真言宗豊山派



法坐テキストT




観自在菩薩の瞑想
 瞑想は世俗からの逃避ではない。それは孤立した自己閉鎖的な活動ではなく、まさに、世界とそのあり
方を理解することにある。 ありのままの社会は衣食住以外には与えるところは少なく、その快楽はしば
しば大きな悲嘆を伴っている。
 瞑想は(あるがままに観察することで)、そのような世界を豁然として離れ去る。
 ゆえに、人は全的に世界を観察するものでなければならない。そのときこの世は意味を帯び、天と地
その本来の美を不断に開示する。
 全的に世界を観察するの慈悲と愛には快楽の影を宿すことはない。そして
 この瞑想こそは、緊張や矛盾、葛藤、自己満足の追求、力への渇望などの恣意的な我欲から生まれた
のではない、すべての行為の源泉である本不生そのものとなる。









失われつつあるもの
 20年ほど前、豊山派の御遠忌法要の伶人として雅楽を奏楽すべく、週二回、三ヶ月間の特訓のため、福島
から東京に通ったことがあった。
僧侶達だけでの奏楽を目指し、当時、宮内庁の楽長東儀和太郎先生の下での特訓であった。
 特訓は台東区根岸にあるお寺でおこなわれていた。この辺りは震災や戦災でも焼け落ちなかったらしく、独
特の雰囲気があるところである。
 山手線の鶯谷駅を下の方に降りて、林立するビル街を素通りし、大通りを横切りしばらく行くと、狭い辻に
ぶつかる。
そこからの細い路地は寺の門前で長屋が続く。
ここに踏み入るとゴーゴーとした都会の喧噪は突然ぱたりと止み、全くの静寂さが漂う。
路地を挟んで古い家屋が軒を連ねところ狭しと並んでいる。
どの家の前にも草花が植え込まれ、道行く者を楽しませてくれる。
家々の戸は開け放たれ、夕餉の支度やら団欒の声や、念仏のタクの音などが響いてきて、穏やかな実に懐かし
い場所である。
 後ろから、夕暮れの中、豆腐屋がプープーと通り越し、魚屋の屋台がガタガタと通る。
すると、あちらこちらの家から声がかかる。
「おや、魚やさん。久しぶりだね。」「あい、まいど。」
「しばらく顔も見なかっが、どうしてたのさー。」「いやね、うっかり風邪ひいちまってさ。」
「そうかい。そりゃ大変だったねー。」と家々からてんでに人が現れてきて、魚をさばく中ひとしきり賑わて

る。
 それを横目に見ながら自分も小さな食堂に入った。
他に客はなく、ばあさんがひとりだけだった。
「カレーください。」「あいよ。」
食堂というより自分の家みたなものだ。ぼんやりとしていると、ばたばたと若い兄さんが駆け込んできて、な
にやら町内のことを大声で話し、すぐさま帰ろうとした。
「しんちゃん、悪いがそこのお客さんに、お茶と新聞出しておくれよ。」「はいよーっ。」
と気安く出してくれて風邪のごとく去った。
 食事が済み、路地を歩いていると、ちょうど前をミニスカートをはいた、ちりちりパーマの派手な若い娘が
歩いる。
(やはりこんなところにもなー)と思っていると、これまた、あちこちの家から声がかかる。
「おや、あいちゃんお帰り。」「今日は早かったね。」「うん。」
この界隈ではごく当たり前ののことなのだろうか。店先で天ぷらを揚げているおばさんが
「あいちゃん。ちょうど天ぷら揚ったとこだ。おばあさんにもってっておやり。」と袋に包み、それをにっこ
り「ありがとう。」と受け取る。
 寺の門前に着くと、こんどは、なんと!紙芝居が現れた。ドンドン太鼓の音に子供達がわらわらと集まって
きた。
 寺の庫裡は古い木造の二階で、そこの大広間で稽古をする。
とろとろに磨かれた階段をぎしぎし上がる。まだ、だれも来ていない。
戸を開け放ち、しばし縁にもたれ、外を眺めていた。
見通しがよく、向島辺りの小さな家々が見える。明かりが灯りはじめた。
どこからろうか、三味線の音がする。小唄もかすかだが聞こえる。
ときおり電車も通る。黄昏の沈黙が辺りをすっかり包み込んだ。
ここが都心であるとはまことに不思議である。
 田舎ほどこうしたものは残っていないように思う。なぜだろう。
貧しいからなのだろうか。それとも画一化されたうわべだけ新しいものに溺れてしまったからだろうか。
何か大事なものが失われつつあると思っていると、坊さん達が集まってきた。雅楽の稽古が始まる。








新しい芽
 法圓寺には昭和19年から20年にかけて集団疎開している児童達の映像の記録が残されている。東京中野区の
野方国民学校の児童達が長野県や福島県の桑折町や飯坂町に疎開していた。当時、無住であった法圓寺には1
年生から6年生までの男女児童達が多く集められていた。大空襲を避け、親元を離れ、互いに身を寄せあって
けなげに生活している様子が撮影されている。これは引率の先生が写したものだ。毎日の食事は極めて乏し
く、すいとん、ジャガイモの混ぜご飯、サツマイモやビスケット、大根の葉のみそ汁など少量ずつ分け合って
食べていた。ひどいときにはおかゆの中に豆が4、5粒とかカボチャが3切れであった。蚤や虱に悩まされ、
時々薬風呂に入っている。寒い中、みんな、裸足で、落ち穂拾いやら薪を背負って運んだり、天突き体操やら
手旗信号訓練など、日々規則正しい生活が維持されていた。警戒警報に怯えながらも、誰もがいい子で立派な
小国民になって帰るのだと、励まし合っている。夜、遠くで聞こえる汽車の音に家に帰りたいと思う気持ちを
抑え必死に頑張っている。小さな女の子達の親からいただいたお人形をしっかり抱いて寝ている姿がいじらし
い。しかし、映像を通して見る子ども達の姿は、実は意外にも、明るくたくましいものである。機敏ではつら
つとして力強さに溢れていた。終戦後生まれの私には、この時代の子ども達のたくましさがかえって驚きであ
った。とはいえ、親からの手紙には、B29の爆撃機に体当たりし、きりもみ状態で落ちていく蚊のような戦闘
の様子が描かれ、いのちを悼む悲しみの思いと、いのちがけで護ってくださる人たちの恩を忘れず頑張れと
ましている。それはあまりにも悲惨な戦争という現実のさなかであった。「こんなにひどい大空襲を受けて
なお平気でお庭の木は芽を出していますよ。学校の桜も満開ですよ。」と疎開先の子ども達を励ましている
の心には、なんとしても生き残ってほしと願う必死の思いが込められていて、子ども達も必死でそれに応え
うとしていた。
 さて、話は変わるが、新潟県中越地震の災害はかなりひどく、被災者の方達の一日も早い復興祈らざるを得
ない。そんな中で、「この地震でおとなたちはおろおろするばかりであるが、その中で、意外に、子ども達は
たくましかった。めげるどころか、何とかしようと、けなげにも動きだし、おとなを励ましている。その光景
を見て、この国はまだまだ捨てたものじゃないと思った。」という話を聞いたが、同感である。いまの日本は
ちょうど幹が空洞化し、根腐れで倒れかかった古い巨木のようなものだ。枝葉を思い切っておろしてみるが、
果たして、根に力をつけられるか、それと枯らしてしまうか瀬戸際だという。日本が破綻する危機は戦争以来
だろう。結局、朽ち木はドサッと倒れるしかないのだろうか。砂上の楼閣は外の風が吹き荒れれば崩れさる。
そんな厳しい時代にあって、この国に果たして新しい芽を生み出す力を宿しているのだろうか。歯止めのかか
らぬ少子化にあるが、子どもは、いつの時代にも「国の宝」であり「世界の宝」である「新しい種子」であ
り、「新しい芽」である。その子ども達が、如何にたくましく創造力に溢れた人間として育ち、どの世界にあ
っても自立できる者なるかはと、彼らの土壌であるわれわれ自身の自己変革と、善い種子を育む者となれるこ
とにかかっているのではないだろうか。






人はみな菩薩であるというのに・・・・
平成17年5月6日(土)午後7時から10時半法圓寺本堂並びに客殿
第一コース『菩提心』

 この地球を機縁とするすべての霊性に向けて

『人はみな菩薩であるというのに・・・・』     

      
一、はじめに

 この春はことのほか花々が美しく一斉に開いて、待っていた甲斐があった。その花も今ではすっかり散っ
て、木々の若葉が心地よい風に戯れ、輝いている。大自然界は再生を繰り返しながら、全く新しいいのちを創
造し続けている。
 悲惨な事故はわれわれがいつも死と隣り合わせであることを突きつけてくる。事故の犠牲になったものも、
事故を起こしてしまったものも、あまりに痛ましく、その悲しみと苦しみは筆舌に尽くしがたいものがある。
 自然災害や人為的災害によってわれわれはいつでもあっけなくいのちを失いかねない。この問題に直面する
たびに、いったい、いのちとは何であるのか、生きるということはどういうことなのか、否応なしに見つめざ
るを得ない。
 そこで、今回は、私自身が最大のテーマしていることについて述べることをお許し願いたい。長文で理解し
がたい内容ではあるが、人類にとってかなり重大なテーマであり、取りあげざるを得なかった。内容はこれま
での「心の通信」の底流に流れているものを総括する意味もある。自分自身としても、かなり重いものがあ
り、今回は他のことを書こうと何度も思ったが、どうしても避けて通れなかった。悲嘆に暮れるあらゆる人類
の悲しみに光りあれ!とまさに祈る気持ちで書かされている。どうか、われわれを含め、全人類が「菩薩とし
ての本性」に目覚め得ることがっできますように・・・・・ 


二、個人的な業報(むくい)観は誤りである

 この物質界に形成される私自身は宇宙の業(カルマ)の所産である。大宇宙の中にあって、唯一無二の
「私」ではあるが、しかし、あらゆる宇宙の営みとカルマの所産なるがゆえに、大宇宙体のカルマの法則(原
因と結果の法則)に従わざるを得ない。まして、物質的三次元の世界に生存する限り、誰しも、その物質的生
存の条件(カルマ)を背負わねばならない。さらに、われわれは宿業という先祖の業や前世のカルマを否応な
しに背負っている。
 しかし、ここで大事なことは、物質界におけるカルマであろうと、先祖から継承する遺伝子的カルマであろ
うと、前世からの魂上のカルマであろうと、それらは個人を通して現れてはいるが、もともとは人類全体が背
負っているカルマであり、それを個々の新たな生命が背負っているということで、個人に対する恣意的なカル
マではないということである。言い換えれば、個人個人のカルマは人類全体のカルマであり、全人類のカルマ
は、その出現したカルマの条件に従い個々人に作用するということである。
 これは、かな重要なことで、カルマは単純に個人の業報(むくい)として表れるものではないということで
ある。つまり、自分の人生上の様々な困難や苦しみ、悲嘆や不運な問題は、単に個人的な魂の前世からの因果
でそうなったのではないのである。
よく霊能者や祈祷師まがいの人が、そういったことを指摘し、それを真に受けている人も多いが、それは大き
な間違いである。彼らは自分の神のお告げや権威の名の下に、カルマの問題を悪業として個人化することによ
って、人類全体の問題を個人化・差別化してしまう大きな間違いを犯している。まさに、それは超能力願望の
潜在化された権力主義の誤った解釈に他ならない。また、個人の恐怖心がそのような解釈を真に受ける背景に
あるのであるが、これらは何ら真実ではない。


三、カルマとは何か

 では、カルマの問題とは何んであろうか。繰り返すが、宇宙の所産であるカルマが個人に作用しているとは
いえ、個人というものによってカルマが定められたものではない。紙面の都合上、いきなり飛躍して申し訳な
いが、まず、個人の本源は大宇宙であり、神であり、法身の大日如来である。その神が自ら展開している大宇
宙の営みの中で、神自らが作り出したカルマの浄化のために人類を含めあらゆる生命体を出現させているので
ある。人類は神が大宇宙のカルマとして出現させた大宇宙の進化のプロセスであり、人類は今ようやく、自我
に目覚めつつも、その自我の形勢そのものがそのカルマの条件付けによって形勢されたものであるため、内的
自覚はいまだ貧弱であり、人類全体が真我を自覚するまでには至らず、あくたもくた同然のカルマに翻弄され
ているのである。
 では、われわれ自身に影響し働きかけるカルマとはいったい何であろうか。
遺伝子情報は肉体的先祖のカルマの情報をよく示す。また、われわれが生活する土地や社会、国家や民俗など
は、環境上のカルマであり、地球を含む太陽系の惑星の配置上のカルマなどさまざまなカルマがある。カルマ
とはいわば大宇宙が顕現し存在する条件付けである。さらには、物質界を超えた魂や霊性上のカルマ。特に、
魂や霊性上のカルマは意識界として幾重にも重なり、これらが全体として作用する無限に近いほどの壮大な流
れにある。時空とはカルマに条件付けられているわれわれが、その時間と空間の認識の尺度によってわずかに
推し測っている限られた範囲にすぎないが、全存在そのものはそういったわれわれの認識を遙かに超えて作用
しあっている。全存在を認識できないかぎり、われわれはカルマ上の時間と空間に条件づけられ、当然、それ
らは時空を輪廻する行為(カルマ)を生む。


四、輪廻の主体とは何か

 こうしたカルマの影響を受け、時空を輪廻する主体とはいったい何であろうか。
 ここがカルマの最重要課題であり、今回もっとも探求したいテーマでもある。
 輪廻の主体を乗せる乗り物(業熟体)は個人的肉体(五官六根)の物質界から第八阿頼耶識の霊界層にまで
及んでいる。しかも、これらはすべて幾層もの入れ子状になって「いま ここ」に存在する個人の背後を包み
込み、全的に存在している。全て同時に関わりながら展開している。その中で「私」というものの人生が、
「いま、ここ」にあって流れているのだが、その「私」というものは意識の「認識の支点(視点)」であり、
その位置によって大きくそのその認識の範囲が変わってくる。
 この物質界の「私」は自我と言われる通常の「私」であるが、それは、物質界で形成されたカルマの支点に
よって認識されている「私」である。すなわち、日本で、両親により生まれ育ち、家庭や社会を通して形成さ
れ、成長してきた「私」自身である。これは前五識と六識のにより自覚されている「私」である。生老病死の
条件付けによって推移される「私」である。
 しかし、これが「私」の全てではない。ごく限られた一部の「私」が認識されているだけに過ぎない。さら
に、言うならば、この物質界の「私」は輪廻の主体ではない。物質的な「私」は物質が崩壊(肉体の死滅)に
よって、認識の手段を失うことになるが、その認識の手段によって形成された「私」はその背後にある(物質
界の枠を超えた)「私」に吸収されるので、物質的には、消滅したかに見えるが、消滅ではなく、「私」とい
う支点が切り替わるのである。
 それは、生死のときばかりではなく、日常の睡眠と目覚めのプロセス上、普段でも起きている。それゆえ、
この世では、睡眠はきわめて重要である。睡眠は「自我」が「真我」に吸収され、魂としての調整を受けると
る重要なときであるのだ。だから、睡眠が著しく妨げられれば、人は異常をきたし、きわめて危険な状態に至
る。
 さらに深い瞑想や禅定においてもこの切り替わりはおこっている。脳波がα波・θー波・δ波などを発する
場合は意識が無い?真我に還元されている状態である。
 また、極度な精神的緊張や薬物使用などによっても、これらは頻繁に起こりうるが、しかし、この場合の問
題は、精神の麻痺であれば、意識は狂躁し、精神の全体としてのバランスや統合能力を失うのできわめて危険
であるといわざるを得ない。人格破壊を引き起こしかねない。
 本来の「自我」と「真我」渉入のプロセス「入我我入」というものは、きわめて安全性が高く、ごく自然な
ものであり、通常は意識されない。睡眠時を含め、日常的に常に無意識的に心身のクリーニング、修正は為さ
れる。パソコンのオートデフラグのようなものである。われわれは、それに気づかないでいるが、この「真我
(自己の本質)」による浄化・同調作用は、「私」には絶対的に欠かすことのできないものとなっている。異
常がない限り、ほとんど無意識的に自動的にこの自浄作用システムが働き、浄化されているのだ。これがカル
マの浄化の基本形である。
 だが、何らかの意図によりこの自浄作用が破壊されるときがある。それはゆゆしき問題である。個人の自浄
作用が働かない場合、それは人類全体のカルマの問題として残ってしまうのである。人類全体が浄化すべきカ
ルマの問題として意識層をあくたもくたのように浮遊してしまうのである。
 ところで、「死」とは自我にとって「消滅の恐怖」を伴うものものの、全自我(真我)にとっては、日常の
睡眠のプロセスとなっら変わりはないものである。ただ、肉体の死滅によって、認識の主体は物質を超えた世
界へ認識の支点を移行するだけである。そして、おのおののカルマ(行為)によって、それぞれにふさわしい
浄化の段階・プロセスを経つつ、認識の支点はさらに大きな世界、自己の本質である真我へと移行される。そ
もそも認識の主体は本性(本来の自分)にあるので、移行されるというのは、認識の主体が移行するというよ
り、その支点が段階的に移行するのである。そのような認識の段階においては、死後の世界も認識の支点に応
じて顕現されてくるため、物質界にいるときと同じようにその世界に自分が存在するとという感覚を保有して
いるが、認識の主体にとって、この世と同じようにそれは仮現の世界である。その支点となるものは、確かに
その人の全体の「カルマ」によって自ずから気づくべき認識の支点を決める要因ではあっても、認識の主体そ
のものがそのような様々な世界を移行しているのではないのだ。当然、認識の主体である真我は輪廻してはい
ない。真我(本来のわれわれ)は輪廻の階層に同時に偏在しうる存在であるのだ。これはかなり重要な概念
で、われわれは死して後、真我に目覚め、あらゆる次元に偏在可能な無礙自在な存在となるのだ。
 さらにいうならば、輪廻の主体は業熟体と呼ばれるもので、この物質界の五官六根の世界から、仏教の唯識
でいう第八阿頼耶識を包含する全カルマの総体であり、これが輪廻の主体たるものである。人間の認識の主体
はこの業熟体をも超えるダンマ(法身)にまで、移行しうる。それを達成し証明したものがお釈迦さまであ
る。その境涯をに達したものを仏陀という。仏陀は全宇宙を包含する空無なる本源であるとともにダンマ(法
身)としての全宇宙を顕現せしめているがゆえに、あらゆる人類の業熟体に働きかけ、無限のダンマが顕わに
ならしめることを可能にした。全人類、全生命体をして真我に目覚めさせるべき法輪を転じている。仏陀出現
によって全人類は、はじめて、永い輪廻の呪縛より脱出して、真我に目覚めることが可能になったといえる。


五、人はみな菩薩であり、その課題とは

 さて、次にさらに重要な問題に入りたい。それは、人間としての「私」が顕現されている魂はこの地上でい
かなる生涯を送ろうとも、死後、自我が吸収される「真我」の一側面である「菩薩」という輪廻の主体に移行
するものということである。
 古来からの輪廻観では、この世の「カルマ」によって、死後、動物に生まれ変わったり、地獄・餓鬼・畜
生・修羅・人・天界に生まれることが説かれ、また、今日でいう霊感や霊能によって、そのような輪廻世界の
種々相をかいま見た経験者は無数あり、拙僧もこういう世界は何度も経験し見ている。しかし、誤解してはな
らないことは、餓鬼とか畜生とか表現された世界は、決して人間と動物との差別をいうのではなく、カルマに
より形成された人間の迷いの状態をあらわしている。
 動物・植物・鉱物にも種々の意識層があり、しかもそれら森羅万象悉く仏性の顕現であるが、彼らは、どの
人間よりも純真無垢である。カルマの浄化の役割をひたすら黙々と果たしている存在である。
 地獄に堕ちるというのは、この世の自我である「私」という主体が地獄の世界等を浮遊するというよりも、
この世の「私」の生涯を通し作り上げてしまったカルマが意識界で浮遊しているということである。カルマが
浄化しきれず潜在して残るということで、新たな生命にとっては、これが浄化するべき課題となって残る。浄
化できるまで、この課題は全生命・全人類のトラウマとして残る。
 新たな生命・人類はこのカルマの浄化をめざして出現している。特に人類は、このカルマの問題を自覚する
意識すなわち「私」をもって出現している。仏教でいう「菩薩」とはこの「世界カルマ」の浄化を誓願してる
存在を示すものであるが、まさしく、これこそが、「全人類」の本当の課題であるといえる。
 まさに、「人身受け難し」である。大宇宙の計り知れない営みの中から出現した人類は大宇宙の意志を認識
し、それを体し、大宇宙大自然界を調和に導く、まさに、これが「菩薩」なのである。人として生まれること
自体、奇跡的である。「菩薩」なるが故に自我が菩提心として発心するのである。
 こうした観点から見れば、「人が死ねば、皆、本来の菩薩に戻る」と言っても過言ではない。地獄に落ちる
ものは誰もいない。しかし、何度もいうように、人の生涯で刻み込まれた悲しみや苦しみ恐怖や不安や憎しみ
といった心や魂の傷即ちトラウマは人類の意識層に残り、浮遊することを忘れてはならない。これが、この物
質界を含め阿頼耶識に至るまで地獄の諸相を呈している。深刻なことは、これらが地上に生るものや新たな生
命のカルマ上のトラウマとなって働くということである。すなわち、「人」=「菩薩」によって、このカルマ
の浄化がなされるまで、まさしく、地獄にあって、その誓願を果たし続けるようなものである。それは、まさ
に、この不調和な地上界に出現するわれわれ自身の課題として跳ね返っているものである。全生命の浄化のプ
ロセスが大宇宙に作用しているからこその地獄界なのである。
 それゆえ、個々人のカルマ(行為)の責任は重大だと言わざるをえない。まさに、「私」の悲しみ、苦しみ
は「全人類」の悲しみや苦しみであり、「全人類」の悲しみや苦しみが「私」の悲しみや苦しみである。それ
だけに、個人が自己の人生を通し一つでも多くカルマの浄化を果たすことは、全人類、全宇宙のカルマの浄化
に大きく寄与するということに他ならない。
 人は亡くなれば皆本来の菩薩にたちかえり、生前の縁や誓願によって人類救済の活動を行う。肉体を有すれ
ばそれぞれカルマによる制約があり、思うように働けないし、エゴとエゴとの争いを繰り返すことが多かっ
た。しかし、死ねば皆、本来の魂である「菩薩」に還り、その歪みの調整にかかる。その調整の世界が霊界と
言われる意識界で、そこには段階に応じて、調整に必要なあらゆる環境が調えられている。それぞれの意識界
での調整も、その本質はカルマ浄化のプロセスにほかならず、全人類の意識層に大きく反映されるのである。
これは、本体がその世界を遍歴するのではなく、カルマの浄化のプロセスが働いている仮現の世界だというこ
とである。即ち意識の種々相、あらゆる階層に及んだカルマを浄化するため、「菩薩」はあらゆる階層で浄化
のプロセスを同時に働きかけるのである。物資界から、さらに六識、七識、八識の阿頼耶識まで菩薩はカルマ
浄化のプロセスとして、同時に顕現している。そして菩薩が向かっている本当の世界は九識以降の究竟である
涅槃寂静の「空」、密厳があるがままに世界に現出することをおいてほかにない。






探求すべきもの
 「確かに自分はなにか大きな生命の流れというものによって生かされているという実感はございます。」と
隣席に座った青年はおもむろに語りだした。「しかし、そうはいってもほとんどの生はあの川に流れる泡沫の
ように、現れかつ消えしつつ、与えられた時間の中でただ流されているようにしか見えません。私自身、必死
に生きて参りましたが、本当のところ、真に生きているのかどうか実感がわかないのです。」と言い黙ってし
まった。
 この日、車窓から見える景色には冴え冴えとした静けさがあった。ちょうど朝日がさし、遠くの山々や麓の
街並みを美しく輝かせていた。全てがきわめて間近で凛としていた。
 「この人生の流れにいくら抵抗しようとも、抵抗そのものが、流れの中の悪あがきそのものです。そのよう
な中で、自分は日々、周囲との軋轢に抵抗し、妥協し、ひたすら自己満足に逃避しては、抵抗と挑戦に明け暮
れしつつ、絶えずどこかでこれが本当の人生なのだろうかと不安なのです」そう語り始めた青年は経済学を専
攻し、いろいろな宗教を遍歴し、永遠のいのちやら霊性というものを探求してきたという。しかし、畢竟、全
ては「無」であり、霊性の問題は「無」を理解しえない恐怖心からくる自己欺瞞なのではないか。座禅や瞑想
などを実践してみたが、正直のところ、今ひとつ確実なところがつかめず、中途半端でいることなどをかなり
長い間話しかけてきた。「お坊さん、結局、世界も自分も真実が見えない不安や恐怖のため、誰かが標榜する
真理の名の下に主義主張・教義や信念に固執している。しかし、それがかえって真理に対する抵抗となってい
るのかも知れない。さらに深刻なのは、心が虚ろなため、うわさ話や世間話に興じて、喧しい割には人生の真
理に対して怠惰であることです。お坊さん!自分を含めこの現状を打開することは可能なのでしょうか。うわ
さ話と同じく真理を云々している割には、どうしても、真理がつかめないのです。」
 相変わらず流れゆく新幹線の車窓、しかし、外の景色には微動だにせぬあの不思議な沈黙がずっと続いてい
た。それはいかなるものをも包み込む圧倒的なまでのものであった。彼は話してる間、それを見ることはなか
った。
 あなたのいう真理とは何であろうか。単に人が伝えたものであるのか。あなた自身の願望や自己逃避の幻影
にすぎないものなのか。それらはいずれも真理ではない。それより、そこにある沈黙をみたまえ。それがある
からこそ全ては現れかつ消えしているとは思えないだろうか。この生の背後にある沈黙の力強さとはいったい
何であろうか。生の断片をみる限り、真理を見逃し、我々は経験や知識という断片の中で、喧しく、空しく仮
論を吐くばかりである。しかし、生の全体を見てみたまえ。さすれば、そこに微動だにせぬ沈黙が顕になって
いるのを見る。 真理は遠くにはない。私たち自身の生そのものの中にある。世界はあらゆる恐怖に嘆き、苦
しみ、葛藤し、混沌としている。まさに事実を離れ真理は無い。あるべきだという理想は、真理をねじ曲げ、
世界を混乱に導く。欺瞞性、それが、いま世界中に起きている事実ではないだろうか。君が見ていることは確
かである。
 やがて電車は東京駅に着いた。青年はは軽く会釈をして、再び雑踏の中に飲み込まれていった。彼の瞳はき
わめて明晰で、印象的であった。






沈黙の岩
 境内の天神堂側の一角に自然石が一基祀られておりそれが何であるか長いこと不明であった。隣には「雷
神」と刻まれた石碑があるが、自然石の方には文字も図像もなく、それが何であるかは知る由もない。ただ、
昔から「これは隠れキリシタンのマリア観音でね。ある時間になると子供を抱いた観音さまが現れる」と古老
から聞かされていて、子供心に興味を覚え、一日中じっと眺めたこともあった。しかし、何となく全体が赤子
抱いた姿のようには見えるが、ただのごつごつした岩でしかなかった。
 最近、隠れキリシタンの研究をしているという方が突然訪ね来られた。あいにく確証する資料は何もなく申
し訳ないと思っていると、逆に桑折町に隠れキリシタンが存在していたことを裏付ける米沢藩上杉文書の資料
や立教大学高田茂教授の『石のマリア観音耶蘇佛の研究』などの貴重な資料をたくさん頂戴した。その中で、
この寺の自然石がマリア観音として紹介されている。
 桑折には半田銀山があり、奥州・羽州街道の分岐点であるので、かなり多くの隠れキリシタンが移り住んで
いた。
 元和年間の徳川幕府によるキリシタン禁教令や追放令はきわめて過酷なものであった。処刑された者は数限
りなく、奥羽に逃れた隠れキリシタンも転びキリシタンとして子供や孫たち六代に及ぶまで差別されてきた。
それは世界史上まれにみる弾圧と殉教の歴史でもあった。
 今日でも、殉教者と称する者たちの痛ましくも激烈な行動は世界中を震撼させる。しかし、ごく一握りの支
配権力の犠牲になる者はいつの時代も純真で敬虔な大衆といわれる人々である。
 それはともかく、なぜ、この寺に自然石のマリア観音が祀られたのであろうか。この寺に「天神」や「雷
神」や「観音」が祀られてあり、それが「天にまします神」や「ゼウス」や「聖母マリア」を隠れて信仰する
にはちょうどよかったからなのであろうか。
 突然の来訪者に触発されて、夕日が沈む頃まで、じっとこの自然石マリア観音を見つていた。相変わらず寡
黙な石ではあるが、ふと、こんな声が聞こえた。
「それは悲惨なものでしたよ。同じ血の通った人間同士が信仰や立場の違いでお互いを疑ったり、争ったり、
殺したりするのですからね。こんな悲しい光景はありません。何が人をしてこんなに狂わしめるものなのか。
ほら、耳を澄ましてご覧なさい。聞こえてきませんか。諸々の人々の悲痛な叫び声が。攻める者も攻められる
者も、信ずる者も信ぜざる者もみな同じく悲しみもがき苦しんでいるのですよ。誰もがかけがえのないいのち
を頂戴しているというのに、どうして人々は利害や主張にこだわっては争わざるを得ないのでしょうか。私は
これまでずっと人類の愚かな悲しみと苦しみの声を黙って聞き続けてきましたが本当に悲しいですね。」
 江戸時代に建立されたマリア観音。実はあまりにも凄惨な宗教弾圧を見かねたこの地の人々の、同じ人間と
して、本当の救いの神は見えないところで一であり、この世でみな倶に共生すべく生き延びよという大慈大悲
の思いが込められているように思える。
 どうやら、この自然石は、今、世界に向けて、長い沈黙を破り、人類の悲しみの歴史を少しずつ語り始めて
きたのかも知れない。愚かさを繰り返さないようにと・・・・

 






崩れた墓石
 「兄さん、どうしたことかお医者さんがね、思い切って田舎に帰ってみてもよいといってくれたんだ」と嬉
しそうに妹から電話が入った。妹は3年ほど前に末期がんの4段階のBと診断され、2回手術を受けていた
が、最近とみに体力が衰え、自分で動けることもままならない状態であった。兄と妹の二人きりの妹で、嫁ぐ
まで、この寺で病弱な母を長いこと看病し、寺を大切に護ってくれていた。嫁いでからも、いつも寺のことを
気にかけ、父や兄の手が行き届かないところを誰にも気づかれないように陰ながら手伝ってくれていた。そん
な妹だけに、どうしても、一度、寺に帰ってご本尊に御礼を申し上げたいと言い出し、医師が無理だというの
も聞かずに帰りたがっていた。一人息子に付き添われながら、必死の思いで東京から寺に帰宅し、まるで苦行
する釈尊のようながりがりの身体で、7日間、寺で禅定し、再び、夫と息子の待つ東京へ戻った。
 妹に何かある度に、必ず私には事前にご本尊からお知らせをいただく。そして、祈ると妹が楽になるという
不思議なことばかりが続いていた。
 一ヶ月したある日、特に用事もなく寺の墓地を見回っていると、もう長いこと無縁化しているぼろぼろに崩
れた一つの墓石に目がとまった。正面も裏も完全に崩れていたが、脇にかろうじて文字が残っている。紙を当
て鉛筆でこすると、なんと!それは百年前のこの寺の住職の奥さんであった。ああ!何と申し訳ない!長い間
誰も気づかず、忘れられていたのか。何ということか。寺にとってかけがえのない方であるのに・・・・。
 「明治三十年十二月五日船尾家初代妣マス。」過去帳で確認し、間違いなかった。さっそく花を手向け供養
させていただいた。すると、その日、妹が再入院したという知らせが入ったので、「もしかすると、このマス
さんのおかげで、もう少し楽になるかも知れないね」と励ました。
 しかし、その数日後、妹の容態が急変し、私が駆けつけるのを待って、静かに息を引きとった。五十一歳で
あった。まるで、寺にとってかけがえのない人のことを忘れないようにと言い残すかのように、百年以上も前
に忘れられていたマスさんと同じ命日、十二月五日に他界したのである。
 近年、寺のお墓の事情も変わりつつある。少子化や夫婦別姓の時代、子孫に迷惑はかけられないということ
で、散骨や自然葬を希望する方が増えているという。それはそれで一つの時代の流れであろうが、寺に住まわ
していただいていると、人の生死には何かもっと厳粛な、そして一人一人に吹き消すことのできないいのちの
輝きというものが現存しているように感じられてならない。
 いまこのときを生かされ生きているものにとって、かつてやはり同じようにこの場でこのときを生きていた
人の思いというものが時代時代の幾重にも重なって、かけがえのない独りの人の生を支えてくれているような
気がしてならない。
 たとえ墓は風化し、無くなろうとも、かつてそこに生きていた人の思いというものが、ときには、慈雨とな
り、心地よい風となり、朝の光となり、きらきら輝く雪解けの滴となって、私たちの思いと共に生きている、
そんな気がしてならない。一人の忘れられた墓石は、それでも時代とともにいまを生きている一人のいのちの
決して吹き消すことのできない「不生」を厳然と示していた。







般若心経のこと










和文】 仏説摩訶般若波羅蜜多心経


 観自在菩薩は、深く般若波羅蜜多を行じし時、五蘊はみな空なりと照見し、一切の苦厄を度したまえり。
 舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色即ちこれ空、空即ちこれ色、受想行識もまた、かくの
し。
 舎利子よ、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄らかず、増さず、減らず、この故に空の
には色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身もなく、色も声も香も味も法もなし。眼界もな
く、
乃至、意識界もなし。無明もなく、また無明の尽きることもなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の
尽きる
こともなし。苦も集も滅も道もなく、智もなくまた得もなし。得るところなきを以ての故に、菩提薩た
は 般若
波羅蜜多に依るが故に、心にけい礙なし。けい礙なきが故に、恐怖あることなし。一切の顛倒せる夢
想を遠離し
て、涅槃に究竟す。
 三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。
 故に、知るべし。般若波羅蜜多はこれ大神咒なり、これ大明咒なり、これ無上咒なり、これ無等等咒なり。
 よく一切の苦を除き給う。真実にして虚ならざるなり。
 故に、般若波羅蜜多の咒を説こう。すなわち、咒に曰く
 
 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

【龍雲拙訳】

仏説摩訶般若波羅蜜多心経

 深い般若波羅蜜多の本不生において、観自在菩薩は、次のように観察された。
 外界に、先験(本不生)より停滞なく、今の変動が経過し、全き新しき変動として、刻々に創造され、相続
れている森羅万象を、五蘊という我々の感受作用(受)・思惟(想)・潜在意識(行)・認識(識)通し
て、あ
たかも外界の実体が変動していると錯覚している。
 「五蘊によって森羅万象を実体視することは、全くの虚妄である。」とブッダは指摘されたのである。

 外界における森羅万象は、潜象なる先験性(本不生)より停滞なく、今の変動が経過し、全き新しき変動と
て、刻々に創造され、相続される「空の実相」であり、実体として止まるものはなく、それを五蘊に蓄積し
て実
体視している虚妄にすぎない。

 あらゆるものは空の実相として、刻々に、唯一無二の全き新しきいのちとして輝き、響いている現象であ
る。


 問題は、その停滞のない新生創発の現象である空の実相を五蘊に留め実体視することにより執着しているこ
にある。

 五蘊による虚像であるものを実体視することで根本的錯誤に陥ることをブッダは虚妄の法と指摘された。

 いかに極微であろうと、極大であろうと、外界を実体視するかぎり、たとえ、それらは五蘊仮和合であり、
互依存・相互関係の因縁所生のものであり、原因と結果の連続体であり、関係性によって集合離散する外界
の変
動にすぎないものであるが故に空であると観じても、そこには、まだ、五蘊による虚妄を実体視するとい
う欺瞞
性を残しているので、これを空ということはできない。

 シャーリープトラよ、故に、色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 における、色というのは外界に投
された虚妄の実体指しているのではない。

 外界には、先験より停滞なく、今の変動が経過し、全き新しき変動として、刻々に創造され、相続されてい
る。この空象がまさに空の実相である。

 シャーリープトラよ。 このように、森羅万象は空象である。空象であるが故に森羅万象は五蘊に現象す
る。
しかし、五蘊に留めるものは既に死滅したものの記憶の死に灰に過ぎない。その死滅したもの、死に灰を
基とし
た現象は起こりえない。現象は先験なる空象から刻々と新たに発生することで持続されている。

 これは、重要な理解である。五蘊という虚妄性からは何も生じない。本不生は五蘊に依らないところのもの
あるがゆえに、空相において、現象から離れて空象があるのではなく、また、空象からはなれて現象がある
ので
はなのである。

 現象が空象であり、空象が現象である。

 また、色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 とは、空の実相は、空象と現象が加持感応(互換重合)
し、現象していることを示す。

 したがって、感受作用(受)も、思惟(想)も、潜在意識(行)も認識(識)もこのような空相の元に作用
ている。

 シャリープトラよ。森羅万象は空相であるから、実体の生滅に非ず、実体の淨穢に非ず、実体の増減に非ざ
ものである。というのも、それらを超越した先験性すなわち本不生からもたらされるものであり、虚妄に留
まら
ざるものであるからである。

 また、空相は、形象に非ず、感受作用に非ず、思惟想念に非ず、潜在意識に非ず、意識に非ざるもので、そ
らに止まることなく、それらを絶えず超越している本不生である。

 空相は、眼に非ず、耳に非ず、鼻に非ず、舌に非ず、身体に非ず、識(こころ)に非ず、したがって、形
(色)に非ず、声に非ず、香に非ず、味に非ず、認識の対象(法)に非ざるもので、それらに止まることな
く、
それらを絶えず超越している本不生である。

 空相は、眼の世界(物質界)に非ず、意識の世界(意識界)に非ざるもので、それらに止まることなく、そ
らを絶えず超越している本不生である。

 空相は、無明に非ず、また無明の尽きるところに非ず。老死に非ず、また、老死の尽きるところに非ず。
苦・
集・滅・道にも非ず、智に非ず、得に非ざるもので、それらに止まることなく、それらを絶えず超越して
いる本
不生である。

 このように、得るところに非ざるを以ての故に、菩提薩?は、本不生の般若波羅蜜多(阿字本不生の空の実
相)に依るが故に、心に?礙(障り)ない。?礙(障り)ないが故に恐怖なく、一切の虚妄である顛倒せる夢想
超越し、涅槃に至っている。

 三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を覚醒された。

 般若波羅蜜多は大神咒であり、大明咒であり、無上咒であり、無等等咒である。よく、一切の苦を除く。真
にして虚ならざる般若波羅蜜多の真言を咒して、響かせられた。すなわちその真言のヒビキはかくの如し
”ギャーテー・ギャーテー・ハーラーギャテー・ハラソーギャーテー・ボージソワカ

 目覚めよ、目覚めよ。完全な阿字本不生に目覚めよ。全てのものよ、自身を照らすものよ、遍照金剛よ、い
ま、ここに、新生創造するものよ。〃

般若心経


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