もて左拳頭指の一節を握著し,又,右拳頭指の 頭を以て右拳栂指の一節に往着し,亦心前に安んず。これを菩提引導第一智印と名づけ,又,能滅無明黒闇印と名づく。
この印の加持に縁りて,諸仏行者のために無上菩提最勝決定の記を授く。即ちこれ,毘盧遮那如来大妙智印なり。と,智拳印を詳細に記述す る。覚禅紗や朝鮮慶州仏国寺には,右拳の頭指を,左拳で握った反対の智挙印の例があり,円仁請来の八十一尊曼荼羅には,七師子座に坐 る異像がある。
B胎蔵大日[三形:率覩婆(飾のない五輪塔),種子:ah, a, kham.ma]中台八葉院の中心で主尊。大日経系経軌に説く。大毘盧遮那成仏神変加 持経(7巻,略称・大日経,善無畏・一行共訳・大18・848)巻1に,大日勝尊を現ず,金色にして暉曜を具し,首に髪髻の冠を持す。救世円満の光 あり。熱を離れて三昧に住す,と。大日経疏巻4には,阿字門を以て転じて大日如来の身と作す。閻浮檀紫磨金色の如く,菩薩像の如く,首に 髪髻を戴くこと猶,冠形の如く,通身に種々色の光を放ち,絹穀の衣を被る。これ首陀会天にして最勝覚を成じたるの?幟なり,と。印相は隠然住 三昧を説くから法界定印である。また軌に白蓮華座を説くが,現図詔は宝蓮華座である。
C四面大日:略出念誦経巻1に,如来内証の四智を願得する意で面向不背の義を表現した
ものとする。高野山瑜祇塔の本尊がこれに基づくといい,龍光院持仏本尊は極めて珍らし
い遺例である。金剛界大日如来が五智の宝琴を着けるのも四仏の智徳を統合し統一する意
の表現である。大日如来を安置するのが大日塔(石山寺は独尊の安置),五仏を安置する高
野山金剛三昧院の多宝塔(→)は五仏塔と呼ぶべきものか。遺例には,安祥寺(京博)や吉野
大日寺のは五仏一具で洛内安置の像と思われる。唐招提寺新宝蔵の客仏,高野山西塔,円
成寺(運慶弱年の作)などが有名である。大日如来と釈迦如来ど砂同体か別体の論議は,密
で論じられるが・・・・・
                   






法圓寺の釈迦如来 (法身説法の釈迦如来



しやかーにょらい[釈迦如来][(梵) Sakva-muni(釈迦牟尼と音写)。また釈迦文・釈尊,訳
は能仁・寂黙,密号:寂静金剛,三形:鉢。種子:bhah, sa]
仏教の教祖である生身の歴史的仏陀と違って超越的な如来として性格づけられるから,釈尊とは同体であるといい得るが,厳密には異体で, 大日経に変化法身と説かれるもの。寧ろ生身釈迦はこの尊の垂迹とする。しかしまた生身釈迦の働き・徳などを象徴する仏と考えられる。
[金]不空成就如来、[胎]釈迦院の主尊(90)であり,また,天鼓雷音仏と同体として,釈迦の密教的な位置づけといえる。
(1)[金]21の不空成就仏は,一切の無明煩悩を寂滅し,化他の事業が円満して空しくないの
意であり,
(2)[胎]の天鼓雷音仏は,天鼓が形相も住処もなく,しかも法音を演説して衆生を
警悟するように,大寂静に住しながら説法教化の働きが,天鼓が自然に鳴るように考えら
れた釈迦にほかならない。これらが北方の月輪・花葉に表現されるから《北方の釈迦》(第一重の釈迦)といわれ,これに対し,
(3)[胎]90の釈迦は,曼荼羅の東方にある釈迦院の主尊であるから〈東方の釈迦〉という。[形像]大日経疏ではく身は金色にして光輝と三十二 相を具え,乾陀色(赤黒色)で,白蓮華に坐して説法の相である。即ち左手は袈裟の角を執り,右手は指を竪てて大指・無名指を以て相持す〉と 教説を流布するための説法印を説くが,現図曼荼羅では,袈裟は同じく赤黒色でも,右京を胸の前に竪て,左手も胸前に掌を内に向けて竪て,両 手共に中指・無名指を屈げた印で現わす。また大日経には,臍前に両手を仰向けて重ね,両方の大指を曲げて鉢を持つ形の鉢印も説かれ,こ れらを複合した右手を説法印(吉祥印),左手を臍前に仰げて置く印なども説いて,応身の説法印(釈迦文仏金剛一乗修行儀軌,大19・938)とい う。陀羅尼集経1・釈迦仏頂三味陀羅尼品(大18・ 901)には,二獅子の戴く七宝華上に結跏趺坐し,右手は,臂と掌を仰向けて右膝の上に置き,指 頭は垂れて華上に至る相,左手は臂を曲げて掌を仰向けて臍の下に横たえる相で,左右臂の上に各3個と頭に七宝瓔珞を着け,頂上に七宝 の天冠を頂く姿を説く。このように宝冠・瓔珞を着けるのは〈報身の釈迦〉といわれる。
[印相]また説法印(智吉祥印)では,左手を胸前に仰向け,右手を左手の上に覆うのを下化・上求の表示とする考え方があり,大指・中指を捻ず るのを,報身説法印,大指・無名指を捻ずるのを法身説法印,大指・頭指を捻ずる応身説法印とする経説もある。印相や形相は経典によって 相違があって複雑であるが,[三昧耶形]は鉢で,袈裟・錫杖を加える解釈もあるが,鉢を通常の三形とするのは,やはり生身の釈迦と密接な関係 にある。仏教最初の[美術]が釈尊説話であるし,単独像として最も多く製作された。
密教では釈迦を本尊とする別尊曼荼羅として菩提場経曼荼羅(→)・宝楼閣経曼茶屋(→)が
ある。種類も釈迦八相・釈迦誕生仏・釈迦三尊・涅槃像・説法像・金棺出現図(→)・清涼式釈迦如来
 
                        






法圓寺の阿弥陀如来 

               
 あみだーぶつ[阿弥陀仏]
梵Amita-b.の音写。無量寿(Amitayus阿弥陀庚)・無量光(A-mitabha阿弥陀婆)は,時間的(竪)と空間的(横)の無限の徳を表わし。両義をふくめ た音訳。
別名:観自在王仏(Avalokitesvara-raja-b.)・甘露王如来,密号:清浄・大慈金剛,
種子:[金]hrihキリク)[胎]am,
三形:開蓮華[金]五鈷杵を横たえた上に独鈷杵を茎に開蓮華),[胎][初割蓮華]諸経論中最も広く説かれる仏(善性継成・阿弥陀仏説林には  200余部の経軌)。無量寿経(大12・360)巻上では,過去世の世自在王仏の感化によって法蔵比丘となり,二百十億の諸仏土と,天人の善悪を 見て無上の願を発し,五劫の永い期間思惟して四十八願を成就し,十劫以前に阿弥陀仏となり今もなお西方極楽浄土で説法すると説く。諸 経すべて西方仏とし,密教でも両部曼荼羅の西方に配する。諸仏境界摂真実経(3巻・般若訳・大18・868)序品に(毘盧遮那如来,一切如来諸法 の本性清浄なる蓮華三昧に入り,その背上より紅蓮華の色光を放も西方無量世界を照らす)と。また大日如来の五智では妙観察智の徳を司 り,総ての衆生の悩み・疑念を断ってその願いを摂取すると。観自在如来の名も,妙観することが自在の意。
[印相]観自在王修行法(不空訳・大19・931)に{三摩地の印を結ぶ。二羽(両手)を仰げて相
叉し,進力相背けて(頭指を背中合せに)竪て,禅智もて進力の頭を捻じて(両手大指で頭指
の頭を押す)跏上に置く}と規定する印相は,力端定印・妙観察智印・阿弥陀定印である。摂真実経巻中に{除散乱心の印を結べ,先ず左の五 指を舒べ,臍輪前に安んじ,次に右五指を舒べて左掌上に安んず。この印を結び終って西方無量寿如来の三昧に入る}と,[胎]大日と同じ法界 定印を説く。これに拠る胎蔵図像や高雄曼荼羅の表現がある。但し,五智如来の一でも,独尊の場合で殆んどが三摩地印,即ち阿弥陀定印で ある。この特色ある印相を始めて説く観自在王修行法は,金剛頂経から阿弥陀仏だけを抽出し,不空と金剛智の両訳とも密教観法のために 固定した印相であろう。無量寿如来観行儀軌(不空訳一大19・ 930)には,三密を修し念仏三味を証することによって極楽世界に生を享けると 説き,更に無量寿如来根本陀羅尼の利益を述べて根本印を説く。即ち両手を交叉結印(外縛)して後に二中指を伸ばし,頭を相往して蓮華状 にする。以上の通り密教の阿弥陀仏の印相は,両手を交叉して結印するを基本とする。これは通仏印の施無畏・与願印・転法輪印(説法印) や,後の来迎引摂印などとは全く根拠を異にする。阿弥陀定印の一般化は天台円仁の常行三味の普及による。これは四親近(金剛法・利・因・ 話)を配した定印阿弥陀仏を本尊として修するもので、正しく[金]成身会・西輪の表現である。平安中期には貴族たちが比叡山で常行三味を修 し,観想を伴った道長の行などは,栄華物語や御堂関白記に伝える。平等院鳳凰堂は西方
浄土再現を目的とし、本尊は観想的要素を持つ定印に表され、光背中央にある智拳印の大日如来(20巻・一行記・大39・1796)巻四に(西方 に於いて無量寿仏を観ず、これはこれ如来方便智。衆生界無尽なるを以ての故に諸仏の大悲方便亦終尽することなし,故に無量寿と名づく) と,仏名の由来を説き,秘蔵記(2巻,大図1・2921)にもく西方無量寿如来.赤金色,入定相,目稍閉じて下し視る)と、,冥想的な像容を明かす.9〜 10世紀の仁和寺・棲霞寺像は勿論,11〜12世紀の法界寺・法金剛院の阿弥陀仏が,何れも密教観法の定印という定朝様式を踏襲する事実 は,盛んになった浄土教思想中に,密教的信仰の定着を物語る。日本往生極楽記を始め,(手に妙観察智の定印を結び,口に弥陀の宝号を 唱へ・・・・・・
 






法圓寺の涅槃像



ねはん[涅槃]
 [梵ニルヴァーナnir-vana)の音写,巴ニッパーナnibbana,泥?・泥日・涅槃那・涅隷槃那などと音写。訳。滅・滅度・寂滅・寂・円寂など]
 原意は,吹き消すこと,または吹き消した状態を示し,煩悩の火を滅した悟りの境地をいう。涅槃に到達するのが仏教の究極の理想であるか ら,三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静)の一つに数えられる。
 涅槃は小乗・大乗・各宗派により異なって説かれる。初期仏教では単に心の安らぎの意味に用いられ,部派仏教では煩悩を断っても肉体が 存在する場合を有余依涅槃,煩悩も肉体もすべて滅尽した状態を無余依涅槃という。
 大乗仏教では一般に涅槃を積極的肯定的に捉え,常・楽・我・常の四徳を具えているのを無為涅槃と称し,四徳を具えない小乗の有為涅槃 と区別する。
 密教では大日如来の徳を表詮するために,大日を中心に,これを満位とし,その四方に発心・修行・菩提・涅槃の四つの分位を配して,分満不 二, 生仏一如の理法を表わす。また,四つの分位は五点の阿字(アーンフamh)で表示される大日如来を中心として,順次,発心点(a),修行点(a -).菩提点(am),涅槃点(ah)の四点の阿字で象徴する。これを四分位点といい,その最後が涅槃点で終っているのは,涅槃が密教の実践目 標にほかなら
 
 ねはんーぞう[涅槃像]
 [絵画は涅槃図,また臥仏像・睡仏像・寝釈迦]釈迦八相の一で,成道後45年間の説法を終った臨終の模様。クシナガラの郊外で病を得た 釈尊は,入滅の近いことを悟って阿難に命じて沙羅双樹の下に牀座を設け,最後の説法の後涅槃に入る。右脇を下に足を重ねて横たわり, 北枕西面の姿勢で寂静に入った。インドでは古くから彫刻され,涅槃の地カシア(5C).アジャンタ26窟のは牀前に16人の弟子や天人を彫刻し たダプタ時代の作。またマトゥラー・ベナレスにも古代の石像やセイロン島には巨石像がある。ビルマには煉瓦造の巨像が多い。北方でもガ ンダーラ地方から出土した石像には精緻の群像もある。大唐西域記などには,北方のバーミヤンや西域地方に大涅槃像の存在したことを記 すが,既に湮滅している。中国でも大同の雲岡石窟や摂山・敦煌にも存し,我国でも,旧2月15日には涅槃会が早くから修せられて多数の涅 槃図がある。彫刻では奈良時代の塑像に,法隆寺五重塔を始め,銅造は長野・世尊院,木造は岡寺や広島・照源寺,香川・観音寺に蔵するが, 絹本着色の仏画としては,遺品最古の(遺品最古の(1086応徳3)金剛峰寺を始め優秀作が多い。同図は縦267.6x横271.2 cm のほぼ方形の 大画面に,中央に大きく釈尊を描き,牀座の四方に沙羅双樹,枕頭に菩薩達の悟りを開いた冷静な姿,四囲には八部衆・十大弟子・国王・大臣・ 貴夫人や禽獣代表の師子などが,悲嘆の状を表現して取巻く。右上隅に切利天から降下する摩耶夫人を描く。多人数の割合に構図もまとま り,主尊の黄色い身色に黄色の袈裟,その上に截金文様で飾って金色に輝く。その他は豊富な色彩で彩るが,法衣の縁などに黒色を用いて落 着いた色調を保ち,肥痩のない朱線で,仏・菩薩を輪郭するに引きかえ,大衆は力ある墨線で表現している。後世の涅槃図に見るような全員 が悲しみに暮れる愁嘆のみを強調するのと違い,よく仏教の教理を表現する点でも貴重な名画である。
 






法圓寺の観世音菩薩



 かんぜおんーぼさつ[観世音菩薩](梵)アヴァローキテーシュヴァラ(Avalokitesvara,
阿縛廬枳低湿伐羅は音写),旧訳。観世音・光世音,略,観音,新訳.観自在菩薩。
種子:sa(観音部の通種子)]新訳者玄奘は西域記3で一切諸法を観察するに無擬自在で,一切衆生界を観察してその苦を救うことが自在であ るからと説いて,旧訳の観世音・光世音を誤りとするが,既に法華経普門品には,その名の因縁を説いてく善男子,若し無量百千万億の衆生あっ て諸の苦悩を受けんに,是の観世音菩薩を聞いて一心に名を称せば,観世音菩薩は即時にその音声を観じて皆,解脱することを得しめん〉 といい,観世音・観音の名が普及している。
元来,諸菩薩の中でも広く信仰されて,古くから顕教の諸経典に説かれ,法華経普門品第二十五を〈観音経〉と別称して,種々の風土に種々の 身に変化して衆生を救済する三十
三応現身が説かれ,浄土系経典では,大勢至菩薩と共に阿弥陀仏に次いで衆生救済するもの
と説く。顕教の経典ではその形像に就ては記述が簡単であるため,表現が自由で,わが国で
も奈良時代までの像容は,阿弥陀三尊の脇侍と単独尊の場合でも一定の規範に拘泥されな
かった。密教の入った平安初期からは,両部曼荼羅を始め種々の変化観音が出現したた
め,観音の通称として聖観音を設けた。変化観音には,聖・十一面・千手・馬頭・如意輪の5に,天台系では不空羂索,真言系は准胝を加えて六 観音,合して七観音の名称もでた(各
項参照)。このほか毘倶胝・葉衣・白衣・楊柳・青頸・阿麼だい観音と多羅菩薩がある。仏像の分類では,菩薩部の中であるが,種類が多いた め,観音部を特設するのが普通
である。なお宋代以後には,中国で観音霊験記などの要素を加えて三十三観音(三十三身
の数に因む)を数えて,水墨画などの好画題を提供している。[浄土]華厳経(六十華厳51,
八十華厳68)には,観音が南海補陀洛山に住して善財童子の訪問を受けたのを典拠とするが
浄土系経典には阿弥陀経の脇侍として西方極楽を住所とする。補陀洛山を南印の実際の地名と見て考証されたりするが,観音浄土として中 国では浙江省寧波府東方の舟山鳥を普陀山,チベットではダライーラマを観音の化身と信じて宮殿をポタラ。朝鮮では江原道襄陽の五峰山 の海辺に洛山を定める。わが国では古く南海の那智山を補陀洛山の東門に擬
し,日光は音写の二荒の音転とする。その他各地に同名を用いるが,法華経の流布から
わが国の[観音信仰]は,奈良時代に既に代表作が多く,飛鳥時代の百済観音,天平前期の
夢殿救世観音,薬師寺東院の聖観音,天平盛期には東大寺三月堂本尊の不空羂索観音,聖林寺十一面観音などを数える。平安時代になっ ては,京都清水寺,大和長谷寺,近江石山寺,紀
州紀三井寺などは平安貴紳の信仰を集めたが,熊野信仰と合せて,那智山の観音霊場から
出発する西国三十三所観音が近畿一円を霊場化した(三十三身の数に因む)。江戸時代に
は,坂東三十三所・秩父三十四所が選定されて計百所観音の信仰へと統いている。
 
[観音三十三身]
妙法蓮華経普門品25に説く観音の種々相(応現身)で,救いを求める衆生の姿に応じた普門の表現。33の数字の基本となる。三十三所観音・ 三十三間堂(妙法院の蓮華王院で千一体の観音を祭る)・三十三観音など。同経は名称のみで形像は摂無礙経(一般に補陀落海儀軌,大20・ 1067,不空訳。相違する名称は括弧内に)と図化した図像法華経法(観音応化身像,大図6・5059,図欠は*印)。
(1)仏身(*),(2)辟支仏,(3)声聞身,(4)梵王身(大梵天王身),(5)帝釈応身,(6)自在天身,(7)大自在天身,(8)天大将軍身,(9)毘沙門身,(10)小王身, (11)長者身,(12)居士身,(13)宰官身,(14)婆羅門身,(15)比丘身,(16)比丘尼身, (17)優婆塞,(18)優婆夷身,(19)長者婦女身(人身*),(20)居士婦 女身(非人身*),(21)宰官婦女身(婦女身*),(22)婆羅門婦女身(童目天女身*,以上4図は括弧内欠),(23)童男身,(24)童女身,(25)天身,(26)龍身 [難陀龍王と2図],(27)夜叉身,(28) 乾闘婆身,(29)阿修羅身,(30)迦楼羅身(2図),(31)緊那羅身,(32)摩喉羅
伽身,(33)執金剛身。
 






法圓寺の聖観世音菩薩


 しようーかんのん[聖観音](梵)Aryeva-lokitesvara,正観音。
密号:本浄金剛・清浄金
剛・蓮華金剛・得自在清浄法性如来・妙眼金剛・金剛限菩薩。
三形:初割蓮華・白払子。種子=sa, hrlh。
曼荼羅には[胎]59(蓮華部院主尊),[胎]8(中台八葉院の西北),[胎]91(釈迦院),[胎]130(文殊院)の4処, [金]17の金剛法菩薩と同体
観世音菩薩に変化観音が生じてから,専ら密教の観音として変化しない観音を指す。即
ちわが国では天平までの顕教の観音に対して,平安時代以降の観音を聖観音として区別し,両界曼荼羅その他の異像がある。
[形像](1)胎蔵曼荼羅中台八葉院の薩:宝冠中に坐化仏。右手は拳を立てて開敷蓮華を持ち,左手は立てて外に向ける
(2)蓮華部院:冠中に化仏。左手は拳を立てて心臓に当て含紅蓮華を持ち,右手は掌を立て4指を曲げて花を開ける。蓮華座に半跏坐。同種 の像が最も多い。
 
 
 
 
 






法圓寺の十一面観世音菩薩


  この尊像は法圓寺に観世音菩薩像がないことを聞い た恩師栗山明憲大僧正から「観世音菩薩は天満天神 の本地佛である」として賜っ た尊である(好久)
 
じゅういちめんーかんのん[十一面観音]
[(梵) Ekadasamukha(翳迦娜舎目怯)の訳。別名:大光普照観音。[胎](蘇悉地院)。
密号:変異金剛・慈愍金剛。Ξ形:澡瓶・開蓮華。種子:hrih, ka, sa]変化観音の一。
11の数は,十地十波羅蜜を満足して十一地妙覚を証するとか,十一億諸仏の説く神呪があるとの説がある。
頭上に十一面ある姿で,雑密時代にインド・中国に作例があり,わが国でも,法隆寺金堂壁画中や聖林寺立像など天平時代から信仰されてい た。形像も種々あるが,通常は,頭上の正面3面が菩薩面(寂静相),右3面が瞋怒面(威怒相),左3面が狗牙上出面(利牙出現相),後1面が大 笑面(笑怒相),頂上一面が仏面(如来相)で,観音の表象である阿弥陀仏
の化仏が付く(或いは,十一面各面に化仏)。また面数では,頭上に10面,水面を合して,十
一面の場合もあり,九面観音もある。また頭上面の配列にも,一層に10面を旋らせて
上層に1面の2層立てや,3層・4層,時には縦一列に積重ねるなど変化が多い。
大別して
(1)二臂像:陀羅尼集経巻4・十一面観世音神呪経(阿地瞿多訳・大18・901)・十一面観世音神呪経(耶舎崛多訳・大20・1071)・十一面神呪心経 (玄奘訳・大20・1071)の説では,右手:施無畏印で念珠と瓔珞を掛け,左手に蓮華を挿した瓶を持つ。
(2)四臂像:胎蔵現図曼荼羅蘇悉地院の像は,本面の両側に各1面,中段5面,上段3面で,本面と合して十一面。右手は施無畏印と念珠,左手 は蓮華と軍持(瓶)を持つ。四臂は十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌(十一面軌と略し,本軌。不空訳・大20・1069Jや諸説不同記(大図1・ 2922:)にも説く。またこの尊を本尊とする十一面曼荼羅は陀羅尼集経巻4に,胎蔵曼荼羅のように観音部・金剛部の諸尊を配置する。
密教輸入後も盛んに造像されて名作が多い。木造立像には奈良・法華寺・室生寺,滋賀・
渡岸寺,大阪・道明寺や,乾漆造では前記の聖林寺と京都府・観音寺が名作。







法圓寺の馬頭観世音菩薩

 
 ばとうーかんのん[馬頭観音](梵) Hayagrliva(何耶掲?婆・賀野吃哩婆)馬頸・馬頭の意。
異名:馬頭明王・馬頭威怒王・馬頭金剛明王・大力持明王。[胎]65観音院),密号:瞰食金剛・迅疾金剛。三形:白馬頭。種子:ham,hum, kha]変 化観音・七観音・八大明王の一。
頭上に馬首がある名でもとは,バラモン教のビシュヌの化身から転化したものか。
観音部中で唯一の忿怒形は慈悲が最も深い意。馬が獣類中でも特に水草を求める性格のように,衆生の無明煩悩をむさぼり食って衆生を 救済する表徴。
形像は観音部中でも特に種類が多く,一面二臂から四面八臂まで,同類中にも多くの異説がある。
(A)一面二臂:(1)不空羂索経巻9・広大解脱曼撃羅品(大20・1092)に,左手に鉞斧,右手に蓮華と葉茎を持ち半跏趺坐する馬頭のみで,胎蔵図 像に出すが,覚禅鈔には頭上に蓮華・化仏が付く。(2)大妙金剛経(大19・965)に,身は碧色,赤色の光明を放ち(図では火焔)右手に蓮華を挙げ て持ち,左手に軍持,半跏趺坐。その他,・頸四肢に蛇のまとい付く忿怒身もある。(B)一面四臂:(3)大方広曼殊室利経(不空訳・大20・ 1101)に 2手は馬頭根本印,右手に鉞斧,左手に蓮華を持って丁子に立った忿怒相。頭上に馬頭を置く。別に両脚を前へ突出した坐像もある。また荷 葉座に輪王坐の姿もある。(C)三面二臂:(4)陀羅尼集経6・何耶掲?婆観世音菩薩法印呪品(大19・901)に中面は菩薩面,左は瞑怒面,右は大笑 面,3面共に天冠・化仏がある。中面上に碧色の馬頭を置く。左手の紅蓮華には,花台に化仏を載せ,右手に如意宝
珠の立像。上に天蓋・天女,珠から種々の宝を降らす。(5)胎蔵現図曼荼羅の図65:身は赤色,
中面は仏部,右面は蓮華,左面は金剛部の三徳を表現する忿怒面。順に金線冠を頂き化仏
の後から白色の馬頭が出る。根本印を結び,右膝を立てる輪王坐。
(D)三面四臂:(6)摂無礙経(大20・1067)に,3面共に三目,中面に化仏と馬頭。身は赤肉色で忿怒相。2手で根本印に似た印を結び, 他の左手 は拳,右手に鉞斧を持ち,蓮華座に安住の姿。(E)三面八臂:(7)八字文殊軌(菩提仙訳・20・1184)に,2手で印を結び,左手に蓮華・瓶・棒,右手に 鉞斧・数珠・索を持つ。蓮華座に輪王坐して大忿怒相。別尊雑記には(図1),火焔を負い,臥した青水牛の背(座具)に蹲踞する忿怒相像を描 く。(F)四面八臂:(8)馬頭儀軌(不空訳・大20・1072 A)に4面とも忿怒相,頭髪が逆立ち,各面は天冠と化仏を頂き,中面上に碧色の馬頭を置く, 身を囲って火焔。2手で根本印,左手は金剛棒・宝輪・念珠,右手は剣・金剛鉞斧,施無畏印,磐石(座)上の蓮華座に輪王坐する。造像は割合に 少く観世音寺・浄瑠璃寺蔵の木造立像。俗間では馬の病気・安全を祈り,修験道に馬加持を修する。
 
              






法圓寺の地蔵菩薩


 じぞう-ぼさつ[地蔵菩薩][(梵)Ksitigar-bha(乞叉底薬婆と音写), 胎162、密号:悲願
金剛・悲愍金剛・与願金剛,三形:宝珠と幢、,錫杖,種子:ha. i。また金剛幢菩薩(金14,宝生仏の西方,十六大菩薩の中)と同体]大地の堅固の ようにこの尊の菩提心が堅固で,衆生に代って諸苦を受けても破壊しない意。釈迦入滅後、56億7千万年して弥勒菩薩(未来仏)が成仏する までの無仏時代に出現して六道の衆生を済度する菩薩。中国でも一宗をなすほど民間に信仰され,唐末には地蔵十王経などが偽撰されて, 衆生の地獄での責苦を救う信仰となる。わが国でも小野篁が冥府から帰って信仰した伝説もあって,末法思想と結付いて戦乱の藤末鎌初か ら流行した。更に冥途の三途の川の賓の河原訟での子供を救う,地蔵和讃から,道祖神の民間信仰とも結付いて,塞の神とも混合して村や 路の守り神とし,子安地蔵も作られた。密教では胎蔵曼荼羅地蔵院の主尊とし,金剛界曼荼羅では南方四親近の金剛幢菩薩と同体とする。 本軌は地蔵菩薩儀軌 (善無畏訳,大20・1158)と,仏説地蔵菩薩陀羅尼経(失訳,大20・1159)のみで,不空訳は偽作。地蔵本願経2巻(大13・ 412)は顕教で,これから地蔵十王経等が偽作された。[形像](1)菩薩形:大日経には詳説しない。胎蔵現図曼荼羅の尊は,身肉色,右掌を挙げて 日輪を持ち,左拳を腰に当てて蓮華(上に宝憧幡がある)を持って赤蓮華座に坐す。日輪はまた月輪・宝珠ともいう。胎蔵旧図様では右手に
剣,左手に宝珠を持つ。(2)最も親しまれている比丘形の起原は中国らしく,覚禅抄には不空軌に拠る像と智泉様式の雲上像がある。立像・坐 像のほか半跏像があり,鎌倉期には裸形像(奈良・伝香寺など)が作られた。古くからの信仰で造像が多い。
 






法圓寺の千手観音


 せんじゅーかんのん[千手観音]
 [梵Sa・hasrabhuja-arya-avalokitesvara,千手聖観音と訳。
別称:千劈観世音・千光眼・蓮華王(大悲観世音),異名:千手千眼観自在菩薩。[胎]177(虚空蔵院),
密号:大悲金剛,
三形:開花蓮華・蓮上に宝珠,種子:hrib, sa]
変化観音で十一面観音と共に早くから現われ,わが国でも密教輸入以前,即ち奈良時代に名作を遺す。千は無量円満の意。〈手〉は衆生牧 済にさし伸べる慈悲の面,〈眼〉は化導の智の表現。
[形像]
(1)二十七面四十二臂像(胎蔵現図曼荼羅):27の数は(a)二十五有を済度する意で,それに本面と化仏を加える。(b)十波羅蜜具足の意で,六波 羅蜜に各3種,後の四波羅蜜に各2種を開いて計26面。本面を加えて27面を算出する。42の数は四十手が千を二十五有で割った数。それに 合掌・定印を各1臂と見倣して計42。この四十二臂を千手を代表する正大手とする。二十七面の配列は,本面の両側に2面(計3面),上へ次 の段に7, 7, 5, 5と5段に積上げる。身は黄金色。正大手の余他の手は光背のように小さく描く。四方の4尊は,上方の須陀会天衆は五色雲に 乗って散花供養し,下の右は婆蘇仙,左は功徳天で,花を盛った蓮華を持って本尊を仰ぎ見る。千手の掌に各1眼があって千手千眼とする。実 例には京都法性寺の立像(平安時代)がある。 (2)十一面像:十一面観音と同じく,十波羅蜜を満足して第十一地妙覚を証する相とする。(3)そ の他,面数では1・500・1000などが経典にあるが,最も簡略には一面でよく三目として額中央に縦に描く。また臂数も2・4・12・18などがあるのも 同じ考え方による。天平時代の作には,唐招提寺の立像や,大阪剛琳寺(藤井寺)の坐像は名作として著名。眷属として二十八部衆がある。夫 婦和合を祈願する千手観音敬愛法は小野派の秘事。
 [四十手]
経典により持物(印相)に相違はあるが,五部五種法に応じて一切の願望を成就させる表徴で,A)息災法(仏部):(1)化仏,(2)羂索, (3)施無畏, (4)白払子,(5)榜?,(6)鉞斧,(7)戦犯,(8)楊柳,B)調伏法(金剛部):(9)三鈷杵,(10)独鈷杵,(11)剣, (12)宮殿,(13)金輸,(14)宝鉢,(15)日珠,(16)月 珠。C)増益法(宝部): (17)宝珠,(18)弓,(19)宝経,(20)白蓮,(21)青蓮,(22)宝鐸,(23)紫蓮,(24)蒲桃,D)敬愛法(蓮華部):(25)合掌,(26)鏡,(27)宝印, (28)玉環,(29)胡瓶,(30)軍持,(31)紅蓮,(32)錫杖,E鉤召法(羯磨部):(33)鉄鉤,(34)頂上化仏,(35)数珠,(36)螺,(37)箭,(38)宝篋,(39)髑髏,(40)五色 雲。左右手の順序に就ても異説がある。
 






法圓寺の普賢延命菩薩


ふげんえんめいぼさつ[普賢延命菩薩] [胎21(遍知院・大安楽不空真実金剛が異名),
密号:真実金剛,三形:甲冑・五鈷杵,
種子:yu,yuh, ah, hum]普賢菩薩が増益延命の三昧に住するもの。即ち普賢延命法の本尊。特に台密では四大法の一として重要視した。
形像:二臂像:延命法の本尊。満月童子形に似て五仏冠を頂き,右手に金剛杵,左手に金
剛鈴を持ち,千葉蓮華座に坐る。その下の一身三頭で鼻に独鈷杵を巻く象の四足が大金輪を
踏む。各輪の下に5千の象が支え,四天王が侍る。
二十臂像:胎蔵現図曼荼羅の像で,普賢延命法の本尊。身は金色で五智宝冠,持物は十六大護と四摂菩薩の三昧耶形で表示する(括弧内が 略称),右手に五鈷杵(薩?)・五鈷鉤(王)・箭(愛)・弾指(喜)・三辯宝珠(宝)・日輪(光)・如意幢(幢)・二の三鈷杵(笑)・金剛鉤(鉤)・金剛索(索)。左手 は蓮華(法)・利剣(利)・八輻輪(因)・舌中三鈷杵(語)・十字羯磨(業)・?上三鈷杵(護)・二の利杵(牙)・金剛拳(拳)・金剛鎖(鎖)・金剛鈴(鈴)。蓮華座 に坐る。異像には,宝華座の下に四白象が外に向いて立ち,象の頭上に四天王が立つ。この像は金剛界三十七尊が延命の三摩地に入ること を表徴したもの。
絹本着色図は松尾寺ほか,彫像には法隆寺金堂,奈良・常覚寺に平安木彫を蔵するが,佐賀・
龍田寺には4象のある鎌倉仏像(康俊作)。






法圓寺の五大明王

 
 ごだいーみょろおろ[五大明王][五大尊・五大忿怒・五部忿怒]
別々に成立した明王を不動明王を中心として不空訳の仁王経儀軌(大19・994)で組み合せた。即ち中央一金剛波羅蜜菩薩(転法輪菩薩)・威 怒不動金剛(不動明王)。東方一金剛手菩薩(普賢菩薩)・威怒降三世金剛(降三世明王)。南方一金剛宝菩薩(虚空蔵菩薩)・威怒甘露軍茶利 金剛(軍茶利明王)。西方一金剛利菩薩(文殊菩薩)・威怒六足金剛(大威徳明王)。北方一金剛薬叉明王(摧一切魔菩薩)・威怒浄身金剛(鳥枢 沙摩明王)。
また摂無礙経(大20・1067)等には,五仏・五菩薩と五忿怒を配して,毘盧遮那(大日)・般若菩
薩・不動明王,阿閑・金剛藤城・降三世,宝生・金剛蔵王・軍茶利,無量寿・文殊・大威徳,不空成
就:(1)金剛牙・金剛夜叉.(2)金剛業・鳥枢沙摩を挙げる。従って五大明王の名目は,不動・降
三世・軍茶利・大威徳の4に,東密では金剛夜叉明王を,台密寺門派では,鳥枢沙摩を加える。
図像と配置は空海請来の,仁王経五方請尊図(大図5・3041)にあるが用いられず,仁王
経法の本尊には旧訳仁王経に基づく,五大力吼菩薩を用いる。五大明王の考え方は中国で
起り,将来の金剛鈴(唐代製・東縛2,正智院・広島福盛寺,宋元製・醍醐寺)には鳥枢沙摩明王
の方が多い。平安時代には仁王経法(鎮護国家の秘法)と共に五大明王を横一列に並べる
五壇法のため,密教寺院では,五大堂が建立され,また仁王経曼荼羅図もある。遺品も多
く,彫刻では教王護国寺講堂を始め,大覚寺(1176,安元2,明円作)や,三重・常福寺,奈良・
不退寺のほか,江戸期の湛海作が宝山寺にある。絹本着色の絵画には,教王護国寺・醍醐寺
蔵の各5幅は平安末期の代表作。

 ふどうーみょうおう[不動明王](梵)Acala-natha (阿遮羅?他と音写),不動威怒明王
と訳し,略,不動・無動尊・不動使者(大日如来の使者の意),密号は常住金剛,[金]88,[胎]14,種子: hmmam, ham, hum]五大明王・八大明王の主 尊。もとインドのシヴァ神の異名で,仏教に採入れられ,大日如来の教令輪身であるから,如来の教えに障害(煩悩)ある者の命根を断つ使命 があり,また奴隷三昧を誓願して如来に給侍するから不動使者ともいう。また行者に奉仕して残食を受ける(業煩悩を尽くす意)などの性格が ある。
インド・中国では遺品が少くて系統的に解釈できないが,大日経(大18・848)に説く形像が基本形となる。(1)一面二臂像:慧刀と羂索を持ち,頂髪 は左肩に垂れ,一目にして諦観し,威怒の身で猛焔あって磐石に安住す。額に水波の相があり,充満した童子の形である。同類の経典(底哩 経[大 21・1200]・不動使者法[大21・1202]・立印軌[大21・1199]など)では,身色は赤黄か青黒,頂は七髻八葉蓮華。衣は赤土色,右牙を上に出 し,左牙を外側に出す。また持物のみの異なる像に,剣の代りに独鈷杵,両手で大きな五鈷杵を横たえて持つ。腹前に輪宝を両掌で捧げる像 も見える。 (2)一面四臂像:安鎮・十二天曼荼羅などの首尊の場合で,8本輻の輪宝に住して剣・索の2臂と,口の辺りを左右両側から挟む臂。 その他,図像類には,四面四臂・四面六臂・四面四臂四足などの異形を出すが,日本に入ってから一面二臂像のまま種々の異形が生じた。空 海・円珍による不動法の流行は,多数の変化像を生じた。空海入唐の故事に因んだ波切不動(高野山南院),円珍の感得による黄不動に並 んで赤不動・青不動(三不動)や,元寇の世相に合せて,2童子を従えて剣を肩にして疾走する走り不動(井上家)も生じ,図像類も多種多様で, 玄朝・良秀・円心から信海の剣を逆に杖とした構想のものもある。また修験道行者は不動の姿を摸して,果地下向という。不動信仰は観音信仰 と並んで日本仏教の特色となり,各地に霊験ある不動尊を祀って今日に至っていて,古来からの名作も多い。
 [眷属]には四十八使者(勝軍不動明王四十八使者秘密成就儀軌,大21・1205}や,三十六童
子(聖不動経,修験聖典で偽径)があるが,聖無動尊一字出生八大童子秘要法品(大21・1204)
に説く八大童子は不動明王の使者で,各尊の種子が, hamの一字に帰結する意。大破10に
不動の主であり,一切を降す能力を持ち,菩提心を護るものと解釈し,それに無我の意を持
つmamと合して,不動明王の種子hmmam(カンマン)となる。不動曼荼羅。倶梨迦剣(不動尊のシンボルとして,単独に信仰される)。
 
ごうざんぜーみょうおう[降三世明王](梵)Trailokyavijaya (怛隷路迦毘惹耶と音写,訳。勝三世・降三世)。Vajrahumkara (縛日羅吽迦羅と音写, 金剛摧破者の意)。Trailokya-vajra (
怛隷路迦縛日羅と音写,三世金剛・聖三世と訳)。異称に忿怒月魘尊(また忿怒降三世,[胎]35種子:hrih, hrim)・孫婆菩薩([胎]34,種子:gr, ma,  su)・勝三世明王([胎]12,種子:ha. hah。密号:吽迦羅金剛)。[金]87,降三世会・同三昧耶会,[胎]13,持明院(五大院)。
三形:五鈷杵・箭・索剣,種子:hum ahah hrih]五大明王の一(東方)。
金剛界では大日如来(自性輪身)・金剛薩?(正法輪身)の教令輪身。不動明王が胎蔵部大日如来の教令輪身であるから,同尊に次いで重要視 され, 両尊が大日の脇侍ともなる(尊勝曼荼羅)。三世は三毒(貪瞑痴の煩悩)と三世界主の両義。大日如来説法時に,大自在天が自ら三界主 を称えたため,忿怒身を現じて降伏させたから,足下に,大白在天(摩醯首羅)と烏摩妃を踏み付けて三毒の表象を兼ねる。
[形像](1)四面八臂像:降三世極楽深密門(大21・1209)に,全身黒色で四面。正面青色,右面黄,左面緑,後面紅色で忿怒相。第一手は左右を交 えて印を結び,右手に五鈷杵・箭・手剣,左手に五鈷鉤・弓・索を持ち,左足で大白在天(頂),右足は烏摩妃(乳房)を踏む。全身が火焔に包ま れる。(2)三面八臂像:摂無礙経(大20・1067)に,火のように逆立つ髻に髑髏を冠り,身は雨雲色。三面とも三目。種々の武器を持つが八臂で表 現する。持物と足下は(1)に同。八字文殊儀軌(大20・1184)は三面に牙,左右第一手は結印,右手に箭架・戟・棒,左手に弓・杵・索を持って,火焔 中に住すると。(3)一面四臂像:慈氏軌(大20・1141)に,身色は青黒く,半月中に住し,三眼四牙の忿怒形。左足を前に屈して走る姿。第一手は 左右で結印。左手に金剛鉤,右手に五鈷金剛,五智宝冠を頂き,周囲に火焔が舞う。金剛界降三世会の姿は(2)に似る。胎蔵曼荼羅の像も似 るが,左膝を立てて蓮華座に坐る。金剛寺に木造坐像がある。
 
  ぐんだりーみょうおう[軍荼利明王][(梵)Kundaliの音写。瓶の意で甘露の容器から,
 甘露軍荼利・吉里吉里明王と異称。古来,大咲明王と同体とするが非。密号:甘露金剛,三形:三鈷杵・賢瓶,種子: hum a hum]五大明王の一 (南)。宝生仏の教令輪身。もと蛇で表象したシャクテイ(性力)崇拝から早く仏教に入り,諸事を辨じ,障害を除く功徳があるとする。軍荼利明王 法は調伏と息災・増益の修法。摂無礙経(大20・1067)によると,三部に各の軍荼利がある。(1)甘露軍荼利(仏部・[胎]198,蘇悉地院,金剛軍茶 利)。(2)蓮華軍荼利(蓮華部・[胎]60,観音院)。(3)金剛軍荼利(金剛部・[胎]28,金剛手院)。形像には一面八臂・四面四臂
 の2種。(a)一面八臂:(1)摂無礙経に,髑髏冠の三目八臂,雷電黒雲相。左手に金剛・戟・金剛鈎,右手は三鈷杵,次は拳にして頭指を立てて腰 を押し,次は施無畏印。他の一臂は大瞋印といい,両手を拳印にして胸前で交叉させる。八臂と両膊頸に12匹の蛇がからみつき,白蓮華を 踏んで,焔の中に立つ姿。持物が多少違うが東寺講堂像に最も近い。(2)陀羅尼集経(大18・901)巻8・金剛阿蜜哩多軍荼利菩薩自在神力呪 印品に,全身青色で黒赤色の髻が逆立ち,下唇を噛んだ大瞋面。全身に蛇がからみ付き,八臂の右手は次第に金剛杵,両端が三叉鋒の戟, 第三臂は左を圧して印を結び,次は上向けて垂れる。左手は金輪,拳印で仰け,結印,次は,横にして腰を覆い,七宝蓮華(踏割)に立つ。(b)四面 四臂像:軍荼利軌(大21・1211)に,右手は金剛杵,左手は満願印,第二手は交叉して羯磨印を結び,光焔を背負って月輪中に住する。全身は青 蓮華色で磐石(瑟瑟座)に坐す。面は正面慈悲,右面忿怒,左面大笑,後面は少し怒って口を開く。これも煩悩即菩提の意を表現して生蛇を瓔 珞とする。五大明王像のほかに,木彫が多く,大覚寺・延暦寺・滋
賀金勝寺・埼玉常楽寺に蔵する。
            
 だいいとくーみょうおう[大威徳明王][(梵)Yamantaka (閻曼徳迦と音写,意訳
して降閻摩尊),閻曼徳迦威怒王・六足尊。密号:大威徳金剛・持明金剛。[胎]91.降三世会,[胎]11.持明院(五大院),種子: hrih, hum, mamstri,  hah, bha]五大・明王八大明王の一(西方)。自性輪身の無量寿仏,正法輪身の文殊菩薩に応ずる教令軸身であるから,胎蔵旧図様には文殊 院に配属する。経軌には調伏法を多く説くが,特にわが国では藤原時代以降に勝軍法が盛んである。
形像:六頭六臂六足で水牛に乗る姿が特色で坐像と立像,その他細部の相違がある。(1)立成神験法(大20・1072)・仁王道場軌(大19・ 994)に は,青水牛に乗り,髑髏を瓔珞として冠を頂き,虎皮の褌をはく忿怒相ぐらいで,詳細に説かない。(2)八字文殊軌(大20・1184)はやや詳しく,青 黒色の身で。左手に戟・弓・索,右手は剣・箭・?(棒)を持ち青水牛に乗る(胎蔵旧図様に同)。(8)焔曼徳迦万愛如意法(大21・1219)には(相違部 のみ),水牛に乗り,六面のうち,頂上3面の中央面は菩薩形で,その頂上に阿弥陀仏の化仏を置く。左手は,鉾・輪索・弓,右手は,剣・宝杖・箭を 持って,弓で射る姿。左三足は輪宝の上に立ち,右足は三足とも高く仰げる。輪宝の下の水牛は四足とも蓮華座に立ち像全体が火焔に包まれ ると(これが立像の根拠か)。胎蔵現図曼荼羅では瑟瑟座に右足を垂れて坐り,醍醐寺蔵の白描図像五大尊(大師御筆)には,踏割蓮華座に 立つ。絹本着色図には平安時代作の醍醐寺と談山神社蔵のほか,鎌倉時代には,水牛上に立つ姿を根津美術館と唐招提寺に蔵する。五
大明王図の一でなく単独に信仰されるのは戦勝を祈る本尊であったためか。
 
  こんごうやしゃーみょうおう[金剛夜叉明王][(梵) Vajrayaksa(縛日羅薬叉と音写),
 梵漢混じて金剛薬叉とも.[金]89,密号:護法金剛・調伏金剛・?食金剛,種子:hum,vam,u]
五大明王の一(北方)。不空成就仏(自性輪身)から正法輪身に2種あって,(1)金剛牙菩薩(?
一切魔菩薩)の教令輪身が金剛夜叉明王,(2)金剛業菩薩(虚空庫菩薩)の所変が烏枢沙摩明王であるから,同体ではない(瑜祗経・仁王般若 軌の誤か).多くは調伏法で,同経に説く金剛夜叉曼荼羅があるが,わが国では独立して信仰されなかった。中心面は左右の眼を二段重ね, 額中央の縦形との五眼で,片足を高く上げる丁子立像は蔵王権現に影響。
[形像]三面六臂像:瑜伽経(大18・867)に,逆立つ髪の忿怒形で,左手は賢次に金剛鈴を臍前に,弓・輪宝,右手は胸前に五鈷杵,箭・剣を持つ。 右脚を伸して蓮華座を踏み,左脚は曲げて宙を踏む。五眼は金剛界の五部,三面は胎蔵の三部の意。






法圓寺の不動明王



 ふどうーみょうおう[不動明王](梵)Acala-natha (阿遮羅?他と音写),不動威怒明王
と訳し,略,不動・無動尊・不動使者(大日如来の使者の意),密号は常住金剛,[金]88,[胎]14,種子: hmmam, ham, hum]五大明王・八大明王の主 尊。もとインドのシヴァ神の異名で,仏教に採入れられ,大日如来の教令輪身であるから,如来の教えに障害(煩悩)ある者の命根を断つ使命 があり,また奴隷三昧を誓願して如来に給侍するから不動使者ともいう。また行者に奉仕して残食を受ける(業煩悩を尽くす意)などの性格が ある。
インド・中国では遺品が少くて系統的に解釈できないが,大日経(大18・848)に説く形像が基本形となる。(1)一面二臂像:慧刀と羂索を持ち,頂髪 は左肩に垂れ,一目にして諦観し,威怒の身で猛焔あって磐石に安住す。額に水波の相があり,充満した童子の形である。同類の経典(底哩 経[大 21・1200]・不動使者法[大21・1202]・立印軌[大21・1199]など)では,身色は赤黄か青黒,頂は七髻八葉蓮華。衣は赤土色,右牙を上に出 し,左牙を外側に出す。また持物のみの異なる像に,剣の代りに独鈷杵,両手で大きな五鈷杵を横たえて持つ。腹前に輪宝を両掌で捧げる像 も見える。 (2)一面四臂像:安鎮・十二天曼荼羅などの首尊の場合で,8本輻の輪宝に住して剣・索の2臂と,口の辺りを左右両側から挟む臂。 その他,図像類には,四面四臂・四面六臂・四面四臂四足などの異形を出すが,日本に入ってから一面二臂像のまま種々の異形が生じた。空 海・円珍による不動法の流行は,多数の変化像を生じた。空海入唐の故事に因んだ波切不動(高野山南院),円珍の感得による黄不動に並 んで赤不動・青不動(三不動)や,元寇の世相に合せて,2童子を従えて剣を肩にして疾走する走り不動(井上家)も生じ,図像類も多種多様で, 玄朝・良秀・円心から信海の剣を逆に杖とした構想のものもある。また修験道行者は不動の姿を摸して,果地下向という。不動信仰は観音信仰 と並んで日本仏教の特色となり,各地に霊験ある不動尊を祀って今日に至っていて,古来からの名作も多い。
 [眷属]には四十八使者(勝軍不動明王四十八使者秘密成就儀軌,大21・1205}や,三十六童
子(聖不動経,修験聖典で偽径)があるが,聖無動尊一字出生八大童子秘要法品(大21・1204)
に説く八大童子は不動明王の使者で,各尊の種子が, hamの一字に帰結する意。大破10に
不動の主であり,一切を降す能力を持ち,菩提心を護るものと解釈し,それに無我の意を持
つmamと合して,不動明王の種子hmmam(カンマン)となる。不動曼荼羅。倶梨迦剣(不動尊のシンボルとして,単独に信仰される)。
 [不動八大童子]
(1)慧光童子(Mati・jvala) :また廻光菩薩,種子na,形像:身白黄色,少し忿怒形,天冠を着て袈裟・瓔珞で荘厳し,右手に五智杵,左手に月輪のあ る蓮華を持つ。
(20慧喜童子(Mati-sadhu),また廻喜菩薩,種子mah,形像:身色は紅蓮,慈悲相で微笑する。左手に摩尼珠,右手に三鈷釣を持つ。
(8)阿縛達童子(Anavatapta):また菩薩。種子saip,形像。身は真金色で梵王の相で頭上に金翅鳥を頂き,左手に蓮華,右手に独鈷杵を持ち,龍に 騎る。無垢清浄を表現する。
(4)指徳童子(また志徳菩薩):種子mam,形像:夜叉形で身色は虚空に似て,三目がある。甲冑を着て左手に輪,右手に三叉戟を持つ。
(5)烏倶婆?童子(Ukubhaga,憂丘婆丘):種子ta,超越惚恚の意。形像:五股冠を頂き暴悪相,身金色で右手に金剛杵,左手は拳印を結んで岩上に 立つ。
(6)清浄比丘:種子va,法宝を守護する意で,比丘形で袈裟を着け,左手に梵篋,右手咤に五鈷杵を持つ。右肩を露出して腰に赤裳を着け非若 非老の面相で,目は青蓮華。上顎の牙
 が下向する。
(7)衿羯羅童子(Kinkara): また緊迦羅。慈悲の化現で小心随順する意。種子jra.形像:身は肉白色,十五歳の童子の相,蓮華冠を頂き天衣と袈 裟で飾る。合掌してその間に独鈷杵を横にして挿む。(8)と共に脇侍とする。
(8)制?迦童子(Cetaka):また扇底迦尊者(訳:福聚勝)。(7)と共に不動尊の化身で方便心行を司る。種子nam,形像:童子形,身は紅蓮色,五髻(頭の 頂上と四周に結んで五方五智の表示),左手に金剛杵,右手に金剛棒を持つ。瞋心悪性であるから袈裟を着けずに天衣をまとう。白馬に騎る 像もある。遺品には高野山不動堂の鎌倉彫刻が,儀軌に合致した姿で有名。また(7)(8)の二童子のみを伴う名作が多い。

 






法圓寺の倶利伽羅不動明王



くりからーりゅうおう [倶利迦羅龍王][(梵)Kulika (古力迦・矩里迦・句律迦と共に音写),訳:黒龍・尊勅,種子:a]不動明王を念じる功力によって, この龍を駆使し,または保護を受ける信仰から出発して,不動明王の化身とし三昧耶形とする龍。倶利迦羅龍王経(大21・1206)には,明王と外 道とが共に智火の剣に変じて争い,明王は倶利迦羅大龍となって,外道を呑まんとして従えた説話を掲げる。矩里迦龍王像法(大21・1207)では, 金色の蛇の形をし,雷電の勢を示し如意宝を掴み,火焔をまとうて, 四足で剣を取巻く。頭上に一角,背に鋭い7本の針があって剣上に阿字を 書くと。不動明王の剣は外道,龍は明王り象徴ともいい,また四足を四大明王に擬す。遺品は少いが,高野龍光院蔵は,三鈷形の金銅柄に両 鎬造の剣身は空海の請来と伝え,鞘は木製で金色の龍が巻付いて剣先を呑む姿。厨子(鎌倉時代)は竹製で両開きの構造で,扉の裏面には 十二天像を描く。






法圓寺の愛染明王


あいぜんーみょうおう[愛染明王](梵)ラーガラージャ(Ragaraja),羅?羅闇,略:羅?,
摩詞羅?(Maharaga),愛染王・染愛王,密号:離愛金剛。
三形:五鈷杵・人形杵・五鈷鉤・箭・師子冠。種子: hum, hhum, hoh, hrlh, jjah]       ラーガは彩色・赤色・愛情,即ち,愛欲染着の意を名 とするが,衆生が本来具備する愛欲貪染がそのまま金剛薩塘の浄菩提心の三味とする,煩悩即菩提を表象した尊で,本地身は
金剛薩埋(金剛王菩薩と同体)で,そめ十七尊を眷属とし,薩?が大日如来と同体の意か
ら,また,三十七尊を巻属とする(愛染曼荼羅)。本軌は喩祗経(大18・867)。
〔形像〕六臂像:赤色の日輪を背にし,身色は赤。三目は三徳・仏蓮金三部の意。獅子冠・忿怒眼は降伏の表象。頂上の五鈷鉤は衆生の五 智を度し,天帯(頂上の横帯)は,細事を聞かずに,如来大我の大欲染のみを知る帝王の相。第一手の鈴と五鈷杵は息災,第二手の弓箭は 敬愛,第三手の左手を腰に安んじ右手の蓮華で打つ姿勢は,右手の根本無明を降伏する意(他の姿もある)。台座の赤蓮華は敬愛,蓮座下の 宝瓶は増益で福徳の表示。
両界曼荼羅に掲げず空海の請来という。
図像には異像が多く,三面や師子座に乗るもの,天に向って弓を引く,天弓愛染明王(円珍本)や,口伝による不動明王との合体した両頭愛染 明王がある。四賀像は安然の説によって金剛王菩薩秘密念誦儀軌(大20・1132}を愛染軌として覚祥抄に描く。西大寺愛染堂の秘仏は,1247 (宝治元),叡尊の本願で善円の作品,,1297(永仁5)の厨子人銅造
で7cmの小像を称名寺に蔵する。
 
 






法圓寺の鳥枢沙摩明王


 うすさまーみょうおう[鳥枢沙摩明王]
[(梵)Ucchuima(また烏芻瑟(渋)麼)の音写,穢れを除く意で密号を穢跡(積)・受触・不
壊・火頭・不浄などの金剛(諸説ある)。三形:棒・三鈷杵・独鈷杵,種子:hum, hum,jah]一切の不浄・悪を焼尽する偉力のある明王(台密系では, 五大明王の北方に配して金剛夜叉明王の代りに用いる)。両部曼荼羅には見えず,空海の将来以後,産褥の穢れ,枯木の精,毒蛇の害・悪鬼の 崇り除外など,単独に信仰されたから異像が多い。中国でも盛んに造像されたらしく別尊雑記などに唐本図像が多い。現存の敦煌画には,各 臂・両足に蛇が巻付き,髑髏を瓔珞,頭髪は逆立ち,火焔光を負う。像の上方左右に阿?・阿弥陀両仏を配して火頭金剛と記す。(1)二臂像:身は 赤色忿怒形,牙を出し,黄色の髪が逆立ち,左に杵,右手に棒を持ち,
左足は毘那夜迦を踏み,右足は踏む棒の一端が同じく毘那夜迦を押える。(2)四臂像:敦煌
画に近いのが陀羅尼集経巻9に説く,その他に手や持物の相違が見られる。手には金剛
杵・剣・羂索・棒・三鈷杵・髑髏・人頭や印を結ぶ。それに虎皮褌は共通。(3)六に像:円珍の将来で三目,右手に宝棒・三鈷杵・素,左手に施願 印・輪・念珠を持ち,蛇と髑髏で荘厳し亦蓮華座に右足を垂れる。(4)八臂像:別尊雑記に2図。身は赤肉色で青色の天衣と赤袈裟,四
辺から火焔が吹き磐石上に立つ。第一手は印。左手に剣・三鈷鈴・素,右手に素・鞘・独鈷杵など,相違がある。烏枢沙摩曼荼羅にも数種ある が,釈迦仏を中心に金剛手菩薩とこの
尊が左右に侍し,他に金剛部や観音部と八天などを描く。これらは図像集に多種あるも,
絹本着色画は至って少い。






法圓寺の四天王

してんーのう[四天王][また四王・四大天王・護世四王]
インド神話時代から護世神とされ,仏教に入ってからも顕教では,帝釈天住居である?利天(須弥山の中央)の四面,中腹に夫々居住して守護す るものとする。諸経に説かれ,釈尊の遺嘱を受けて仏法と国家を護ることを誓っている。特に金光明最勝王経10巻(義浄訳・大16・665)第6に 四天王護国品があって,「世尊,この金光明最勝王経は,未来世に於て若し国土城邑聚落山林曠野,至る所の処に随って流布することあらん 時,若し彼の国王この経典に於て至心に称歎し作歌供養し,并に復たこの経を受持する四部の衆に供給し,深心に擁護して衰悩を離れしめ んに,この因縁を以て我れ彼の王及び諸人衆を護り,皆安穏にして憂苦を遠離し,寿命を増益して威徳具足せしめん。世尊,若し彼の国王,四 衆の経を受持する者を見て,恭敬守護することなほ父母の如く,一切の所須悉く皆供給せんに,我等四王は常に為に守護し,諸の有情をして 尊敬せざること無からしめん。この故に我等并びに無量の薬叉諸神はともにこの経の流布せらるる処に随って,身を潜めて擁護して留難無 からしめ,亦当にこの経を聴く人諸国王等を護念し,その哀患を除きて悉く安穏ならしめ,他方の怨賊は皆退散せしめん」と説く。インド・中国で も盛んに信仰されたが,わが国では輸入当初に,聖徳太子が戦勝を祈って四天王寺の建立となり,奈良時代の総国分寺である東大寺を金光 明四天王護国之寺と称し,造像もまた盛んである。インドでは貴人の姿に表現されたが,中国では武人の姿から忿怒形に次第に変化した。 また須弥山を仏菩薩の
居所とし,その縮図としての須弥壇守護のため四隅に配置される。古くは玉虫厨子宮殿正
面扉に見え,法隆寺金堂には古制の直立像の四天王像がある。この誇張の少い形式が四天
王寺様。像容は規定がないため自由であるが,持物も多聞天が塔と戟を持ち,広目天が筆と巻物を持つ程度。奈良時代以降では忿怒形が 多くなる。この期の名作には,東大寺戒壇院(塑造),同法華堂と当麻寺の乾漆造,唐招提寺の木造。平安初期には興福寺北円堂の乾漆造 があるが,密教が入って,東寺講堂以後は,顕密両系統がある。興福寺には南円堂・金堂・東金堂の諸像や,浄瑠璃寺が有名。密教では守 護神としては十二天が代って盛んになったが,鎌倉彫刻の好主題であるため作例も多い。毘沙門天が単独に信
仰される以外は,金剛力士に代って寺門を守る二天像として造像されることもある。なお,
武将輩下の勇武の者4人を四天王と称する。
須弥山の四洲は, (1)南謄部洲(南閻浮提,(梵)Jambudvlpa):増長天, (2)東勝身洲(東毘提訶・東弗婆提(梵) Purvavideha):持国天, (3)西牛 貨洲(西瞿陀[耶]尼, Aparagodanlya):広
目天,(4)北瞿盧洲(北鬱単越(梵) Uttai・akuru):多聞天
 
 ぞうじょうーてん[増長天][(梵)virudhaka(毘楼勒叉・毘嗜陀迦と音写)[胎]260(最外院・南方),三形:刀・戟,種子:vi]
四天王の一。鳩槃荼・薛茘多(餓鬼)を領する,南方の守護神。
形像:[胎]身は赤肉色,甲冑の上に天衣を重ね,右手は胸に当てて剣,左手は股に覆せて置き,脚を交えて坐る。両手で剣を立てて持つ鬼 形の侍者が脆く。その他弓箭を持つ軌もある。立像は邪鬼を踏む。
 
 じこくーてん[持国天][Dhrtarastra (提頭頼?天と音写)[胎]218(最外院・東方),三形:刀,種子:dhr, tri]
四天王の一。東方の守護神として帝釈天眷属。乾闥婆・畢遮舎を領する。
形像:[胎]は,身は赤色の忿怒形,鎧の上に上衣を着て,左手に大刀,右手は股の上に覆
せて置き,脚を交えて坐る。その他,左手に刀,右手に宝珠を持つ軌がある。立像では邪気を踏む。     
 
 こうもくーてん[広目天][(梵) Virupaksa(毘楼博叉・鼻溜波阿又と音写),訳。醜目・悪目・不具目の意。[胎]309最外院・西方)。三形:三鈷戟・ 索。種子:vi, ksa]四天王の一。西方の守護神で龍・富単那を領す。形像:[胎]では身は赤色の忿怒形。鎧の上に天衣を着け,右臂を立てて 三鈷戟を杖にし,左手は股の上に覆せて置き,面を左に向けて脚を交えて坐る。また持物が,左に書巻,右に筆を持つほか,?と筆などの異説 がある。立像は鬼類を踏む。
 
 びしゃもんーてん[毘沙門天][(梵)Vaisra・vapa(吠室?末拏・毘舎羅門・?沙門などと音写),訳。多聞・普聞・遍聞・種々聞・不好身。また倶吠? 〔Kubera (Kuvera),金毘羅と音写〕,異名。拘毘羅毘沙門。[金]72(.外院二十天.・西方),[胎]344(最外院・北方),三形:宝棒・塔,種子: vai]四天王・ 十二天の一。ヴェーダ時代からの神で,闇黒界の悪霊の長から,財宝・福徳を司る神に転じても,夜叉・羅刹の統領として,帝釈天に属して北方 守護の善神とされる。仏教に入っても護法神として説かれ,夜叉の主領として,八大薬叉大将(大日経疏5)・二十八使者(多聞天儀軌7・求使者 品・智慧輪訳・大21・1246)が春属。勝軍のために祈願する(唐・玄宗時代に,外冦に対して不空三蔵の霊現があった)。また五太子があったと いう(大方等大集経巻52・毘沙門天王品)。わが国でも単独に早くから信仰され,信貴山寺の中子・楠木正成の幼名を多聞丸といい,平安王城 鎮護として北方の鞍馬寺に,左手をかぎして俯瞰する肥満の像がある。後には武装のまま七福神に加えられ,民間の信仰が篤い。
形像=(1)[胎]では甲冑を着けて,右手に宝棒,左手に宝塔を持って,円座([金]では荷葉座)に坐る。持物は宝剣・三股戟の軌もあるが 2〜3悪 鬼を踏み,宝華を持つ2天女が侍るのもある(2)多聞天儀軌(智慧輪訳・大21・1246}等には,身に七宝金剛荘厳甲冑を着け,左手に三叉戟, 右 手は腰に当てて脚下に3夜叉鬼(中央が地天か歓喜天,左は尼藍婆,右は毘藍婆)を踏む。後世の(3)[双身毘沙門天]吉祥天と合体の姿で理 智冥合を表現すると台密の説。本拠なく,吉祥天も男相で2尊は背を合せた忿怒形,身は赤色で三目。
甲冑を着て,毘沙門天は合掌を下に向けて独鈷杵を,吉祥天は上向け合掌の中に輪を持・
て一円座上に立つ。(4)[兜跋毘沙門天]兜跋は吐蕃の転訛で,唐代に西蕃の来寇の際に出
現したとも伝え,唐代の作を東寺に蔵する。金鎖甲と称する外套式の甲冑(寒国風),手首
まで覆う胡風で,やはり宝塔と三股戟を持つ長身の立像が,地天の両手を踏み,左右に悪鬼
が侍る。同形の遺作名数点ある。なお兜跋を刀八と誤った(5)[刀八毘沙門天]は,四面十臂で師子に乗り,左右の各4手に刀を持つ像。巻属に 毘沙門五太子(最勝・独健・那哩・常見・禅弐師で名称には異説が多い)。毘沙門天眷属の(6)八大薬叉(夜叉八大将)は,摩尼跋陀羅
Mani-bhadra,宝賢),布嗜那該陀羅(Purna-b.,満賢),半支迦(Pancika・散支)・娑多?哩(Satagiri), 酸摩醯多(Hema・vata).毘洒迦 (Visaka?),阿咤縛 迦(Stavaka),半遮羅(Pancala)の称。単独に信仰されて,平安時代の木造だけでも50余躯,,兜跋毘沙門天の名称(普通と区別できないものも)で も14躯ある。
 






法圓寺の辯才天


べんざいーてん[辯才天][(梵)サラスヴァテイ−(Sarasvati薩?薩伐底と音写),異名:大辯才天(女)・大聖辯才天神・辨天 (略)・妙音天・美音天, 俗称:辨財天・大辯功徳天, 胎315(最外院・西方).三形:琵琶,種子:sa, su]サラスヴァテイ−は河の神格化したもので辯舌・学芸・知識の女神で 音楽・戦勝,やがては福智増益から延寿・財宝の神とされ,遂にわが国では七福神に加えられる。インドでの信仰は永い年代中に種々に説か れ,太陽女神や梵天の妃とされ,阿修羅を破っては一切智の神,また広く一切世間の母と称せられるなどは,金光明最勝王経7・大辯才天女 品(10巻・義浄訳・大16・665)に詳細に伝える_。わが国でも広く信仰されて,琵琶湖の竹生島(都久夫須麻神社)・宮城県金華山・宮島の厳島神 社・江の島神社など水域に関係の場所に立ち,明治維新後神社に改められたのが多い。また偽経の宇賀神王陀羅尼経等の説から,蛇を宇 賀神とし,また財宝の神であるため辯才天と混合して,蛇を神使とするに至り,蛇頭人身の像が出来た。形像:(胎)左手に琵琶,右手で奏する姿,  普通は八臂像で,左手に弓・刀・斧・羂索,右手に箭・三股戟・独鈷杵・輪を持つ。眷属として僻才
天十五童子を掲げるが。前記偽経に基づくた
め俗な名称である。






法圓寺の大黒天


 だいこくーてん[大黒天][(梵) Mahakala(摩訶迦羅と音写), (胎)360(.最外院・北方)。三形:剣・刀,袋(本拠なし)。種子:ma]迦羅は黒の意で身 色からの名。 インドでは戦闘・財福・冥府の神としての3性格がある。(1)シヴア神の化身として破壊を司る。尺林に住んで隠形・飛行に長じ, 血肉を食う神で,祭れば加護して戦いに勝つと。(2)財神としてはビシュヌや地天の化身とし,インド寺院の厨房に祭ると。(3)冥府の神としては 焔摩天と同体として塚に住むという。中国では(2)の財神として寺院に祭られたのが,日本では大国主命と発音の類似から同一視されて,袋 を背負う姿が生じた。形像:大黒天神法(唐・神ト記・大21・1287)では,身は青色,三面六臂。前の左右2手で,剣を横たえて持ち,次の2手は、左 手に牝羊の角、右手で人間の髻を握る,後の2手で背後に張った象皮を支える。髑髏を瓔珞とする忿怒形。(胎360)。別に八臂像は足下を地 神天女が両手で受ける。(2)の財神は
南海寄帰内法伝(義浄撰4巻・大54・2125:)に,神王形で金嚢を持ち,床几に左膝を立て右脚は垂れる,と。大黒天神法には,黒色で烏帽子・狩 衣を着し,右掌は腰に,左手で背負った大袋の口を肩越しに握る(観世音寺像)。また出世大黒といって大黒・毘沙門・辨才天の合体した三面大 黒がある。天台宗の創案。また六大黒とは,比丘大黒・摩訶迦羅大黒女・王子大黒・真陀大黒・夜叉大黒・摩迦羅大黒を称するが俗説に過ぎな い。七福神の大黒は,左手に袋を負い,右手に槌を持ち(財宝を出す打出小槌),2俵の米俵を並べた上に立つのは,日本的色彩の濃い姿。






法圓寺の愛宕大権現


【愛宕神社】
〈疫神疫病・火難除けの守護神を祀る〉
 全国各地に分布する愛宕神社の本源は、京都市右京区嵯峨愛宕町の愛宕山の山上に鎮座する愛宕神社である。古くから、愛宕権現の名 で親しまれ、防火の神として強い信仰を巣め、中世以降は修験者の行場としても栄えた。
 さて、京都に都があった明治以前には、東は比叡山、西は愛宕山が王城守護の神とされていた。江戸城の場合は、東が東叡山寛永寺であ り、西は京都の愛宕山を勧請した愛宕山が幕府守護の神とされていた。
 この愛宕山(東京都港区)は、日本で初めてラジオ放送を行ったNHKのスタジオが置かれていた所でもある。そして山頂には、京都の愛宕 山にある愛宕神社を勧請して祀った愛宕神社がある。祭神は火産霊命・日本武尊などで、古くから防火の神として尊信されてきた。
 十返舎一九の「東海道中膝栗毛」巻二の初めに、「伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕様へは月参りの大願を起して……」と書かれている。ま た浄瑠璃の「糸桜本町育」のなかにも、「どうぞあいつばかりはまめで達者で屋敷で出世させたいとコリャ、伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕へ は月参りをしられたわい」とある。これからわかるように、「伊勢へ七度……」という言葉は往時の流行語であったことが推測され、当時、愛宕 参りが盛んだったこ
とが知れる。
 七月三十一日(昔は陰暦六月二十四日。地蔵盆の日)は千日詣りの日で、この日愛宕山の愛宕神社へお詣りすると、平日のI〇〇〇日に あたる御利益があるといわれている。
 手に手に松明や懐中電灯を持って、夜半に登山する人が後を絶たない。
 バスの終点清滝から登り、二、三時間で本殿に着く。山頂の神社で樒の枝を買って帰り、かまどの上にはさみ、火災除けのお守りとしてい る。愛宕神社は古くから火伏せの神としての信仰が強い。
 愛宕山は、比叡・比良・伊吹・神峰・金峯・葛城(または高野)の各山と愛宕をあわせて七高山とうたわれたほどの霊山の一つであった。ま た、愛宕は愛当・愛太子・阿多古・愛宕護という字を当てる場合もある。
 愛宕山は愛宕太郎坊とか太郎天狗で名高く、朝日山白雲寺(真言宗)を別当寺として、勝軍地蔵・泰澄大師・不動明王・毘沙門天・竜樹菩 薩の五尊を奉祀していた。奥の院には、太郎坊栄術・役行者・宍戸司前の三座を祀り、愛宕山大権現と号した。
明治初年の太政官布告の神仏分離令により、寺を廃し愛宕神社となり、祭神は本宮に稚産日科・伊弉冉尊などを祀り、若宮に雷神・火之迦 具土命を祀り、旧社格は県社である。
 神仏分離令以前には、教学院(下の坊)・福寿院(上の坊)・勝地院(長床坊)・法蔵坊・威徳院(西の坊)・大善院の六宿坊があり、嵯峨の大 賞寺(真言宗大覚寺派大本山、旧嵯峨御所、南朝方の天皇を大覚寺統という)の所管する修験の道場であった。このこ
とにより、大祭には、現在でも愛宕神社の九月二十八日の例大祭には御輿が大覚寺まで参拝に繰り込むという。
 また、愛宕山は勝軍地蔵を本尊としていたが、勝軍地蔵は地蔵信仰の一つで、幽冥界
と現世との境界に立って人々を守ってくれるという菩薩である。日本古来の信仰である塞の神信仰と同様の性格を持ち、丹波との国境の愛 宕山に勝軍地蔵が祀られ、外部から都へ侵入する疫神・疫病を防いだものといえよう。その点、現在、野の辻などで見かける石地蔵も勝軍 地蔵の系統と考え。てよいであろう。
 勝軍地蔵は、その名のとおり勝軍の縁起をかつぎ、中世の武士に強く尊崇された。徳川家康は江戸城に入ってすぐの慶長八年(一六〇三) に、江戸城の西方、芝の小山に愛宕山大権現を勧請して愛宕神社を建立し、江戸城の西の鎮護としたほどである。さらに越前・越後・陸前・ 羽前・安房・上総・常陸などにも愛宕大権現が勧請され、これら
の地には現在も愛宕山の地名が残っている。また相模・武蔵をはじめ全国各地に愛宕神社を名乗る社祠が多く残されている。
 京都愛宕山には、干魃の際には、登山道を通らず道なき道をよじ登り、太郎天狗の硯石という石の上の溜り水を汚れた柄杓で荒らすと、天 狗が怒って雨を降らすという雨乞い法が残されている。また、生誕三歳で一生の火難除けのため央婦に
背負われて登拝する習俗や、上棟式の際、火防せのお札を受けて棟木に貼り付けるという習俗なども、今でも京都地方には残っている。






法圓寺の秋葉三尺坊大権現

 
【秋葉権現】
〈火難・水難・剣難の守護神)
 秋葉権現は火防せの神として有名である。「火伏せ」とは火災を防ぐことで、火を防ぐのに霊験あらたかな神仏を火伏せの神という。
 火伏せの神というと、まず秋葉神社(秋葉権現)の火防せのお守り札である。この
火伏せの神、すなわち秋葉権現については、寛政七年(一七九五)自跋(奥書き)のある
津村正恭著「譚海衆」巻六、秋葉山火防祭の頃に、「毎年霜月十六、七日には火防の祈祷あり。かねて近在の僧徒この役に候する例有る者 共、数日別火潔斎して、その日に会集するなり。秋葉山の坊は洞家の禅宗(曹洞宗)なれば、皆その宗門の僧徒集まるなり。黄昏より祈祷の 修法始まる。火をおびただしく盤に盛りて、その中へ誦経しながら火防の札を打入れ、長き鉄のまたふり(又になっているような枝)にて掻き 回し念呪するなり。此の札かくのごとく火中にあれども、一枚も焼くる事なし。翌朝までそのまま置きて火消えて後、冷灰の中よりこの札を拾ひ 出し、櫃にたくはへ置きて、一年の内参詣して札を乞ふ者に与ふる事とす。もっとも奇特ある事といへり」と説明されている。
 この秋葉権現の本来の名称は秋葉山三尺坊大権現といい、遠江国秋葉すなわち静岡県の西部、周智郡と磐田郡との境にある赤石山脈 の南方の一峯、秋葉山(海抜八六六メートル)に祀られる神である。
 縁起によると、三尺坊は信濃国(長野県)の人で、母が観音を念じて誕生したという。
そして六、七歳のころ出家した。やがて阿闇梨になり、越後国(新潟県)古志郡蔵王堂(現
三尺坊の主となった。不動三昧の法を修し、七日満願の朝、焼香の火焔のなかに、鳥の如
く両翼が生じ、左右の手に剣と索を持つ相を感得し、一法を編み出し、自ら本尊たらんことを思い、思惟すると煩悩生死の業が滅尽して、飛 行神通自在となり、一匹の白狐にまたがり、飛行して南下、遠州秋葉山に止まった。ときに空中に声あり、「種々形をもって諸国土を遍歴、衆 生済度する」という唱えごとが聞こえたという。
 この鎮座のときは平城天皇大同四年(八○九)とも、永仁二年(一二九四)八月中旬ともいわれ、また大同・永仁の再度に出現したとも伝え られている。下って、再び永享年間(一四二九〜一四四一)に、三尺坊は尾張国に姿を現し、円通寺(名古屋市熱田区新宮坂町)の大明和尚 のもとで参禅、鎮防火燭の秘法を感得し、これにより火伏せの神としての信仰が高まったと伝えられている。
 室町時代、加納房森林光播という山伏が、可睡斎秋葉寺に住職として着任し、曹洞宗に改宗して、再興したといわれる。この加納房が中興 の祖とい
えよう。
 縁起から考察すると、三尺坊の母は信州の人である。、三尺坊そのものがいわゆる天狗であり、その生国も信州であった。信州長野市在、 上水内郡には戸隠山があり、観音の霊像を祀っている(現存の戸隠神社。旧社格は国幣小社)。その隣山は飯綱山で天狗として有名な飯綱 権現の鎮座の地で、三狐神ともいい、飯綱行者は管狐をもって予言すると恐れられたが、今では飯綱山頂には小祠のみが祀られていて、そ の流れは東京都八王子市高尾山薬王院(真言宗智山派)に伝えられている。遠州秋葉山祠は戸隠山の別祠なりと書かれた古文書(『耐軒余 録』)もあり、戸隠・飯綱と秋葉山とは大いに関係があったことがわかろう。
 ちなみに飯綱権現で出した神札は狐に跨った小天狗(烏天狗)の像が描かれていたものと思われる。高尾山薬王院で出すお札もこれと同じ で、また秋葉山三尺坊権現も同じ像の神札を頒布している。
 さて、この秋葉山三尺坊の信仰は、一に剣難、二に火難、三に水難の神といわれ、庶民には剣難・水難の信仰は少なく、もっぱら火難除け の信仰が深く根づいていた。密集した木造長屋に住んでいた江戸庶民は火事を最も恐れていたので、火難除けの秋葉信仰は大いに広まり、 秋葉山三尺坊権現を勧請することが各地に流行した。各地順送りにこれを祭祀し、大変な勢いで江戸府内に伝播するところであったが、そ の形勢に恐れをなした徳川
幕府は、貞享二年(一六八五)に禁令を発して止めさせた。しかし、JR山手線の駅名に「秋葉原」という名も残っているくらいで、各地に「秋葉 山大権現」と刻まれた石碑や、秋葉神社を名乗る神社が現存しているのは、禁令だけでは庶民を押さえつけることができなかった証左である といってもいいだろう。
 これは江戸府内だけでなく、特に関東地方には、秋葉神社の名称を持つ神社が多くあり、他に秋葉山と呼ぶ小丘や、秋葉山とか秋葉権現 などと刻まれた石碑が路傍に立っているのをよく見かける。
 明治初年の神仏分離の太政官布告によって、秋葉山秋葉寺はいちおう解体し、三尺坊権現は可睡斎(曹洞宗。静岡県袋井市久能)に移 り、秋葉山は秋葉山本宮・秋葉神社(通称、秋葉神社・祭神は火之迦具土神である。旧社格は県社。周智郡春野町)となった。近くに秋葉寺 (曹洞宗)もあり、この三社寺ともに全国に多数の信者がおり、多くは秋葉講を組み、登山・登拝する者は四季を通じて多い。
 特に秋葉山本宮・秋葉神社の例大祭である十二月十五日、十六日の両日は参詣者が多いし、当日は火防せ祭り(火渡り行事)が行われる (秋葉の火祭り)。
 なお、袋井市の可睡斎の庭には牡丹園があり、開花期に観賞に訪れる人も多い。また秋葉山本宮秋葉神社の奥官へは、本社入口から自 動車でI〇
分ほどで登拝できる。






法圓寺の天満天神(黄金天神)

 
黄金天神(おうごんてんじん)(宮嶋天神)
  法圓寺にお祀りしてあります天神様は通称『黄金天神』あるいは『宮嶋天神』としたしまれ、元禄九年(一六九六)芭蕉の甥の天野桃隣が 出しました俳諧集『むつちどり』にも次のように記載されております。「是れより段々出 桑折に着く。田村何某の方に休息。仙台領宮嶋の沖よ り黄金天神の尊像、漁夫引き上げ、不思議の縁により此処へ遷らせたまひ、則、朝日山法圓寺に安置したてまつる。忽ちの御奇瑞に諸人挙 って詣づ。まこと所は辺土ながら、風雅に志す輩過半あり。げに土地清浄にして、人心柔和なるを、神も感通ありて鎮座したもうとは見えた り。農業はいうに及ばず文筆の嗜みにあいて、桑折にとどめぬ。
  天神社造立半
○石突に雨は止たり花柘」
 享保四年(一七一九)に出されました俳諧集『田植塚』にもその当時の法圓寺の境内図が描かれてありますが、そこには梅の古木と蓮池と 『宮嶋天神宮』が描かれております。天神様の本地佛は『十一面観世音菩薩』であります。現在、法圓寺には黄金天神さまの御導きにより、こ の天神様の本地佛として、総本山長谷寺ゆかりの『十一面観世音菩薩』像一体が法圓寺の位牌堂に勧請しお祀りさせていただいておりま す。
【天神様】
(作神・受験・学問の守護神)
 正月も過ぎ寒さ厳しくなるころ、東京では亀戸天神、鎌倉では荏柄天神、京都では北野天満宮、北九州では太宰府天満宮が代表的だが、 受験生を持つ親が近くの天神社・天満宮へお詣りする姿が多く見受けられる。
 現在では、天神様と天満宮は同一視されているが、もともとは別のものであった。
 仏教でいう天蔵・地蔵と同じように、我が国でも、天神・地神の信仰は古代からあった。
 地蔵信仰は平安末期から鎌倉時代にかけて流行し、地蔵尊は各地の寺院に祀られた。塞の神や道祖神と同じように、路傍にまで地蔵の 石像が立てられて信仰された。しかし、天蔵の方はすっかり忘れられてしまった。
 我が国でも古くから、天神地紙、すなわち天津神と国津神とか、天上神と地母神的な性格を持つ神として、天神・地神の信仰があった。天神 は社殿を持つ神となり、地神の方は民間信仰のなかに入り、現在でも農村で信仰されている。
 春秋の彼岸前後の戊の日、すなわち社日には、地神様の掛軸などを祀り、地神講が催され、現在でも行われている地方はまだまだ多く残 されてい
 天神の方は、武蔵国だけに限っても、『延喜式』神名帳に布多天神、大麻止乃豆乃天神、阿豆佐味天神、穴沢天神、物部天神など多く記載 されているくらいだから、各地に多くの天神社があったといえよう。
 天神様というと、菅原道真公が祭神の天満宮の尊称と考えられるが、菅原道真、すなわち天満天神を祀るのはもともと天満宮であって、そ の始まりは天神とは別であった。天神は天津神で、日本では高天原に生成または誕生した神々をいい、初めから葦原中国に誕生した神を地 祇(地の神)という。
 ではなぜ天満宮と天神とが同一視されるようになったのであろうか。
 菅原遺真は平安朝前期の人で、五歳にして和歌を詠み、十二歳で漢詩をものした神童であったといわれる。
 当時は藤原氏一族の全盛期で、藤原氏以外は出世できないといわれるなかにあって、その学才があまりにも優れていたため、宇多天皇の 厚い信任を得、醍醐天皇のとき右大臣にまで昇進した。
 弘法大師、小野遺風とともに書道の三聖ともいわれる人である(このこともあって天満宮(天神)信仰はしだいに盛んになり、室町時代には 全盛を呈し、やがては文道の守護神と称されるに至った。特に文学・詩歌・書道の神としても尊信されている)。
 しかし、左大臣・藤原時平の讒言により、延喜元年(九〇一)太宰府権帥に左遷配流されてしまい、延喜三年(九〇三)悲嘆のうちに没した。
 ところが配流地で寂しく死んだ菅原遺真のことが時の貴紳たちの頭から離れず、死後四十数年後にして、多くの神官や僧侶、男女の夢枕 に道真が立ったという。当時、都では疫病が流行し、落雷や火災が相次いでいたため、これは道真の怨霊の崇りであろうと恐れられた。
 こんな話が伝わっている。京都の各所に落雷があって、人々は恐怖の只中にあった。たった一箇所だけ落雷の難に遭わないところがあっ た。そこは道真の邸があった桑原の地で、人々は雷雲が出て雷が鳴りだすと、「桑原、桑原」と呪文を唱えて雷の難を免れようとしたという。
 このようにして、しだいに道真の怨霊を恐れる風潮が高まり、ついに時の天皇の御心を動かし、勅旨をもって京都の北野にあった天神祠の 傍らに霊廟を建て、天満大白在天また大政威徳天と呼んで、その霊を慰めたという。
 このように、流刑にあって没した貴族の怨霊を祀る信仰を御霊信仰というが、この御霊信仰を持つ天神と雷神信仰をあわせ持っていた北野 天神に、道真の怨霊を鎮める信仰が結びつき、北野天神を一名、火雷天神ともいうようになったのである。
 以上のように古代信仰の天神と道真の天満宮とが結びついたものが全国津々浦々の天神社に広がり、本来の天神信仰は薄れていき、道 真の天満宮という名称に変わっていった。やがて北野天神社の天満宮となり、統一化されていった。つまり天神社は天満宮に廂を貸して母屋 を取られてしまったといえよう。






法圓寺の歓喜天


 かんぎーてん[歓喜天][(梵)Nandikeivara(歓喜自在の意),訳。歓喜自在天・難提自在天・
大聖歓喜天,略,聖天・天尊。?那鉢底(Ganapati.シヴァ神と鳥摩妃の子で大自在天の軍統帥者),また毘那夜迦 (Vinayaka,元来は別であるが, 古くから同体とし両界曼荼羅にはこの名称を用いる。?那鉢底を毘那夜迦の主領とする)。(金)76(.外院二十天・北方),(胎)359(最外院・北 方)。三形:蘿萄(大)根・歓喜団・鉞斧・戟・箕,種子: gah, hrih gah]
インドでも早期から信仰された。もとは悪神であったが,行動自在で智慧の神となって,吉
凶禍福を祈願され,双身像に就ては種々の説話を生じたし,わが国では夫婦相愛,子女の出
生などに関連した神として信仰を集めている。生駒の聖天(宝山寺)を始め各地に聖天を
祭る。形像は甚だ多い。(1)二臂像:人身象頭,右肘を曲げて大根を,左手には歓喜団を持ち,膝を曲げて荷葉座に跪坐する(.金),(胎)は左手 に大根,右手に鉞斧を持って草座に半跏座。






法圓寺の歓喜仏(チャクラサンバラ)


400〜500年前の青銅製の仏像。二十世好久の勧請仏。世界民族博物館館長立川武蔵教授・豊山派総合研究院現代教化研究所長高橋 尚夫教授に確認。間違いないとのこと。仏像のパワーが強く、国宝級であるとのこと。
 
  歓喜仏(かんぎぶつ)チャクラサンヴァラ{ヤブ・ユム}
チャクラサムヴァラは多面多臂の父母仏である。チベットでは細見の忿怒尊たちをヘールカと呼ぶが、チャクラサムヴァラはそれらの最高位 の守護尊である。その意味は最高の幸せ。
 
 ムクチナート聖域の裏手にそびえる山は、仏教徒によると密教の仏であるチャクラサンバラの宮殿であるとみなされている。チャクラサンバ ラは、チベット語でデムチョクと呼ばれている。四面、十二肩、二足で、右足はまっすぐに伸び、左足は曲げられている。六種の装飾品をまと い、左の手に人間の頭蓋骨の器をかかえ、明妃ヴァジュラ・ヴァラヒーを抱いて立っている。正面の顔は青、右の顔は緑、左の顔は黄色、後 ろの顔は赤である。両足は悪鬼を踏みつけている。彼の腹のあたりから、蓮花が日月輪とともに咲き出ている。
明妃ヴァジュラ・ヴァラヒーは、一面二肩、右手に曲刀を握りしめ、空にかざしている。両足はチャクラサンバラのからだをはさみ抱き込んでい る。
 
チベット仏教を考える際に、チベットの大学者、プトゥン(1290〜1364)の分類法を参照するのが有効である。プトゥンによれば、密教は四 種類のタントラに分類される。日本の雑密に当たるのが「所作タントラ」で、「大日経」は「行タントラ」、「金剛頂経」は「瑜伽(ゆが)タントラ」であ るとされる。後者の二つは日本では「純密」とされ、それ以降の密教は正式には日本に伝わらなかった。それに続く後期密教こそが、現在チ ベットで行われている「無上瑜伽タントラ」である。それは方便・父タントラの「秘密集会(ひみつじゅうえ)タントラ」、般若・母タントラの「ヘーヴァ ジュラ・タントラ」と「サンヴァローダヤ・タントラ」、それに両者を総合した双入不二タントラの「カーラチャクラ(時輪)・タントラ」から成る。チベッ ト仏教の中で圧倒的な優位にあるゲルク派では、父タントラ系の「秘密集会タントラ」を最も優れた経典としている。母タントラ系の経典は、墓 場で男女が肉体で曼陀羅を形作り、相手を変えながら性交を重ねていくなど陰惨なイメージが強い。「カーラチャクラ・タントラ」は仏教最後 の、そして最高の経典であるという評価がある一方、敵対していたイスラム教の影響があると言われ、また最終戦争の予言などの記述もある ため、正当な仏教経典とは認められないという意見もある。






法圓寺の玄奘三蔵法師像


げんじょう[玄弉]602(隋・文帝・仁寿2)〜664(唐・高宗・麟徳元)〔63〕中国訳経家。新訳の創設者。親しくインドに経典を求め(629.貞観3〜645,同 19),旅行記・大唐西域記12巻を著す。訳経は74部・1,338巻。仏教各部に亙るが,密教部経典には,諸仏心陀羅尼経 (大19・918)・呪五首(大 20・1034)・十一面神呪心経(大20・l071)・不空羂索神呪心経(大20・1094)・持世陀羅尼経(大20・ 1162)・六門陀羅尼経(大21・1360)・勝幢臂印 陀羅尼経一大21(1363)・八名普密陀羅尼経(大21・136S5)・抜済苦難陀羅尼経(大 21・1395)・薬師瑠瑞光如来本願功徳経(大14・450)と関連経 典には大般若経600巻など。






七面千手観世音菩薩

不可思議・不可思議。この観音様は奈良時代前期作 樫木一木造りで秘仏です。 霊告によりますと、そもそもは當麻寺の近くのお寺にあっ た観音様で、中将姫が、ご自分のご内侍佛として深く帰依された七面の千手観音とのことです。
 法圓寺を訪れたかたのなかで、時々、半田山の方向・萬歳楽山上に弥陀・観音・飛天・弁財天・竜神が顕れるのを目の当たりにしたという 方がおられますが、まさに、この観音様は、当麻寺の二上山に顕現した弥陀・観音と同じ要素が当地にもあることを証明されるかのように法 圓寺にお出ましになられました。阿弥陀如来とはエジプトのアミー、アーメン、観世音菩薩はギリシャのアポロン、ギリシャでは覚醒したものを シュバラーというそうです。アポロキテーシュバラー(観世音菩薩)、エジプトもギリシャもメソポタミアもインドから見れば西方です。まさに不可 思議・不可思議。






法圓寺の孔雀明王

くじゃくーみょうおう[孔雀明王](梵)Mahamayurl-vidyarajni (序詞摩瑜利羅闍と音写),具名.仏母大孔雀明王,略.孔雀王母菩薩胎193>'密号:仏母金剛.三形:孔雀尾・半月,種子:ma.yu]初期に成立した尊で,インドでは猛毒の蛇を食うため,一 切酒毒を除去する能力を神格化した。明呪の験が勝れるため明王と名づけ,他の忿怒形の明王と区別し,玄法軌・青龍軌では菩薩とする。こ の陀羅尼を誦すると,諸の害毒を除き大安楽を得るとし,孔雀経法では息災延命,除難、請雨の修法。形像:(1)二劈像は胎(蘇悉地院)の像 で,右肘を
曲げて孔雀尾を立て,左掌は心臓の前で上向けて蓮華を持ち,面は斜めを向き蓮華座に結跏趺坐する。(2)四劈像は孔雀経法の本尊で, 孔雀明王儀軌(大19・955 A)には,金色の孔雀の背に白か青の蓮華座上に坐し,白身で慈悲の相,四回の右手は開敷蓮華・倶縁果を持ち,左 手の一手は,掌を胸前に仰けて吉祥果を,二手は,三五茎の孔雀尾を持ち上げる姿で光背にも孔雀尾が並び頭冠・瓔珞・耳?・臂釧などは,すべ て菩薩形に荘厳される。四臂の持物は四種法を示すという(蓮華は敬愛、倶縁果は気力を増すから増益,吉祥果は降伏、孔雀尾は息災の 意)。(3)六臂像は更に右手に月輪,左手に梵筐を持つ。儀軌には無いが口伝として尊重する。またインド・チベットの八臂像も儀軌は不明。本位 には仏母大孔孔雀明王(2) 3巻・不空訳(大19・982)以下983認まで7種。秘法としての孔雀経法の流布と,図柄として平安後期から傑作が多 い。
金剛峰寺蔵(1200,正治2,快慶作)は孔雀堂本尊で木彫。
絹本着色図には宋画を仁和寺に蔵し,正面図は文化庁・智積院・安楽寿院・松尾寺や井上・原両家に,斜めを向いた像が法隆寺にある。醍醐 寺には白描に淡彩を加えた図像としての下図がある。
[東京国立博物館蔵・1幅]国宝。絹本着色。縦148.8×98.8cm.孔雀経法の本尊で,四何の坐像は,正面向きの両翼を下げた孔雀の背に直接 に結蹄鉄坐する端厳な明王は,白い肌を朱線で描き,淡赤の量で立体的にする。四隅に花瓶を置いた単尊曼荼羅風で,孔雀の尾の文様を強 調して光背の外側に配列した。色調は華麗に見えて落付いた平安後期の特色を発揮する。処々に用いた截金文様の技工も目立たぬように 工夫され,保存の点も完好。
[仁和寺蔵]1幅。国宝。絹本着色。席末画。絹本着色。 168.8×103 cm。雲中の孔雀座に半跏趺坐する三面六何の単尊像である。白色の蓮 辯に,肌色の肉身は絹く,端麗な面相とも,わが国の仏画の概念には遠い。赤色の頭円光,光背の外郭一面に孔雀尾が広った構図で,最下 底の孔雀の踏む蓮台ぱ青と緑で全体を統一した高尚な画面を現出している。頭部左右に鬼面の横向きが見え,3何は合掌と弓矢,矛のよう な武器を持つ。金泥線で牡丹唐草などを精巧に描いて席末仏画の典型,寧ろ最高級の代表作といえる。わが国には輸入されていない孔雀 径法の本尊図であろう。
[高野山・孔雀堂安置]重文。木造坐像。像高78.5cm.両翼を開げ,尾を光背のように展開
した正面向きの孔雀の背に蓮華座を置いて結跏趺坐した四臂の明王像で,1200(正治2)10
月18日,後鳥羽法皇の発願で供養された。来書の胎内銘で安阿弥・快慶の作。






●法圓寺勧請の薬師如来坐像いわれ●

 

 この薬師如来のご尊像は、法圓寺住職龍雲好久の極めて不可思議な所縁により、この薬師如来ご尊像自らが法圓寺に勧請されることをご請願あそばされたかのごとく、法圓寺に祀られました。
 その不可思議な所縁の一端を申し上げますと、ある方から「萬歳楽山に薬師如来を是非、勧請してほしい」との請願を受けて、萬歳楽山「要石」側に見えざる薬師如来を勧請させていただきました。
 すると、不思議なことに、程なくして、奈良東大寺華厳宗僧の老師が、突然、ある薬師如来を持参し、この寺で供養してほしいというのです。
 あまりの不思議さに、この当時の法圓寺の総代長さんにお話申しあげたところ、「住職がそれほど大切に感ずるお薬師さまであるのなら、不肖ながら、功徳主とならせていただくから、そのお薬師さまを法圓寺に勧請なさい。」とあげて頂きました。

 しかし、恥ずかしながら、この薬師如来のことは何もわからなかったのですが、まさか、平安時代に遍照金剛弘法大師空海大和上が、唐から密かに勧請された薬師如来と同じ最も古い様式のものであり、その薬師如来様は仁和寺にお祀りされたものであり、しかも、現在でも、国宝の念持仏として仁和寺にお祀りされているお薬師さまと同じ様式で作られた仏像とは、つゆほども知らなかったのです。
 平成三十年一月二日、歓喜寺の正月護摩祈祷を終えて、法圓寺に戻り、たまたまテレビのスイッチを入れましたところちょうどNHK総合テレビで、仁和寺の国宝の秘仏が初めて公開されるというところでした。ちょうど、歴代の天皇が生前退位されると、仁和寺に移られて、真言僧となって、(空海大和上が唐から持ち帰られた仏を仁和寺に祀り)国家安寧、万民豊楽をご祈念されたという所縁の秘仏が祀られている小さな古い厨子を恐る恐る、今まさに開けんとするところでした。
 その様子を固唾をのんで見守っておりますと、なんとそのお厨子から取り出されたご尊像は、全く、法圓寺に勧請された薬師如来と同様式の最も古い様式の薬師如来です。仁和寺は火災に遭い、この尊像は、かつてあった薬師如来と全く同じものを日本の仏師に彫らせ、しかも、何があってもいつでも念持仏として持ち出せるよう小さく復元したというもので、国宝に指定されているものでした。
 法圓寺に勧請された薬師如来は中国チベットの僧により、古式に則り造佛されたものだと老師が話しておりましたから、むしろ、法圓寺のお薬師さまのほうがお大師様が中国から持ち帰られた仏像の原型に近いものかもしれません。
 
薬師如来座像の特徴
仁和寺の薬師如来座像は香木の代表格である「白檀(びゃくだん)」を用いて素地仕上げ(透明のワックス)した檀像(だんぞう/香木を用いて造像された像)になりますが、法圓寺のは白檀ではありません。

左手には薬師如来らしく左手の掌に薬壺を乗せ、右手は掌を正面に向けて全開に開いて「施無畏(せむい)」の印を組んでいます。

衣装は左右の肩を覆いかくし、向かい見て右肩を覆った布は足元までを覆いつくしています。

台座部は本像の着衣の一部が覆う宣字座(せんじざ)様式の台座となり、この台座からしても造立年を証明する証拠の1つとなります。

宣字座とは、名前の通り「宣」の漢字のような形状の台座をしていることからこの名前が付され、日本史上における仏座としては最古の様式の仏座になります。

ちなみに上述した日光・月光菩薩立像の背面には後屏(こうびょう)が設けられ、ここにも見事なまでの繊細な唐草模様の彫刻(宝相華唐草)が彫られています。

薬師如来座像の造立方法

薬師如来座像の造立方法は一材から切り出した「一木造り」で造像されています。

像内は底部から躰部に至るまで内刳りが施されていますが、着衣の一部と白毫(びゃくごう)部、左手の薬壺は別材で造立されています。
頭部の光背には七仏薬師、背面光背には脇侍として日光・月光菩薩立像、台座部には十二神将の繊細な彫刻が半肉彫りで彫られ、同じく造立当初の彩色を残しています。
現存する薬師如来座像としては珍しく、貴重です。





法圓寺諸尊のご真言










































法圓寺の十六羅漢




十六羅漢
(解説)
 十六羅漢は阿羅訶 (Arahan)または阿羅漢(Arhan)の異? 名にして、殺賊、応供、不生と訳し、訳名によって意義あり。
 すなわち殺賊とは煩悩の賊を殺す意、応供とは天人最高の供養を受くべき意、不生とは仏心の種子を生じて、ふたたび生死の苦を受けざる 意等なり。
 故に大疏には「阿羅河というは阿羅はこれ煩悩、河はこれ害の義。釈論にこれを殺賊という。
 仏は忍道をもって鎧甲とし、? 持戒の馬に乗り、定の弓、慧の箭をもて、外には魔王の軍を破し、内 には煩悩の賊を滅す、故にもって名となす。
 また阿をば不となし、 羅漢を生と名づく。いわく仏心の種子は後世田中に生ぜず、無明の? 穀皮脱するが故に。また次に阿羅河はこれ応受供養の義なり。かく の如きの功徳あるをもっての故に天人最上の供養を受くべし」と。
 ま た智度論には、「阿羅は賊と名づけ、漢は破と名づく、一切の煩悩を 破するを阿羅漢と名づく。また次に阿羅漢は一切の漏をつくすが故 に一切世間諸天の供養を受くべし、また次に阿は不と名づけ、羅漢を生と名づく、後世の中にさらに生ぜず、これを阿羅漢と名づく」 と。
 また法住記に曰く、「梵語に阿羅漢、華に無学という、いわくそ の生死すでに尽き法として学すべきなし。また無生という、いわく その思思の惑を断じつくしてまた三界の受生なし。また応供という、 いわく、それ人天の供養を受くべきなり。また殺賊という、いわく、 それよく煩悩の賊を殺して、それみな三明六通無量の功徳を具する をもっての故に、称して大となす。この阿羅漢仏勅を承くる故に神 通力をもってみずからの寿量を延べ、世間に住して正法を守護し、 今に至りてなおいまだ入滅せず。もし世間に大施無遮会を設くる時 に遇うて、すなわちもろもろの眷属に同じく聖儀を蔽隠して凡流に 同じてひそかに供養をうけ、施者をして勝果報を得しめ、有情を饒 益せしむ。これを十六大阿羅漢となす」と。
 しかして羅漢には二種 、三種、六種、九種の羅漢あり、また十六、十七、五百の羅漢あり。 れぞれ出典あるによる。
 今ここにあぐる十六羅漢は十六人の大阿羅漢にして、すでに阿羅漢の果徳をそなえ、仏勅によりて一切の衆生を済度する者なれども、古来十六羅漢の説には二種あり、おのお のその名を異にす、すなわち一は阿弥陀経に説かるるものにして、 二は法住記の説によるものなり。すなわち阿弥陀経には、舎利弗、 目建連、迦葉、迦旋延、倶?羅、離婆多、周利槃陀迦、難陀、阿難陀、 羅喉羅、僑梵波提、賓頭盧頗羅堕、迦留陀夷、劫賓那、薄拘羅、阿兔楼駄の十六羅漢をあげ、
 法住記には賓度羅跋羅惰闍、迦諾迦伐蹉、 迦諾迦跋釐情閣、蘇頻陀、諾矩羅、跋陀羅、迦哩迦、伐闍羅弗多羅 成博迦、半託迦、羅怙羅、那迦犀那、因掲陀、伐那婆斯、阿氏多、 注奈半咤迦の十六羅漢をあぐれども、いずれを真とするやつまびら かならず。ただ法住記は仏滅後八百年ののち獅子国の阿羅漢難陀蜜 多羅尊者の記せるものにして、同書中に「尊者日く、汝等諦かに聴 け、さきにすでに法住経を説く。今まさに汝等のために粗更宣説せ ん」とあるより察すれば、これまさしく如来の説にして、後説にあ らざるを知る。今は法住記により十六羅漢の像を掲げ解説せん。                                      【仏像図鑑】より


一 ひんどらばらだじゃそんじゃ  
  賓度羅跋羅堕闍尊者

白眉皓首、岩窟に依り波瀾を見、両手に小宝塔を捧げ、中に仏像を安んず。



賓度羅跋羅惰闍(ひんどらばらだじゃ)
賓度羅跋?惰闍尊者 (Pindolabharadvaja) 梵語の賓度は華に不 動という字なり。梵語の跋?惰闍は、華に眷疾という、姓なり。こ の尊者は千の阿羅漢とたぶん西瞿耶尼洲に住在す。
※賓度羅跋?惰闇 (Pindolabhadradvaja) は所謂賓頭盧 であって、実在した釈尊の直弟子である。この尊者が常に世に在って涅槃に入らず、正法を護持すべしと命ぜら れたことは、雑阿含第二十三にも説かれる。四大声聞の 一人。


                                       【仏像図鑑】より

賓頭盧(びんずる、 ピンドーラ・バーラドヴァージャ、音写:複数あり)は、釈迦の弟子の1人。獅子吼(ししく)第一と称される[1]。名がピンドーラ、姓をバーラドヴァージャである。名前の意味は、不動、利根という。十六羅漢の第一。バーラドヴァージャはバラモン十八姓の中の一つである。
漢訳では、賓頭盧跋羅堕闍(びんずるばらだじゃ)、賓頭盧突羅闍(びんずるとらじゃ)、賓頭盧頗羅堕(びんずるはらだ)、賓度羅跋?惰闍(びんどらばらだじゃ)などと音写する。略称して賓頭盧(尊者)と呼ばれる。

博識であり慈悲深く十善を尊重し、阿羅漢果を得て神通力を得た。白髪長眉の相があったといわれる。

彼の説法が他の異論反論を許さずライオンのようであったため獅子吼第一といわれるようになった。優填王が仏教に帰依したのは、夫人の勧めという説もあるが、賓頭盧尊者の説法によるとも伝えられる。

【逸話】
 釈迦仏がコーサンビーに在したある時、王は彼を尊重し、常に住して求法問訊した。ある時、賓頭盧尊者が起立して王を迎えなかったことを、不信楽のバラモンの大臣が見て悪心をもって王に告げると、王は「明日、まさに往くべし。もし起立せずば賓頭盧の命を奪うべし」といった。翌朝、賓頭盧尊者がはるかに王が来るのを見て便ち遠く迎え、先呼し、「善来大王」といった。王は「昨日はなぜ立って迎えなかった」と問うと、尊者は「汝の為なり」と答えた。王は「何が我が為か」と問うと、「昨日は善心をもって来られたが、今日は悪心をもって来られた、もし我が立たなければ、まさに我が命を奪うだろう。もし我が命を奪えば地獄に堕す。もし立って迎えれば、汝は王位を失うであろうが、むしろ王位を喪失しても地獄には堕させん、と考えたので起立して迎えた」と答えた。王は「いつ王位を失うのか」と問うと、「却って7日の後に必ず王位喪失す」と答えた。王は驚いて帰り、城を修治し集兵し警備した。しかし7日を過ぎても敵が現れず、尊者の言を否定し多くの采女(うねめ)と船に乗り遊戯したが、慰禅王国の波羅珠提王に捕えられ、7年間も禁固されたといわれる。

 仏が成道して6年後、ラージャガハ(王舎城)において、賓頭盧が白衣に対し妄りに神通を現じて外道の嘲笑を招いたので、仏より、軽々しく神通を示現することを止めるように叱責された上、閻浮提(えんぶだい)に住することを許可せず、往って西瞿陀尼洲(西ゴーダニーヤ洲)を行化しせめられた。のち、閻浮提の四衆の請により、仏が賓頭盧の帰るのを許すも涅槃に入ることは許さなかったことから、永く南インドの摩利(マリ)山に住し、仏滅後の衆生を済度せしめ、末世の供養に応じて大福田となるといわれる。

 賓頭盧は十六羅漢の第一に挙げられ、1000人の阿羅漢を所属し、西瞿陀尼洲(西ゴーダニーヤ洲)に住すといわれる

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賓度羅跋羅惰闍尊者は十六羅漢の一なり、結跏正座し螢奴側に立つ、鬼使ありその前に稽首す、侍者その書を取りて之を通ずるの図即ち是れなり。(『画題辞典』斎藤隆三)より


二 かだくばじゃそんじゃ   
  迦諾迦伐闍尊者


容貌肥大、鬚や髪巻き縮れ、巌に依つて踞り手に払子を執り、上に松の樹があり胡人掌を合せて側に立つ。

・迦諾迦跋蹉(かだくかばさ)
迦諾迦伐薩尊者 (Kanakavatsa) (翻なし)この尊者は五百の阿羅 漢とたぶん北方の迦湿弥羅国に住在す。
※阿羅漢具徳経の掲諾迦?蹉比丘に当たり、正法護持に 因縁あり。


【仏像図鑑】より

迦諾迦伐嗟尊者は、十六羅漢の一なり、合掌跌坐し、蛮奴前にありて犢を捧ぐ、老人之を発するに中に琉璃瓶あり、舎利十数を貯ふるの図、即ち是れなり(『画題辞典』斎藤隆三)より。

【逸話】

 由緒あるガロガバールはマガダの裕福な家庭で生まれました。彼が生まれたとき、彼は美しい子供であっただけでなく、前世での彼の善行のために、彼が生まれたとき、彼は多くの奇跡的な兆候を示しました。彼が生まれると同時に、母象は排尿しかできない象の赤ちゃんを産みました。そのため、家族は子供を「黄金の象」を意味するJialuoJiavahuiと名付けました。占い師は子供の周りにたくさんの良い兆候を観察し、子供が生まれたときに何が起こったのかを両親に尋ねました。子供の両親は、同時に母象が素晴らしい象の赤ちゃんを産んだと彼に話し、占い師は象の赤ちゃんがこの子供のために生まれたと説明しました。
 子供が成長すると、金色の象も成長し、子供と小さな象は切っても切れない親友になります。子供たちが遊びに行くとき、彼らはしばしば金色の象の背中に乗ります。ある日、一緒に遊んでいた子供たちが家族の宝物について話し合ったところ、ガロ・ガバラは仲間に、生まれたとき、家族の中に金色の象が生まれたと話しました。この金色の象はとても不思議です。たわごとと尿はすべて金色です。好きなだけ取ることができます。たくさんの富があるので、好きなものを買うことができます。グループの子供たちの一人はマジェチャ王子でした。ガロガバールが言ったことを聞いた後、彼は自分自身に思いました。 、彼はガロガバールを見つけるために使節を送り、ガロガバールに金色の象と一緒に宮殿に入るように命じました。ガロガバラが両親に事件を知らせたとき、両親は彼に言った:「マジェチャは残酷で野心的です。彼は父親を殺し、王位を奪いました。彼は果てしない欲望を持っています。彼は黄金の象を連れ去らなければなりません。現在の状況を知りましょう。象を彼のところに行かせてください!」

 ガロ・ガバールは金色の象を奪うことはできないと繰り返し抗議したが、ゴンミアンくんに入ることに同意した。それで、息子と父は象の背中に乗ってマジェチャ王の宮殿の門に行き、警備員が彼らに知らせたとき、彼らは象を父と息子と一緒に宮殿に導きました。父と息子が象と一緒に王に会い、彼に挨拶したとき、王はとても幸せでした。彼は父と息子に座って食べ物や飲み物を閉じるように頼んだ。父と息子が去ったとき、王は彼らに言った、あなたは一人で戻ることができます、しかし金色の象は宮殿にとどまります。

 父と息子は王の要求に同意し、立ち去りました。彼らは家に帰りたかったのですが、宮殿の門からそう遠くないところに金色の象が現れ、宮殿の中から通路を掘って走り出しました。二人は大喜びして金色の象に乗って家に帰りました。しかし、父と息子はそれほど怖くはなく、残酷な王に罰せられるかもしれません。

 GaroGavarは次のように考えています。

 「私がこの世でこの現象に苦しんでいるなら、黄金の象は役に立たない。逆に、私がこの世のすべての生き物のために世界にやってきた釈迦牟尼によって弟子として受け入れられれば、黄金の象は役に立たない。象は私や他の人にとって幸運になるでしょう。」これを考慮した後、ガロ・ガヴァルショは両親に家から逃げることを許可するように頼み、両親は同意しました。それで、独孤伽羅は金色の象を連れて、釈迦牟尼仏が当時住んでいたゴリンに向かった。独孤伽羅に到着した後、Jialuo Jiafaxiuは、釈迦牟尼仏に避難したいという敬意と願望を表明しました。釈迦牟尼仏は彼に言った:「さあ!」仏陀の生きた言葉の超自然的な力で、ガロ・ガヴァチャはすぐに僧侶になりました。その後、独孤伽羅は道教への参入を達成し、阿羅漢の地位を獲得しました。

 それ以来、Arahant Jialuo Jiavachoと彼の信奉者、僧侶、僧侶がどこに住んでいたとしても、黄金の象はいつも彼と一緒にいました。すぐに、街中の人々がここに来て、僧侶の瞑想の練習を妨げる魔法の象を見に来ました。釈迦牟尼仏は独孤伽羅に言った。「あなたの黄金の象はあなたの練習に影響を与えるような騒々しい状況の原因です。あなたはそれを捨てなければなりません!」しかし、象は決して私を離れることはありません。」仏は言った:「あなたが黄金の象に3回言うならば、「私はもう出産しません、私はもうあなたを必要としません。」消えます。黄金の象に何度も、黄金の象は地面に入り、姿を消しました。

 当時、このすべてを目撃した他の僧侶たちは驚いた。彼らは釈迦牟尼に、独孤伽羅に起こったすべては前の世界の良いカルマによって引き起こされたと尋ねました。仏陀は「 『三宝』に忠実な人なら誰でも良いカルマの種を蒔きます。独孤伽羅の前任者は生後3万年以内に生きました。当時、光を守る仏陀もたまたま生きていました。 。光を守るとき仏陀が亡くなった後、人々は彼の灰(レリック)を塔として多くの仏教の仏舎利塔を建てました。これらの仏舎利塔のうちの1つは象の形にされており、仏陀がいつ生まれたかを示しています。彼の母親は妊娠していた。象の形が母親の胎内に入った。その時、象の形をした仏の仏舎利塔の片側がわずかに損傷し、仏塔を崇拝した巡礼者によって偶然発見された。仏陀への敬意と信念を持って、彼は損傷した部分を改修しました。この機会を利用して、巡礼者はまた、彼の蓄積された良いカルマで、彼が良い利益を生き、計り知れないほどの富を持つことができることを祈りました(すべての衆生を助けます)。彼の祈りは確認されました。巡礼者の数少ない二度目の生まれ変わりでは、彼は常に親切に生まれることを任されています-神または人として、そして彼が生まれ変わるたびに彼のために働く黄金の象が常にいます。彼は最高の「3つの宝物」を尊重しているからです「彼は私に守られ、私に従う習慣があります。仏教を学び、アラハントの地位を得るために僧侶になる機会があります。」

 由緒あるカルオ・ガヴァチャの功績と功績は、次世代の僧侶の模範となり、小さなものであっても、良いカルマを蓄積することによって聖なる領域に入る人々が計り知れないほどの善を得るであろうことを示しています。
 人は世俗的な世話や富に気を取られてはならず、世俗的な生活に夢中になっているだけでもいけません。気まぐれで必然的に衰退するものに夢中になるのは無意味です。それどころか、人は心と体を尽くして「三宝」に改宗するよう努めるべきであり、「三宝」だけが欺くことなく完璧な人生の目的を彼に与えることができます。由緒あるカロヴァッハはまた、仏教を守り、仏教に帰依し、戒律を厳守する例を示しました。法に従う人々はまた、可能な方法を示しました:最初に、生まれ変わりの苦しみから自分自身を解放し、次に仏になること。【中文百科知識】より



三 かだくばりだじゃそんじゃ  
  迦諾跋釐惰闍尊者


鬚や眉黒くして長く、手に念珠を爪繰り牀に倚つて瀑を見る、鬼の使者有り、二角三目両手に剣を支へて侍す。

・迦諾迦跋釐惰闍(かだくかばりだじゃ)
迦諾迦跋釐惰闍尊者 (Kanakabharadvaja) (翻なし)この尊者は 六百の阿羅漢とたぶん東勝身洲に住在す。


                                    【仏像図鑑】より

迦諾迦跋釐惰闍尊者は十六羅漢の一にして、正坐せる下に白猿猴あり、果を献ず、侍者盤を執りて之を受くるの形を図するもの是なり。
サンスクリット語の名前:kanaka-bharadvaja)を提供し、600の羅漢でDongshengshenzhouに住んでいます。彼はもともと施しを持った僧侶でしたが、彼の施しの方法は鉄の鉢を上げて人々に食べ物を乞うことでした。この由緒ある人は思いやりがあり平等であり、物乞いによってすべての生き物に祝福された畑を植え、模範と言葉で彼らに法を教えました。
第三尊者の迦諾迦跋釐堕闍は、須弥山の四大洲のひとつで東方に位置する東勝身洲に、600人の眷属と住んでいます。
形相については、羅漢研究として有名な養?徹定編『羅漢図讃集』(文久三年〈1863〉)に
「鬚や眉は黒く長く、手に念珠を爪繰り、牀(椅子)に倚って瀑を観る。鬼の使者がいて、二角三目にして両手に剣を支えて侍す。」
と記述されています。
しかし、羅漢の形相は様々であるため、これは代表的な例のひとつであるといえます。
彫刻においても決まったかたちはなく、様々な姿であらわされています。
                              (『画題辞典』斎藤隆三)より


四 そひんだそんじや 
  蘇頻陀尊者


右手に桙を執り、左手に鈴を執り而して胡床に踞る、華服の胡人あり合掌して立つ。
・蘇頻陀(そびんだ)
蘇頻陀尊者 (Subinda) 北倶洲に住在す。 ほっくるしつ (翻なし)この尊者は七百の阿羅漢とたぶ 。 ※阿羅漢具徳経の輸毘多比丘に当たる。法住記では十六 羅漢中の第四の尊者として掲げられる。


                            【仏像図鑑】より

蘇頻陀尊者是佛祖的最後一位弟子。五百羅漢之第三百六十七尊,十六尊者之十五,《法住記》所列十六羅漢中的第四位。他為紀念佛陀,曾特製一塔,隨身攜帶,故又被稱為“托塔羅漢”

 古代インドでは、ロマターバン地域にジアガイジアチャジンという家族がいて、釈迦牟尼仏に法を教えてもらいました。仏陀が法を教えた後、多くの人々が仏教に改宗しました。ロマには裕福な家庭もあり、彼は自分と同じカーストの女性と結婚し、彼女と幸せに暮らしました。仏陀の招待の直後、裕福な家族の妻は妊娠し、満期で息子を出産しました。しかし、赤ちゃんは全身に傷跡を残して生まれ、傷跡から膿や血が大量に流れ出し、悪臭を放っていました。これを見て、夫婦はとても怖かった。裕福な家族は彼らのアイデンティティとお金を使って多くの医者とウォーロックを雇い、息子を治療する方法を見つけ、病気の子供の世話をする人を雇いました。病気を治すために、裕福な人はお金を使うことを躊躇しませんが、これらの努力はすべて無駄です。赤ちゃんの病気の根源は、彼が前の世界で作り出した邪悪なカルマだからです。
 有名人が傷跡を見せないように、子供の体は常に布で覆われていたため、「Su Pintuo」(「見えない」という意味)と名付けられました。
 ある日、スピントの友達が何人か訪ねてきましたが、友達はスピントとほぼ同じ年齢で、よくシロヴァ・シディの街に行きました。彼らはSuPintoの父親に、Sriva Siddiには多くの有名な医師や貴重な医薬品があり、SuPintoがそこに送られた場合、彼の病気を治すことができると語った。 Su Pintoの父親は彼らの提案を受け入れ、たくさんのフードパンと使用人を持った何人かの若者をSuPintoと一緒にSrivaSiddiに送りました。SrivaSiddiに到着した後、すべての便利さにもかかわらず、彼は最善を尽くしましたが、それでもSuPintuoの病気を治すことはできませんでした。この病気は前世の悪いカルマの報いだからです。
 その後、偶然、スー・ピントゥオがトゥオリンにやって来て、完璧で完璧な仏陀釈迦牟尼を見ました。彼は非常に驚いて、敬意を表して仏陀に頭を下げました。釈迦牟尼仏はすぐにスーピントの肉体的および精神的苦痛を知り、彼は自分の状況に基づいてスーピントを教えました。ファを教えた後、スー・ピントゥオはすぐに5つの集合体(物質、感情、思考、行動、意識)の短い期間を理解し、僧侶になりました。そして彼は時間内に羅漢の地位を得ました。スーピントの友達もダルマに耳を傾け、すべての知識を知るという成果を達成しました。ほこりの運命を捨てて、彼は僧侶になり、僧侶になりました。
かつて、仏陀の弟子が仏陀に尊者スピンタについて尋ね、なぜそんなに痛みが続き、人が見えないほど臭いスピンタがそのような知恵を得て僧侶になったのかと尋ねました。間違いなく阿羅漢の地位を獲得しました。比丘の弟子たちは、前の世界からのカルマがスーピンにそのような祝福を得させた理由を知りたがっていました。
釈迦牟尼仏は、「前世にどんなカルマが蓄積されたとしても、この世に報いを受けなければならない。自分が植えたカルマの報いから逃れることはできない。四つの生命のない四大要素土、水、火、風)はこれらのカルマ果実を成熟させることはできません。「5つの集合体」を形成する体と心を持っているそれらの衆生だけがカルマ果実を熟成させることができます。ある特定のSuPintuoの状況を見てみましょう過去の人生、カルマの法則をより深く理解するでしょう。
 スーピントがボラナキの商人だったとき、彼は別のビジネスマンと憎んでいました。スーピントは地元の王に多くの贈り物を与え、王の好意を勝ち取りました。彼は王に言った。商人は犯罪を犯し、国に彼を厳しく罰することを許可するように頼みました。王は彼の要求に同意しました。それでスーピントは商人に大量の血を流すように誰かを送りました。スービントゥオはまた人々に毒粉をこするように指示しました。お互いの出血している傷に、彼はさらに苦しみました。商人の体は潰瘍になり、膿が流されました。商人の友人は、この悲劇的なメッセージを知った後、彼を慰めに来ました。彼の世話をします。
後で殴られたビジネスマンは彼を放棄しました。運命をたどって僧侶になり、教祖の指導なしに一人で修行し、独立した仏陀になりました。
その後、前にむち打ちをした実業家のスー・ピントゥオが、相手が自分の過ちを悔い改め、悔い改めて埋め合わせてくれることを期待して、悪行が悪いカルマにつながるので、彼のところに行くことにしたと、一人意識的に思った。それ。Su Pintuoを助けるために、仏陀は彼の前に現れることに決めました。その結果、仏陀は空を飛んで、多くの奇跡を示しました。商人のスピントゥオは、普通の生き物のように、この光景を見ると、心に畏敬の念を抱き、心を信じるようになりました。彼は仏陀の前にひざまずき、過去の仏陀に対する罪によって引き起こされた悪いカルマを悔い改め、仏陀の許しを祈りました。その後、スピント商人は仏陀に食べ物、飲み物、衣服などを供物として寄付し、誠実な悔い改めを祈りました。最後の弟子のSupinto商人は、この世界の由緒あるSupintoです。彼は鞭を使って他の人を殴り、悪を加えたので、Su Pintuoはビジネスマン以来、500回の再生ごとに鞭によって殺されました。この人生においてさえ、創造された邪悪なカルマのために、彼はまだ肉と血に苦しんでいます。
その後、仏陀が生きていたとき、スーピントと彼の友人たちは仏教に改宗しました。彼は規律を守る人であるため、この人生でアラハンの地位を獲得しました。
 報復のためのカルマの失敗は堅固で容赦のないものです。

 仏陀釈迦牟尼はついにこう言いました。

 尊者スパントゥオの経験から、私たちはカルマの法則の冷酷さを知ることができます。また、仏陀の教えは永続的および短期的な観点から完璧であることがわかります。            【中文百科知識】より



スバッダ(巴: Subhadda、梵: Subhadra 音写:須跋陀、須跋陀羅、蘇跋陀羅 等他、訳:好賢、善賢 等他)は、釈迦の弟子の一人である。また釈迦が入滅する直前において最後に弟子となった人である。


彼はクシナガラのバラモンであった。遍歴行者で、四ヴェーダに通じ、聡明多智で五神通を得て、非想非非想定を得ていた。

彼は、釈迦仏が近々、涅槃に入られんことを聞き、最後の布教の旅でクシナガラに来訪した仏と会い、自身が疑問とするところを釈迦仏に質した。時に彼は120歳であったと伝えられる。そして疑問が解消されて釈迦仏の弟子となった後は、一人で群集から離れ修行に励み阿羅漢果を得た。彼は仏が涅槃に入るのを見るのが忍びなく、先に般涅槃したともいわれる(雑阿含経35)。

大智度論3には、彼はある夜、一切の人がみな失明し裸で闇中に立ち、日が落ち大地が破し、大海は乾いて、大風が須弥山を吹き散らしたという夢を見た。翌朝、仏が今夜半、涅槃せられんと聞き、釈迦仏に会って出家し、その日の夜のうちに証果を得たという。

(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


蘇頻陀尊者は十六羅漢の一にして、三指を屈して胡人の問に答ふるもの是なり、下に蛮奴あり函を捧ぐ、童子あり戯れに亀を捕ふの図                           (『画題辞典』斎藤隆三)より

彼はしばしば手で塔を持っていました。塔は仏の遺物を埋めるために使用されたため、塔は仏のシンボルになりました。彼の記憶を表現し、仏陀に従うために、彼は彼と一緒に運ぶために特別な塔を作りました。そのため、由緒あるスピントは「トタローハン」とも呼ばれています。

500アーハットの367番目である由緒あるSupintuoは、足を組んで、手でムードラを作り、経典を説教し、集中して微笑んで、少し左に座っています。彼の法王は偉大な知恵、誠実さ、そして敬虔さを持っており、よく知られています。
                                    【中文百科知識】より

五 なくらそんじや     
  諾距羅尊者


首や眉長く白く、手に羽扇を執り、岩窟に踞り、双つの鴛鴦を見る、侍者ありて梵篋を抱く。

・諾距羅(なくら)
諾矩羅尊者(Nakula) 梵語の諾矩羅は華に鼠狼山という、この尊 者は八百の阿羅漢とたぶん南瞻部洲に住在す。以上十六羅漢、その像容は古来多様にして一定するをえず。
※阿羅漢具徳経の諾曲羅長者に当たる。法住記では十六 羅漢中の第五の尊者として掲げられる。


                                        【仏像図鑑】より


サンスクリット語名ナクラ。伝説によれば、彼と彼の家族が800人の阿羅漢と共に南方島に住んでおり、彼はダルマを擁護し、非常に愛情深いものでした。唐代の禅悦師である貫休が描いた絵は、石の上に座って、希望の形をした手で左肩を背負い、背中を引っ掻く木の少年です。敦煌千仏洞窟の洞窟76の壁画には、右手を胸に握りしめ、左手を膝に抱えて岩の上に座っているヌオジュルオ・アラハントの像があります。                【中文百科知識】より

【「明恵上人」と「第五尊者諾矩羅(ナクラ)尊者」】
 京都・高山寺所蔵の国宝「明恵上人樹上坐禅像」は、華厳宗中興の祖、明恵上人高弁(1173〜1232) を描いた掛幅画である。高山寺の裏山、楞伽山の中で松の上に坐禅する明恵をあらわす。緻密な写貌 表現が、在りし日の上人を彷彿とさせる。近年、議論の的となっているのは、この図様の型を羅漢図 に求め、主題もまた明恵を羅漢に擬すことにあるとする説の是非である。本発表ではこのような研究 動向を踏まえ、以下に示す二つの新知見をもとに、本作の型と主題をめぐる問題を考察し、その制作 背景に試論を呈したい。 第一に、十六羅漢信仰で知られる明恵が、殊に第五尊者諾矩羅(ナクラ)を思慕していたという側 面と、この十六羅漢中の諾矩羅の図像に、本作と共通性を有する作例が複数見出されることを指摘す る。すなわち、報恩院本『高山寺明恵上人行状(漢文行状)』所収の「御消息三通」には、明恵が諾矩 羅宛に手紙をしたためたり、宰相阿闍梨なる人物から諾矩羅の御影を借り受けようとする様子が記さ れるが、和歌山・浄教寺や大阪・法道寺には本作同様、向かって左を向き、瞑目して禅定する諾矩羅 像が現存する。『高山寺縁起』等によれば、十三世紀初め、高山寺が数組の十六羅漢図を蔵していたと いう。その中に存在した禅定形系統の諾矩羅像が、坐禅する像容の範とみなされ、本作の型として取 り入れられたのではないかと考える。本作が、向かって右を向く明恵を描いた他の主要な上人像群と 異なり、<欠けた右耳>の上人像ではない理由もここにあると考えられる。 だが一方で、広く描かれる山林など、全体はむしろ羅漢図に擬すことにこだわりを感じさせない。 型の使用は部分的なもので、主題は別にあると察せられる。そしてその内実を知る手がかりは、画面 上部に付された明恵自筆と伝わる賛にあると考える。そこで第二に、この賛が明恵自筆の可能性が高いことを再確認する。先行研究では明恵自筆とする のに否定的な傾向がみられるが、他の文書類の筆跡と改めて比較すると、賛には明恵特有の書き癖が 看取される。とすれば、文言を明恵の思想に依拠してより厳密に読み解き、その意味を画像に反映さ せながら主題を再考すべきであると考える。ここで賛中の「擬凡僧坐禅之影。写愚形。安禅堂壁」と いう文言に注目したい。既に指摘されるように、自著『三時三宝礼釈』の中で、明恵は「凡僧」を「住 持の僧宝」という、正信正見をそなえた現実に存在する僧として説明する。それは、羅漢とは別の位 置づけであるだろう。つまり、本作は、実際の山中を舞台に、あるべき僧の姿を描き出すものであっ たと考えられる。元仁元年(1224)冬、明恵は楞伽山に蟄居し、一向に坐禅した。その間、多くの瑞 夢を得たという。そうした中で、自己を「凡僧」像として絵に留め、禅堂に安置して弟子らに示そう と構想し、自身が思慕する諾矩羅の図様を借用して制作したものが本作なのではないか。
                                  【伊藤 久美(東北大学)】より


六 ばたらそんじや     
  跋陀羅尊者



髪短く眉長く悉く皓、胡床に踞り双手数珠を爪繰り円相を為す、画屏後を擁し、香炉を傍に置き寄花を挿す。

・跋陀羅(ばだら)
跋陀羅尊者 (Bhadra) 梵語の跋陀羅は華に好賢という、この尊者 は九百の阿羅漢とたぶん?没羅洲に住在す。
 ※阿羅漢具徳経の賢比丘に当たる。法住記には十六羅漢 中の第六の尊者として掲げられている。


                                    【仏像図鑑】より


バドラは「賢者」を意味し、仏陀の脇侍でした。伝説によれば、彼は入浴を担当しており、彼のためにいくつかの禅の森の浴室があります。Ba Tuo Luoの母親は、妊娠中にBa Tuo Luoの木の下で出産したため、彼をBa TuoLuoと名付け、Ba Tuo Luoが僧侶になった後、LuoHanと呼ばれました。彼は仏教を広めるために舟でイーストインディーズに旅行したと言われているので、後の世代は彼を「羅漢川を渡る」と呼びました。                【中文百科知識】より

跋陀羅尊者は十六羅漢の一にして、右手を以て願を支へ、左手穉獅子を拊して之を視る、侍者側に在り瓜を擇て之を剖くを図となす。                           (『画題辞典』斎藤隆三)より




七 かりかそんじゃ   
  迦理迦尊者


松の根に倚り左脚を挙げ、右肩を祖ぎ右手を挙げ左手に虎を持す。

・迦理迦(かりか)
迦理迦尊者 (Kalika)(翻なし)この尊者は千の阿羅漢とたぶん 伽奈洲に住在す。       


                     【仏像図鑑】より


 【逸話】
 由緒あるカリカは、当時の6大都市の1つであるスリバスティアで生まれました。父親はディンハオで、仲の良い妻と結婚し、夫婦は幸せに暮らしています。しかし、夫婦には子供がいなかったので、彼らは自分の子供が欲しいと切望していました。このために、心から祈り、惜しみなく与えてください。ついにある日、金持ちの妻が妊娠した。妻はもともと5つの並外れた知恵を持った賢い女性だったので、彼女の叔母は妊娠するとそれを見つけることができるでしょう。その後、彼女は夫に妊娠の良い知らせを伝え、男の子を妊娠していると伝えました。夫はその知らせを聞いてとても喜んで、「長い間祈っていたので、ようやく子供を楽しみにしています!」と言いました。金持ちはまた祈り続けました。「この子供が私の家族の香、子供と孫が伸びることができるように。子供が彼の生涯を通して幸せになることを願っています。彼が家事を管理する能力を持っていることを願っています。彼が財産と家畜の世話をしてくれることを願っています家族。私の両親が亡くなった後、彼が心から祈り、私たちの死んだ魂を慰めるために善行をすることを願っています。」
 金持ちは、妻の胎内にいる将来の子供を細心の注意を払って世話をします。彼は妻の要件を満たそうとします。彼女は食べたいものを何でも与え、飲みたいものを与え、好きな装飾を身に付けます。彼女は何を着るかを惜しまないことを望んでいます。

 仏陀釈迦牟尼は常に精通しており、衆生に利益をもたらす機会を逃すことはありません。彼の弟子たちはまた、衆生に利益をもたらすために日中の警戒を意識しています。当時、仏陀の弟子の一人であるアニルタ(「不死」を意味する)は釈迦牟尼仏の王位の前で最も聞かれた十人の弟子の一人であり、彼は「空」で最初でした。彼の天の目の神の力で、彼は金持ちの妻が男の子を妊娠しているのを見ました。これを知った後、子供が釈迦牟尼の教えの改宗者なのか、仏陀釈迦牟尼の弟子なのかを確かめるために、アニルタは天の目で最初の観察をしました。観察の結果は、この胎児が将来釈迦牟尼に改宗して仏の弟子になり、彼、アニルタだけが仏に改宗するという子供の使命を完了することができることを示しています。
 その結果、アニルタは彼の側近を連れて行かず、一人で金持ちの家にやって来ました。大物はアニルタに言った。「サー、あなたは一人でここにいます、あなたはあなたのためにヘルパーを準備する必要がありますか?」アニルタは答えました。金持ちは「立派な、妻は子供を妊娠している。あなたが男の子を出産したら、私は彼を助っ人としてあなたにあげる」と答えた。「金持ちの答えを聞いた後、アニルタは言った。「この問題は言われ、数えられなければならない!」彼が問題を明らかにした後、尊者は駅に戻った。
 満期妊娠後、金持ちの妻は美しくてかわいい男の子を出産しました。赤ちゃんからカルダモンの花の甘い香りが広がり、部屋全体に浸透しました。
 子供が生まれた後、壮大な祝賀式典が行われました。カルダモンの花は子供が生まれたときに体の周りに残るので、子供はカルダモンの花にちなんで名付けられ、Namei Meiduo(カルダモンの花)と呼ばれます。
 ナメイメイデュオが育った後、家族は彼に読書、執筆、算数、そして8つの学習方法とさらなる研究を教えるように頼みました。それ以来、ナメイメイデュオは知識のある学者になりました。この翌日、アニルタは、ナメイメイデュオが仏教に帰依する時が来たことを知りました。それで、アニルタは金持ちの家に来て、金持ちに言いました。金持ちは彼がそうしたことを認めた。それで彼は子供を由緒あるアニルタ元に与えると約束した。彼は息子の方を向いて言った、「子よ、これは本当です。あなたが生まれる前に、私はあなたをアニルタに引き渡すと約束しました。彼は賢人で尊敬されています。今あなたは彼を手放すだけです。尊敬すべき人によく仕えなさい。」 Namemeduoは喜んで言った。「これは本当に私にとって大きな祝福です。」AnilutaはNamemeduoの父親を励まし、彼に彼を幸せにするようにダルマに言いました。それから、若いナメイメイデュオは道でアニルタを追いかけました。
 アニルタは若い男を寺院に連れて行き、そこで彼は仏教に改宗しようとしていました。帰依した後、ナメイメイデュオはこの寺院の新しい僧侶になりました。ここでは、彼はまた、その深い意味を実践し理解しながら、体系的に「サンザン」を研究しました。彼が一定の年齢に達したとき、NaMemeduoは僧侶によって叙階されました。彼は仏陀の教えの実践と実践に心と体を捧げ、世界から生まれたすべての虚偽と誤解を首尾よく排除し、それによってアラハントの地位を獲得し、Shengwenchengの究極の状態に入り、神(天国)になりました)そして人々は祈り、崇拝します。

 ナメイメイデュオは、「人々が世界の苦しみや誤解による苦しみから完全に解放される理由は、釈迦牟尼仏の助けから学ぶためです。私は他のすべてのことをあきらめました。宗派の教えは特に釈迦牟尼の教え。」ナメドゥオは成熟を考えた後、仏陀の親切に報いるべきだと感じました。
 彼は仏陀釈迦牟尼の普通の人間としての出現の唯一の目的はすべての衆生を救うことであると考えました、そしてメメドゥオは彼が同じことをしなければならないと思いました。決心した後、メメドゥオは仏教に改宗するための彼の最初の仏教入門の対象となるのは誰かを見つけることができました、そして仏教に改宗しようとしていた大物は彼の両親と両親でした。さらに、メイメイドゥオは、両親に改宗するには魔法の呪文を使う必要があることにも気づきました。

 魔法の呪文を実践した後、ナメドゥオはジドリン(由緒あるカリガが住んでいたジャングル)から体を隠し、実家にやって来ました。ナメイメイデュオは地面から現れ、両親の前に現れ、他の魔法の力を示しました。彼は仏陀釈迦牟尼の教えを誰もが理解できる方法で説明しました。だるまを教えた後、これらの人々は皆だるまに改宗し、「予備の実」、つまり「だるまへの川」を手に入れました。その後、彼はタオに入った。功績や功績を積み上げるために、この人も多くの善行をしてきました。Na Memeduoはまた、彼が見た人々の間でダルマに多くの回心をしました、しかしこれらの人々は彼らが回心することができる前にダルマとの「運命」を持たなければなりませんでした。

 12の緊縮財政を完了した後、彼は僧侶は何も持ってはならないと主張しました。彼自身は僧侶に生活の必需品をすべて提供していませんでした。したがって、Na Mei MeiDuoには僧侶の服が3着しかありません。彼が施しに出かけたとき、彼は他の人々が彼に与えたものに非常に満足していました。彼が外部の施しにいたとき、寄付者が金持ちであろうと貧乏であろうと、彼は一つずつ施しを訪れました。彼は彼の住居として墓を選びました。彼は荒れ地に捨てられた陶器のボウルを米のボウルとして保持することを好みます。彼は本を覆っていた白い覆いを拾い、洗って、僧侶の服の特別な色に染め、僧侶の服に縫い付けて体につけ、拾った食べ物も食べました。砂漠で捨てられました。墓(古墳)の中で大きな黒い僧侶に出入りすることが多いからです。」

 仏陀の弟子が仏陀釈迦牟尼に尋ねました、前の世界のどんな良いカルマと祈りに従って、由緒あるカリカはとても重くて仏によって保護されるでしょうか?なぜ彼が生まれたとき、雨のようなカルダモンの花があり、花の香りが彼の体に残っていたのですか?釈迦牟尼仏の教えに改宗した後、なぜ彼は阿羅漢の王位を獲得し、他の人々が個人的な幸福の源として仏に改宗するのを助けたのですか?

 釈迦牟尼仏は、これらすべてが仏陀カリカの生涯の間に良いカルマの蓄積の結果であると説明しました。当時、カリカは光の保護の仏を信じていました、そして彼は光の保護を身に着けている仏の教えを使って僧侶になりました。彼は宗教的な教えの研究を終えた後、練習することを主張しました。カリガは自分で良いカルマを蓄積することに加えて、他の人にも同じことをするように促し、僧侶たちは敬意を表し、多くの仏舎利塔に供物を捧げました。彼自身、塔の前でカルダモンの花で作られた花輪を崇拝し、塔にカルダモンの花びらをまき散らして祈った。それで彼はあなたが言ったようにカルマを得ました
                                    【中文百科知識】より




八 ばしゃらふったらそんじゃ  
  伐闍羅弗多羅尊者


右肩を袒ぎ竜の一角を把り目を怒らせ歯を切て勇力を出すが如き然り。

・伐闍羅弗多羅(ばしゃらふったら)
伐闇羅弗多羅尊者(Vajraputra)(翻なし)この尊者は一千一百の 阿羅漢とたぶん鉢刺峯洲に住在す。


                                        【仏像図鑑】より


伐閣羅弗多羅筆者は十六羅漢の一なり。膝を立てゝ坐し肘を其の上に加へ、侍者水を汲みて前を過ぎ、神人あり池中より湧出し、盤を棒げて玉を献ずるの図是なり。
(『画題辞典』斎藤隆三)より


 サンスクリット語の名前は金剛杵です。十六羅漢の中で8番目です。Vasa Nafo、Vasa Buddha、Charo Fodolo、Baza Lipu NangLaとも呼ばれます。孔子王を言い換えます。つまり、彼らは家族や何千もの羅漢と一緒にパラナゾウに住み、法を守り、感情の賢者に利益をもたらします。仏陀の涅槃の直後、中央アハマニの巻物にある八人の召使いの経典によると、アナンダは金剛杵も人々の中にいると一般に言いました。それからアナンダの詩として出てきました。金剛杵の教えのおかげで、アナンダは勤勉であり、最終的には羅漢を達成しました。上記の「金剛杵」は、由緒ある金剛杵を指す場合があります。
唐代の禅宗師である貫休が描いた肖像画によると、上半身は祭服を脱いで岩の上に座り、両腕を膝に組んで、瞑想的に手のひらを月桂樹で吊るしている。彼の右側の葉。蘇軾は、「両目が使われ、両手が沈黙し、ユーザーが経に気づき、沈黙の片方が膝を送る。二つの方法はお互いに害を与えることなく忘れられている。これらは私のところにある四節である。指先。」
 釈迦牟尼仏の弟子。彼は扶養家族の千百阿羅漢と一緒にボラナチャウに住んでいます。体はたくましくて丈夫で、彼の外見は厳粛で畏敬の念を起こさせました。尊者はいつも小さなライオンを連れて行きました。仏陀の勅令を受けて、涅槃に入ることはなく、この世界で永遠に生き、衆生を助けて救うでしょう。

 もともとハンターだった由緒あるローヴェレドは、仏教がもはや殺さないことを知り、ライオンが彼に感謝するようになったので、この名前が付けられました。

 彼はたくましくて強いです、そして彼の外見は厳粛で畏敬の念を起こさせます。彼は生き物を殺したことはなく、死んでも大いなる善行をしたので、生涯を通じて病気や痛みはなく、5つのアンデッドの祝福があったと言われています。彼は人々の称賛と尊敬から「ジンガンジ」 としても知られてい ます。


 彼はそのような超自然的な力を持っていますが、彼は相変わらず一生懸命働き、しばしば動かずに一日中じっと座っています。さらに、彼は雄弁で、雄弁で、記憶に残り、経典に堪能であり、素晴らしい方法で話すことができますが、話すことはめったになく、一日中沈黙していることがよくあります。
 兄のアナンダは驚いて「便利の扉を開けて魔法の話をしてみませんか?」と驚いて尋ねた。賢人は「話しすぎると人気がないかもしれない。言っても人気がないかもしれない。何らか大きなの価値がありますが、それはしばしば不快です。私は沈黙の中で覚醒を得ることができます、そして私は誰もが同じことをすることができることを願って
います。」                             
                                   【中文百科知識】より




九 じゅはかそんじゃ
  戍博伽尊者




曲ロクに倚り払子を握る、美しき婦人ありて盤に桃の宝を捧げ、前には法器があり形鈴の如く、後には瓶があつて蓮と茨菰を挿す。

・戍博迦(じゅはか)
戌博迦尊者 (Jivaka)(翻なし)この尊者は九百の阿羅漢とたぶん 香酔山の中に住在す。
※大悲経第二持正法品に出る北天竺の比丘である那婆迦 と同一であるといわれる。それによれば、この尊者が正 法を受持して広行流布すべきことが説かれる。また、摩 河僧祇律第三十二所載の二十七律師中の第十九に尊者者 婆伽の名があり、婆沙論第十に阿羅漢省那数(S?nava- sa) の弟子耆婆迦、阿羅漢具徳経にも嘲哥長者が出る。


                               【仏像図鑑】より


もともと中天朱の王子であり、彼の兄弟は王位を争うことを望んでいました。彼は弟に「私は仏陀だけを心に持っており、王位は持っていない」と言った。そして彼が胸を開くと、弟は彼の心に仏陀が一つしかないのを見て混乱しなかった。悟りを開いた後、世界は彼を「ハッピーアーハット」と呼んだ。                【中文百科知識】より




十 はんだかそんじや     
  半託迦尊者



両手に炉柄を執り、而して屏に倚つて踞すの状であり、遠く物を視るが如く、後に怪岩があり、牡丹盛に開く、侍者あつて花瓶を執る、瓶には茨菰と蓮華がある。

・半託迦(はんだか)(周梨槃特)
半托迦尊者 (Panthaka) (翻なし) この尊者は一千三百の阿羅漢と たぶん三十三天に住在す。
※愚鈍といわれた注荼半托迦(周利槃特)尊者の兄で、 二人とも他郷の路傍で生まれたために兄をマハーパンタカ(大路)、弟をチューダパンタカ (小路)という。こ の両者を十六羅漢の一つに列したのは、増一阿含経第八 に周利槃特の偶として「所作の善悪行は、去来今現在、億 劫に忘失せず」という章句に基づいているといわれる。


                             【仏像図鑑】より



【ハーフトーガの生涯】
 由緒あるハーフトーガは、古代インドの都市スリヴァシッダのバラモン家で生まれました。バラモンの前の子供たちは出生時に亡くなりました。ブラフミンの妻が再び妊娠したとき、彼女は子宮の中の赤ちゃんが前の子供たちと同じ不運に直面しようとしていると思ったとき、痛みに満ちていました。老婆は、悲しみを見て泣いている理由を尋ね、ブラフマンの妻は老婆に悲しみの理由を話しました。これを聞いた老婆は、子供が生まれようとしているときに誰かを呼んで電話をかけ、子供の命を救うことができると言った。バラモンの妻が子供を出産しようとしたとき、彼女は見守り、すぐに誰かを送って老婆を招待しました。彼が来た後、老婆は子供を白い布で包み、子供の病気の原因となった悪を取り除くためにギーを口に入れ、若いメイドに多くの人と馬との交差点に彼を抱きしめるように頼みました。 。彼はまた、彼が敬意を表すために道で僧侶に会った場合、太陽が沈むとき、子供がまだ生きている場合は彼を家に連れて帰り、子供が死んでいる場合は彼を捨てるとメイドに言いました。それで、メイドは赤ちゃんをたくさんの馬との交差点に連れて行きました。彼らは過去の僧侶とバラモンに敬意を表し、彼らは子供を祝福し、将来の長寿を願ったが、両親の希望に応えた。それから、メイドは釈迦牟尼が住んでいたジャングルの近くの道に赤ん坊を連れて行きました。ちょうどこの時、仏陀がやって来て、メイドさんが敬意を表し、釈迦牟尼仏も子供を祝福しました。 赤ちゃんが戻ってきました。彼が生きている間、メイドは彼を家に連れて行きました。子供の両親は、子供が無事であることを見てとても喜んでいます。子供たちが成長するとき、彼らは伝統的な教育を受けます。ヴェーダ経典や他の主題の知識を学び、ブラフマーの何百人もの弟子を教える教師と学者になります。その翌日、バントガはドリン近くの木の下でバラモンの弟子たちに教えていました。釈迦牟尼仏の二人の弟子、サリジとムカリアンはたまたまクサラからスリヴァ・シディに戻ってきました。多くの地元の人々が彼らを訪ねてきました。バントガはそれらの人々に彼らが何をしているのか尋ね、彼は仏陀の「二勝」の弟子たちを訪ねるつもりだと答えました。バントガは、「この二人は、高貴なカーストをあきらめて、釈迦牟尼の別名であるゴータマの弟子になりました。彼らを訪ねる必要がありますか?」と言いました。彼の弟子の一人が仏教に改宗しました。彼はバントーガに言った:「サー、あなたはそれを言うことはできません。 『2人のシェンは2人の偉大な聖人です。彼らの教えの指導を受ければ、あなたは間違いなくあなたの心をすぐに信じるでしょう。』バントーガは学生が言ったことについて考えました。。そういえば、まだ真実を探る必要があると感じたので、授業の後に時間を見つけることにしました。たまたま弟子たちは犠牲の儀式の供物としてふさわしい木を探していたので、彼にチャンスを与えて、バン・トゥオジアは立ち上がって遺物とムキアンリアンを訪ねました。ジャングルの門に近づくと、僧侶が門のそばを通りかかっているのが見えました。バントガは僧侶に仏陀釈迦牟尼の教えを教えるように頼みました。僧侶はそれに同意し、彼にカルマの方法を教えました。時間の制約のためには、BantogaはBiqiuに言った。「今、それについて話をする時間がない、私はまだやるべき事を持っている。私はあなたにさよならを言わなければならないので、また、私は、あなたを邪魔することはできません、私が来る。再び時間があれば。」授業後の休憩中に、バントガは再びジャングルにやって来て、12の扶養家族の発生と、前回の生まれ変わりの苦しみを取り除く方法を彼に教えた比丘に会いました。バントガは信仰を持って生まれ、僧侶になりたいという願いを表明しました。彼のような有名人が密かに僧侶になるのが最善だと彼は付け加えた。それで、比丘は彼を秘密の場所に連れて行き、叙階式のために土地に入った。セミトガが僧侶になった後、彼は僧侶が修了した2つのコースのうちの1つを選ばなければなりませんでした。一つは仏教を学ぶことであり、もう一つはほこりを取り除くという考えを破って仏教を実践することです。ハーフトーガは両方のコースを同時に完了します。日中は仏陀の教えを学び、知恵に基づいて自信をつけ、夜は教えを実践し、阿羅漢の地位を獲得しました。バントガは、「私は聖人の地位を得ました。今、私は仏陀釈迦牟尼に行き、彼に敬意を払わなければなりません。」その後、バントガと彼の弟子たちはスリヴァ・シッダに行き、仏に表明しました。忠誠と信仰。釈迦牟尼仏に返済するために、尊者セミトガは多くの人々を個人に最も適した方法で法に改宗させ、その結果彼の弟子も法に改宗し、彼らは僧侶として叙階されました。                                   【中文百科知識】より



十一 らこらそんじや      
   羅怙羅尊者


手に念珠を持ち、右の一足を挙げてゐる、異獣あり花を含んで仰で捧げ、樹に依て之を視る、枝には香炉を掛く。

・羅怙羅(らごら)
羅怙羅尊者 (Rahula) 梵語の羅怙羅は華に執日という、この尊者 は一千一百の阿羅漢とたぶん畢利?瞿洲に住在す。
※釈尊出家以前の息子で、母は耶輸陀羅 (Yasodhar)。 成道後、帰郷した釈尊によって出家させられ、二十歳で具足戒を受けた。仏十大弟子の一人で、密行第一と称せ られた。沙弥の時代、便所に宿泊した羅忙羅のため、仏 が厠屋裏にて説法したことは有名。また弥勒下生経に説 く四大声聞の一人。


                        【仏像図鑑】より


羅怙羅(らごら、梵/巴: R?hula ラーフラ)は、仏教の開祖たる釈迦の実子であり、またその弟子の一人。釈迦族の王子瞿曇悉達多 (ゴータマ・シッダールタ=釈迦牟尼の俗名) の妃耶輸陀羅(ヤショーダラー)が釈迦の出家前に妊娠した子で、釈迦が出家して5年後に生まれたとされる。釈迦十大弟子の一人に数えられ、正しい修行を為した密行第一と称される。また十六羅漢の一人でもある。

釈迦は成道後にカピラ城に帰った際、2日目に孫陀羅難陀(そんだらなんだ)を出家せしめ多くの釈迦族の青年を出家せしめたが、羅怙羅は7日目にして出家したという(律蔵・大品第1健度など)。

彼は母の耶輸陀羅に連れられ仏前に赴き、母から釈迦仏が父親だから「王位を継ぐので財宝を譲って下さい」というように言われ、そのようにすると釈迦は長老・舎利弗を呼び出家せしめたという説もある。この時の彼の年齢も6歳・9歳・12歳・15歳という諸説があるが、いずれにしても沙弥(比丘となるまでの年少の見習い修行者)となったという。

20歳にして具足戒を受け比丘となった。舎利弗に就いて修行学道し、当初は仏の実子ということもあり特別扱いを受ける事もあったが、その分を弁えてよく制戒を守り多くの比丘にも敬われるようになったという。彼は不言実行を以って密行を全うし、密行第一と称せられたが、釈迦仏より、多くの比丘衆でも学を好むことで、学習第一とも称せられた。

なお、羅怙羅の忍耐を描いた経典としては羅雲忍辱経がある。

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羅怙羅尊者は十六羅漢の一なり、趺坐して香を焚き、侍者側にあり手を供き、胡人函を捧げで立つの図是れなり。
(『画題辞典』斎藤隆三)より



十二 なかさいなそんじゃ   
   那伽犀那尊者


胡床に依り経巻を視る、侍者立つて焼香する、後に芭蕉あり。

・那伽犀那(なかさいな)
那伽犀那尊者 (Nagasena) (翻なし)この尊者は一千二百の阿羅漢 とたぶん半度波山に住在す。
※紀元前二世紀後半のインドの仏教僧。バラモンの教学 に意義を見い出せず、尊者ローハナ (Rohana 楼漢)について出家して論蔵を学び、さらに三蔵を修めたと伝え られる。ギリシア人のバクトリア王メナンドロス(弥蘭陀王)と討論して仏教に帰依させた記録が、パーリ文の ミリンダ王問経として残っている。


                           【仏像図鑑】より


【参照】
『ミリンダ王の問い』(Milinda Panha, ミリンダ・パンハ)は、仏典として伝えられるものの一つであり、紀元前2世紀後半、アフガニスタン・インド北部を支配したギリシャ人であるインド・グリーク朝の王メナンドロス1世と、比丘ナーガセーナ(那先)の問答を記録したものである。パーリ語経典経蔵の小部に含まれるが、タイ・スリランカ系の経典には収録されていない(外典扱い)。ミャンマー(ビルマ)系には収録されている。
戦前のパーリ語経典からの日本語訳では、『弥蘭王問経』『弥蘭陀王問経』(みらん(だ)おうもんきょう)とも訳される。


(概要)
 インド・グリーク朝は、アレクサンドロス3世(大王)による大遠征の後、その遺民たちにより、アレクサンドロスのディアドコイ(後継者)の地位を巡って引き起こされたディアドコイ戦争の中で建国されたセレウコス朝シリアと、インドのマウリヤ朝の覇権が衝突する狭間で、バクトリアの地を拠点に自立したギリシャ人国家であるグレコ・バクトリア王国が、マウリヤ朝の衰退に乗じて北インドに侵攻し、後に分裂することで生じた国家である。その第8代目の王に当たるメナンドロス1世(ミリンダ王)は、この王朝で最も有名な王である。
 メナンドロスとナーガセーナの対話篇の原初部分は紀元前1世紀の中葉までに成立したと考えられ、その内容の面白さゆえに、説教本・教科書として仏教の各部派に取り上げられた。漢訳経典である『那先比丘経』(なせんびくきょう)は、この原初部分に比較的近い内容である。それに対して、パーリ語に写して編纂されたものは著しく増補された。現在のパーリ語経典の『ミリンダ王の問い』(巴: Milindapanha)は、比丘のみを対象とした煩瑣な哲学的議論が付け加えられ、原初部分の6倍程度の量に増補されて5世紀頃までに現在の形になった。5世紀のパーリ語経典の注釈者である。ブッダゴーサは、この書を準経典として扱った。現在でもビルマでは経典の1つとして認められている。

メナンドロス1世(ミリンダ王)は、漢訳経典では弥蘭、あるいは弥蘭陀王と音写される。

内容は、仏教教理などについての問答であり、最後にはミリンダ王は出家して阿羅漢果を得たとされている。当時の仏教とギリシア思想との交流を示す重要な資料の一つであり、また後に、当地にギリシア美術が混じったガンダーラ美術が、クシャーナ朝に至るまで花開き、それら仏教文化が中国・日本にまで伝播してくることになる、そんな歴史の大きなダイナミズムの一端を、垣間見せてくれる資料でもある。


(内容)
原初部分によると

 ミリンダ王はナーガセーナ長老とあいさつをかわし腰を下ろしてから、ナーガセーナ長老に名を尋ねる。ナーガセーナ長老は、自分は「ナーガセーナ」と世間に呼ばれているけれども、それはあくまでも呼称・記号・通念・名称であって、それに対応する実体・人格は存在しないと言い出す。

 ミリンダ王は驚き、実体・人格を認めないのだとしたら、「出家者達に衣食住・物品を寄進しているその当事者達は一体何者なのか、それを提供されて修行している当事者達は一体何者なのか、破戒・罪を行う当事者達は一体何者なのか」「善も、不善も、果も、無くなってしまう」「ナーガセーナ師を殺した者にも殺人罪は無く、また、ナーガセーナ師に師も教師も無く、聖職叙任も成り立たなくなってしまう」と批判する。更に、では一体何が「ナーガセーナ」なのか尋ね、「髪」「爪」「歯」「皮膚」「肉」「筋」「骨」「骨髄」「腎臓」「心臓」「肝臓」「肋膜」「脾臓」「肺臓」「大腸」「小腸」「糞便」「胆汁」「粘液」「膿汁」「血液」「汗」「脂肪」「涙」「漿液」「唾液」「鼻汁」「小便」「脳髄」、「様態」「感受」「知覚」「表象」「認識」、それらの「総体」、それら「以外」、一体どれが「ナーガセーナ」なのか問うも、ことごとく「ナーガセーナ」ではないと否定されてしまう。

 嘘言を吐いていると批判するミリンダ王に対し、ナーガセーナ長老は、ミリンダ王がここに来るのに、「徒歩」で来たか、「車」(牛車)で来たか尋ねる。「車」で来たと答えるミリンダ王に対し、ナーガセーナ長老は「車」が一体何なのか尋ねる。「轅(ながえ)」「車軸」「車輪」「車室」「車台」「軛」「軛綱」「鞭打ち棒」、それらの「総体」、それら「以外」、一体どれが「車」なのか問われるも、ミリンダ王は、それらはすべて「車」ではないと否定する。

 先程の意趣返しのように、ミリンダ王は嘘言を吐いているとからかうナーガセーナ長老に対し、ミリンダ王は、「車」はそれぞれの部分が依存し合った関係性の下に成立する呼称・記号・通念・名称であると弁明する。それを受けて、ナーガセーナ長老は、先程の「ナーガセーナ」も同様であると述べる。ミリンダ王は感嘆する。


変化と同一性


 ミリンダ王は、ナーガセーナ長老に、「変化する事物は、変化する前と変化した後で、同一のものなのか別ものなのか」と問う。ナーガセーナ長老は、「同一でも別ものでもない」と答える。

 ナーガセーナ長老は例えとして、ミリンダ王は心身未発達な幼児期の頃と、成人した現在とで、全く同じか問うと、ミリンダ王は「別もの」だと言う。ナーガセーナ長老は、そうして変化によって同一性を否定するのであれば、「母」「父」「師」「技能者」「人格者」「知者」「悪人」「善人」といった通念も全て成立しなくなってしまうと指摘する。混乱したミリンダ王は、一体何が言いたいのか問うと、ナーガセーナ長老は、変化するものであっても、同一の基体に依拠するものとして1つに統合されていることを指摘する。

 ミリンダ王に例えを求められて、ナーガセーナ長老は燈火の例えを出す。ある男が一晩中燈火を燃やしているとする、その炎は浅夜と深夜と未明とでは同一だろうか。ミリンダ王は違うと答える。では別ものかと問われ、ミリンダ王はそうでもないと答える。「燈火は一晩中、同一の基体に依拠して発光していたので、各段階の炎は即自に同一とは言えないまでも、別ものだとも言えない」と。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。

 ナーガセーナ長老は、「形象の連続継起」としての変化は、「集結・重置」する作用を伴うものであり、同時・同所にある形象が生起し、ある形象が消滅するという「形象の連続継起」は、2つの形象を一定点に「集結・重置」するものであり、それによって、もはや両者は時間とは関係なく同一存在の相を帯びることになる、したがって、「連続継起」した各形象は同一ではないが、「集結・重置」したものとしては別ものではない (と我々の感覚的認識は捉える)と述べる。

 ミリンダ王に更なる例えを求められて、ナーガセーナ長老は牛乳の例えを出す。しぼられた牛乳は、時が経つにつれて「凝乳」、「生牛酪(バター)」、「牛酪油」と転化していくが、その事を以て、ある男が、「牛乳は、すなわち凝乳、すなわち生牛酪、すなわち牛酪油に他ならない」と述べたとしたら、正しいだろうか。ミリンダ王は、「牛乳は同一基体に依拠して生成を遂げたのであり、各段階のそれは別ものでなく、また即自に同一でもない」と述べる。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。ミリンダ王は感嘆する。


輪廻と業


 ミリンダ王は、ナーガセーナ長老に、「輪廻転生によって、改組・回帰していくものは、何なのか」と問う。ナーガセーナ長老は、「現象的個体」であると答える。

 ミリンダ王は、「それでは今、現にあるこの現象的個体がそのまま改組・回帰していくのか」と問うと、ナーガセーナ長老は、「そうではなく、今、現にある現象的個体の善なり悪なりの行為(業)に応じて、それが介入・影響した別の現象的個体として改組・回帰される」と述べる。

 ミリンダ王は、両者が別の個体であるのなら、現世の自分の悪行に、来世の自分が冒されないのではないかと指摘すると、ナーガセーナ長老は、ある個体から別の個体へと改組・回帰が行われる以上、悪行の応報に冒されずに済むことはないと答える。

 ミリンダ王に例えを求められて、ナーガセーナ長老はマンゴーの例えを出す。ある男が、あるマンゴーの樹から実を盗む、樹の持ち主が男を捕まえて王に上訴する、そこで犯人の男が「この男が植えたマンゴー樹と、自分がマンゴーを獲ったマンゴー樹は、別ものなのだから、裁かれる筋合いはない」と弁明する、この男は裁かれるべきだろうか。ミリンダ王は、苗木段階のマンゴー樹と結実段階のマンゴー樹は切り離して考えることができないのだから、男は有罪で裁かれなければならないと答える。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。

 ミリンダ王に更なる例えを求められて、ナーガセーナ長老は焚き火の例えを出す。ある男が、冬に暖を取ろうと焚き火をし、消し忘れて立ち去り、他の男の畑を焼いてしまう、畑の持ち主が男を捕まえて王に上訴する、そこで犯人の男が「自分が焚いた焚き火と、この男の畑を焼いた火は、別ものなのだから、裁かれる筋合いはない」と弁明する、この男は裁かれるべきだろうか。ミリンダ王は、焚き火段階の火と野火段階の火は切り離して考えることができないのだから、男は有罪で裁かれなければならないと答える。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。

 ミリンダ王に更なる例えを求められて、ナーガセーナ長老は燈火の例えを出す。ある男が、燈火を持って露台に上り、食事をとっている内に、その燈火がひさしの茅(かや)を焼き、家を焼き、村全体に延焼してしまった、村人達が男を糾弾する、そこで男は「自分が食事のために用いた燈火の火と、村を焼いた火は、別ものなのだから、糾弾される筋合いはない」と弁明する、どちらを支持するか。ミリンダ王は、村を焼いた火はその男の燈火から出た火なのだから、村人達の言い分を支持すると答える。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。

 ミリンダ王に更なる例えを求められて、ナーガセーナ長老は女の例えを出す。ある男が、ある童女をゆくゆくは妻に迎えようと結納金を納めて去る、後日その女が成人した頃に別の男が結納金を納めて婚儀に及んでしまった、先の男がやってきて、相手の男を非難する、その男は「おまえが結納金を納めた童女と、自分が結納金を納めた成女は、別ものなのだから、非難される筋合いはない」と弁明する、どちらを支持するか。ミリンダ王は、童女が成長してその成女になったのだから、先の男の言い分を支持すると答える。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。

 ミリンダ王に更なる例えを求められて、ナーガセーナ長老は牛乳の例えを出す。ある男が、牛の飼い主に牛乳を瓶一杯買い求め、明日受け取ると言って預けたまま立ち去る、翌日、牛乳が凝乳に変質した頃にやってきて、牛乳の受け渡しを求め、飼い主がその凝乳を渡すと、男は「自分が買ったのは凝乳ではなく牛乳だ、さあ瓶一杯の牛乳をよこせ」と主張する、飼い主は男が買った牛乳が凝乳になったのだと弁明する、どちらを支持するか。ミリンダ王は、男が前日買った牛乳が凝乳になったのだから、飼い主の言い分を支持すると答える。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。ミリンダ王は感嘆する。

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那伽犀那尊者は十六羅漢の一なり、正坐して枯木の中に入定す、其神騰りてその上に出つ、大蟒あり其下に出づるの図は即ち是なり。(『画題辞典』斎藤隆三)

ナーガセーナはサンスクリット語のナーガセーナです。それは「ドラゴン軍」を意味し、しばしば「NaXianBhikkhu」と呼ばれます。彼は仏教の理論家であり、20歳で十分な教訓を持ち、後に阿羅漢を修めました。ナクシアン比丘は、ミランダ王に会うためにインド北西部の古代王国に行きました。王の質問に答えて、彼はさまざまな比喩を使って、生命の無常、善悪の報復、その他の仏教の問題、仏教徒の慣習を説明しました。 。比丘経典で。それは仏教の基本的な教えの最大の解明です。
                                   【中文百科知識】より



十三 いんげだそんじや     
   因掲陀尊者


岩に踞り稚師子を弄び、岩の前には涛が翻る。

・因掲陀(いんかだ)
因掲陀尊者 (Angaja)(翻なし)この尊者は一千三百の阿羅漢とた ぶん広脅山の中に住在す。


                    【仏像図鑑】より


因掲陀尊者は十六羅漢の一なり。杖に倚り足を垂れて坐す、侍者函を捧げて立つ。虎ありその前を過ぎんとす、童子怖れて匿れ窈に之を窺う、之を図となす。(『画題辞典』斎藤隆三)より

Angaja又はAngiraja(サンクト。A?gaja又はA?gir?ja ;ティブ????????????。Yenlakジョン又はYenlak KYE、Wyl。 ビョンヤンラグ」またはラグskyesヤン) -のいずれかのシックスティーンArhats。

世帯主として、アンギラジャは非常に裕福であり、彼のすべての富を7回与えましたが、彼は彼の富が嫉妬と論争を引き起こしただけであることに気づきました。彼が持っていたすべてのものを配布、彼は尋ねた仏の按手のためにと参加しましたサンガが、後になってき羅漢。

アンギラジャは現在、カイラス山に住んでおり、従者は1,300羅漢です。この神聖な山で、仏陀はカルマの法則を説明し、すべての領域の存在を解放の道に設定しました。               
                                【中文百科知識】より

彼は、払子と線香を持っています。お香の匂いを嗅いだり、払子に触れたりすると、あらゆる種類の感情的な苦痛から生き物を解放するシラ(自己規律)の甘い香りが与えられます。



十四 ばなばしそんじや     
   伐那波斯尊者


松の根に床有り、杖に扶つて床に依る、童子薬研を碾べてゐる、瓶鉢あり、瓶には牡丹を入る。

・伐那婆斯(ばなばし)
伐那婆斯尊者 (Vanavasin) (翻なし)との尊者は一千四百の阿羅 漢とたぶん可住山の中に住在す。


                      【仏像図鑑】より


ヴァルナヴァスは、静かで、礼儀正しく、謙虚で、勤勉な人でした。彼は仏陀の言うことだけでなく、他の人々の言うことも心から静かに聞きました。かつて、弟子たちは尊者ムリアンの言葉を聞いていました。ムリアンは仏陀の四節を言いました。自分を追求し、浄化することが仏教です。」これらの4つの文は仏教の目的を要約しています。ヴァナブスは深く刺激を受け、思慮深く学びたがり、すぐにアラハントシップを取得しました。? 芭蕉の下で一生懸命働くことが多いため、「芭蕉ローハン」とも呼ばれます。                                 【中文百科知識】より


伐那婆斯尊者は十六羅漢の一なり、鈴杵を持して正坐し呪を誦す、侍者衣を整へて右にあり、胡人短錫を横へて左方に坐す、蛇あり一角より仰いで訴ふるが如き形す、「之をその図となす。(『画題辞典』斎藤隆三)より



十五 あしたそんじや     
   阿氏多尊者


樹の根に踞り手に宝珠を弄す、竜化老人あり、来て両手を仰げ鞠躬如として珠を乞ふ、尊はこれを見て居らぬ様で、樹には香炉がかけてある。

・阿氏多(あした)
阿此多尊者(Ajita) (翻なし)この尊者は一千五百の阿羅漢とたぶ ん鷲峰山の中に住在す。
※中阿含第十三説本経、ならびに大毘婆沙論第百七十八 等に、弥勒が当来成仏の記(予言)を受ける時、自ら転輪聖王たらんことを志願したと伝えられる。このことが 十六羅漢の正法護持に関連しているため、十六羅漢の一人に列せられたのであろう。


                           【仏像図鑑】より

阿氏多尊者に十六羅漢の一なり、鬚眉皆白く、袖手して趺坐す、胡人その前に拝伏し、蛮奴手に柱杖を持ち、侍者合掌して立つ、是れをその図となす。                    (『画題辞典』斎藤隆三)より

阿氏多尊者は、十六羅漢の第十五、大阿羅漢難提密多羅所説法住記に、第十五尊者は自の眷族千五百阿羅漢と与に多分は住して鷲峰山中に在りとあり、西蔵の所伝にては之を十六阿羅漢の第二尊とし、優尸羅山に住すといへり、其図様は一定せず、或は磐石の上に坐して右膝を抱き、或は膝に手をかけ、岩下に赤履を置く。  (仏教大辞彙)
                               (『東洋画題綜覧』金井紫雲)より

Ajiataは両親に家から追い出され、物乞いをしなければなりませんでしたが、人々は彼に怯えていました。人々は彼に施しを喜んで与えます。彼は山に隠れて泉の野生の実に住まなければなりませんでしたが、山の鳥や獣でさえ彼を恐れていました。アシュドッドは一人で野蛮な生活を送っていました。仏陀がそれを知った後、彼は山に入りました。アシュドッド、彼を救うために仏陀と比丘の姿を見て逃げました。仏陀は醜い幽霊になってアシュドッドに近づきました。アシュドッドは彼に似た人を見ました。彼は最初驚いて、「私たちは皆同じ醜くて孤独なので、ただうまく行動します。」と喜んで言いました。 」と仏陀は言いました。「わかりました。仲良しです。まずはお椀の中のご飯を尊敬します。」アシはもっと聞くとご飯を食べました。食べ終わると、目の前の人が男。ハンサムな人。彼はなぜ彼がかっこいい人になったのか疑問に思いました。仏陀は遠くに座っている僧侶を指さし、「今食事をしていると、その僧侶が瞑想に敬意を表して座っているのを見ました。この敬意を表する心は報われ、正義になりました。」アシュドッドはとても幸せそうに言いました。これができたらいいのにと思います。醜い人は苦いので、もっと正確になりたいです。」そして瞑想中に座っている僧侶を丁重に見ました。この時、仏陀は、輝きに満ち、威厳があり、親切な彼の素顔を明らかにしました。アシュドッドは思わず仏陀の前にひざまずき、僧侶になりました。仏陀は喜んで「あなたを弟子として受け入れます」と言いました。アシュドッドは仏陀のそばにいて熱心に勉強し、すぐに阿羅漢にもなりました。 「長い眉」として 。                                 【中文百科知識】より

(逸話)

アシタ仙人の涙
 幼いときに聞き、心に残っている話に、「アシタ仙人の涙」があります。
 お釈迦さまが生まれた時、徳の高いアシタという仙人が、「尊い赤ちゃんが生まれた不思 議な 徴しるし を見ました」といって、はるばる訪ねてまいりました。父親のスッドーダナは、シ ャカ族の王さまであったものですから、すっかり喜んで、仙人を城に招き入れて、わが子 の将来を占ってもらうことにしました。すると、アシタ仙人は、「これは、これは、尊い王 子さまです。後には立派に成人なさり、必ずや人々の悩み苦しみ悲しみを救って下さる仏陀ブッダ (目覚めた人)とおなりになりましょう」、そういって、はらはらと涙を流しました。王さ まが 訝いぶか しく思って、「なぜ、泣くのか」と、そのわけを尋ねますと、アシタ仙人は、こう答 えます。「私は、もう年をとってしまって、この王子さまがやがて仏陀ブッダ とおなりになり、そ の尊い教えの恵みに 与あずか ることが出来ないのが悲しいのでございます」。

 このくだりは、子ども心に妙に印象深いものでした。ただ、その頃は、お釈迦さまのよ うな偉い方に会ったので、アシタ仙人は、感動して、感激の涙を流したのだろうと、文字 通りに解釈しておりましたが、けれど私も年をとり、いやいや、そうした思いは、お釈迦 さまだからなのではない、新しい命が授さず かったどこの家庭もが同じように、両親は元より、 殊にお祖父さま、お祖母さまはきっと、アシタ仙人と同じような思いに打たれるのだろう、 そうしきりに思うようになりました。 親は、わが子のゆく末を見とどけることを出来はしません。特に祖父母にとって孫が立 派に成長した姿を見とどけるのは、こうして長寿が許されるようになった今日においてさ え、なかなか叶えられないことです。でも、またそうであるからこそ、過ぎゆく世代は、 来るべき世代のつつがない成長を願うのでありましょう。
                                      『鎌倉女子大学』より




十六 ちゅだはんだかそんじゃ 
   注茶半託迦尊者


結跏正坐し、岩窟には草を以て席とし、鳥雀翔集り棲爪懐に入る。  (類聚名物考―草山集)

・注荼半託迦(ちゅだはんだか)
注荼半咤迦尊者(Cidapanthaka) (翻なし)この尊者は一千六百の 阿羅漢とたぶん持軸山中に住在す
※兄の半托迦(Panthaka or Mahapanthaka : 大路)と 共に仏弟子となったが、兄の聡明なのに比して愚鈍であ ったので、愚路と呼ばれた。一度教団を追放されかけた が、仏陀に教えられた短い言葉<塵を払い垢を除く>を繰り返して大悟したという。


                             【仏像図鑑】より


 周利槃特(しゅり・はんどく、梵: C??a-panthaka、巴: C??apanthaka)は、釈迦仏の弟子の一人。また十六羅漢の一人。すり・はんどく。パーリ語ではチューラパンタカ。音写は経典により異なり「周利槃陀伽」、「周利槃陀迦」、また修利(周陀、周梨とも)槃特、あるいは注荼・半託迦などとも書き、小道路、路辺生等と訳す。また略して槃特と呼称されることも多い。
 周利槃特は釈迦の弟子中、もっとも愚かで頭の悪い人だったと伝えられる。そのため、愚路とも呼ばれた。
(生涯)
 名前を漢訳したときに「路」の字がつくのは、彼の母親のエピソードによる。
 彼の母親は王舎城(ラージャガハ)の大富豪の娘であったが、下男と通じて他国へ逃れた。彼女は久しくして孕んだので、夫に実家に戻って産みたいと言うと夫は同意したものの、駆け落ちした罪を恐れて戻ろうとしなかった。彼女は臨月が近づいたので一人で実家へ戻る途中に、中路で男子を産んだので槃特(パンタカ、路辺生)と命名した。しかしまた同じく実家へ戻る途中に次男を産んだので、兄を摩訶槃特(Mah?-panthaka マハー・パンタカ、大路)と改め、弟を周利槃特(C??a-panthaka チューダ・パンタカ、小路)と命名した。
 兄・摩訶槃特の資質聡明なるに対し、周利槃特は愚かであったといわれるが、その因縁は、過去世の昔、彼は迦葉仏(かしょうぶつ)という如来が出世された時、賢明な弟子であったが、一つの詩すら教えるのを惜しんだこと、豚飼に生まれた時に豚を屠殺した業報などにより、釈迦如来の出世の時には、愚鈍に生れついたといわれる。
 仏弟子となったのは兄・摩訶槃特の勧めであるが、四ヶ月を経ても一偈をも記憶できず、兄もそれを見かねて精舎から追い出し還俗せしめようとした。釈迦仏はこれを知って、彼に一枚の布を与え、「塵を除く、垢を除く」と唱えさせ、精舎(もしくは比丘衆の履物とも)を払浄せしめた。彼はそれにより、落とすべき汚れとは、貪(r?ga)、瞋(dve?a) 、痴(moha)という心の汚れだと悟り、すべての煩悩を滅して、阿羅漢果を得たとされる。そして神通力を得て形体を化かすなど種々示現できるようになったといわれる。

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(逸話)


ブッダと弟子 シュリハンドク

 釈尊の弟子の一人、シュリハンドクは、自分の名前も覚えられないほどの人だったようです。
 門の外で嘆き悲しむハンドクに、
 「おうおう、きみは、どうしてそのように悲しんでいるのだろうか」と釈尊は、優しくお尋ねになった。

 「私は、もの覚えが悪く、お釈迦様の大切な教えがまったくわからないのです。どうして私はこんなにもおろかなのでしょうか。本当に、悲しいです」とハンドクはただ泣くばかりでした。

 「そのように自分のことを悲しむことなどすこしもないのだよ。むしろ、きみは自分の理解力のないことに気づいているではないか。それはとても大事なことだよ。世の中には、自分は賢いと思ってその愚かさに気づいていないものが多い。」と釈尊はやさしく慰められて、一本のホウキをとり、『チリを払わん、あかを除かん』という言葉をお授けになられた。

ハンドクは掃除しながら、お釈迦様より直接頂いたことばをかみしめながら、これを聖いことばとして必死に覚えようと過ごした。
 だが、ハンドクには、これがなかなか難しいことであった。
『チリを払わん』を覚えると『アカを除かん』を忘れ、
『アカを除かん』を覚えると『チリを払わん』を忘れるのであった。
 しかし彼はお釈迦様のお心を励みにして、それを二十年間続けていた。

 そして一度だけ、お釈迦様からお誉めをいただくこともあった。

 「きみは何年掃除しても上達しないが、上達しないことに腐らずよく務めているね。上達することも大切だが、きみのように、根気よく同じことを続けることはもっと大事だね。」

 釈尊は彼の、ひたむきな精進を歓んでくだされたのであった。

 やがてハンドクは、ちりやほこりは、あると思っているところばかりにあるのではなく、こん なところにあるものかと思っているところに意外にあるものだということに気づいた。

 そして、「自分の愚かさは、気づかないことからきている」と知り、日々、あるがままに心を見つめ、愚かさに気づき、心を解放し、悟りを開いていった。

 これは、まさしく、よき師、よき法に遇い、よく精進につとめてきたからにほかならない。


一 ひんどらばらだしやそんじや  賓度羅跋羅堕闍尊者

白眉皓首、岩窟に依り波瀾を見、両手に小宝塔を捧げ、中に仏像を安んず。

二 きやだきやばじやそんじや   迦諾迦伐闍尊者

容貌肥大、鬚や髪巻き縮れ、巌に依つて踞り手に払子を執り、上に松の樹があり胡人掌を合せて側に立つ。

三 きやだばりだじやそんじや   迦諾跋釐惰闍尊者

鬚や眉黒くして長く、手に念珠を爪繰り牀に倚つて瀑を見る、鬼の使者有り、二角三目両手に剣を支へて侍す。

四 そひんだそんじや       蘇頻陀尊者

右手に桙を執り、左手に鈴を執り而して胡床に踞る、華服の胡人あり合掌して立つ。

五 だくらそんじや        諾距羅尊者

首や眉長く白く、手に羽扇を執り、岩窟に踞り、双つの鴛鴦を見る、侍者ありて梵篋を抱く。

六 ばたらそんじや        跋陀羅尊者

髪短く眉長く悉く皓、胡床に踞り双手数珠を爪繰り円相を為す、画屏後を擁し、香炉を傍に置き寄花を挿す。

七 きやりきやそんじや      迦理迦尊者

松の根に倚り左脚を挙げ、右肩を祖ぎ右手を挙げ左手に虎を持す。

八 ばじやらほつたらそんじや   伐闍羅弗多羅尊者

右肩を袒ぎ竜の一角を把り目を怒らせ歯を切て勇力を出すが如き然り。

九 じゆばきやそんじや      戍博伽尊者

曲?に倚り払子を握る、美しき婦人ありて盤に桃の宝を捧げ、前には法器があり形鈴の如く、後には瓶があつて蓮と茨菰を挿す。

十 はんだきやそんじや      半託迦尊者

両手に炉柄を執り、而して屏に倚つて踞すの状であり、遠く物を視るが如く、後に怪岩があり、牡丹盛に開く、侍者あつて花瓶を執る、瓶には茨菰と蓮華がある。

十一 らこらそんじや       羅?羅尊者

手に念珠を持ち、右の一足を挙げてゐる、異獣あり花を含んで仰で捧げ、樹に依て之を視る、枝には香炉を掛く。

十二 なきやさいなそんじや    那伽犀那尊者

胡床に依り経巻を視る、侍者立つて焼香する、後に芭蕉あり。

十三 いんげだそんじや      因掲陀尊者

岩に踞り稚師子を弄び、岩の前には涛が翻る。

十四 ばなばしそんじや      伐那波斯尊者

松の根に床有り、杖に扶つて床に依る、童子薬研を碾べてゐる、瓶鉢あり、瓶には牡丹を入る。

十五 あしたそんじや       阿氏多尊者

樹の根に踞り手に宝珠を弄す、竜化老人あり、来て両手を仰げ鞠躬如として珠を乞ふ、尊はこれを見て居らぬ様で、樹には香炉がかけてある。

十六 しゆさはんだかそんじや   注茶半託迦尊者

結跏正坐し、岩窟には草を以て席とし、鳥雀翔集り棲爪懐に入る。  (類聚名物考―草山集)より


【版画:平田時夫】

はーい羅漢さんたちこっち向いてー、じいーっとしててよ
あれー?へんだなー?一人足りないや。十六人だよねえ。
おいおい!ハンドクさんや!きみ!自分を忘れてんじゃん!
うふふふ。
お釈迦様のたまわく、それでいい、それでいい。