真言宗豊山派



法座テキストU



音なき音を聞く
 道を歩むおりなど、際限もなく心に浮かんでは消え、浮かんでは消えると散漫になりがちがちな 我がこころに「今ここ ありがたし」と注意をうながしつつ歩む。
 すると、さほどでもないことなのだが、ふと、「我に気づくよう」今ここをみることがある。気づくこと が多くなる。
 それほど、「我」というものは「我を忘れて」心のなかでおしゃべりに夢中であり、絶えず、きのう・き ょう・あしたと思いを巡らして、やすむ隙もないのであろう。まして、気がかりなこと、やらねばならな いことなど厄介な問題を抱えたりしていると、心ここにあらずで、際限もない堂々巡りの思考の渦 中にハマってしまう。
 しかし、これは無理もない。人とのさまざまな関わりにおいて、人はさまざまな葛藤や不安や恐怖 に晒されるあるがままの心境なのだから。
 こうした心境にありながらも、道を歩んでおると、ふと、どこからとも無く篠笛の音色がかすかに 聞こえてきた。その音色はかすかだが澄んでおり、はっきりとしていた。しかも、あたりの全ての響き を際立たせ、美に変えていく圧倒的な力があった。
 その笛の音とともに鳥の声、風のゆらぎ、列車の音、田畑をうねる耕作の音や人の話し声、川 のせせらぎ、遠く山並みに囲まれた盆地に烟り立ち、寺の鐘の音、そばを車が駆け抜け、急ぐ自 転車の軋む音、人に驚く犬の声辻の家の三味の音、メール着信を知らせる携帯の音・・・それ らが、一瞬にして、そう、全世界が今ここに息づくかのような美をもたらしていることに気づく。
 まさに「今ここ ありがたし」である。
あの笛の音は一体どこから聞こえてどこへ去ったのか。気のせいだったのか。いいや、明らか に、どこからともなく響いてくる麗しき音色であったが、確かめるとそこには無音しかなかった。不 思議に思いつつ道を歩む。夕暮れの帳が降りるうち、すっくと立つ木々の影が独立自尊の今を 顕示しつつ、静寂に中にのみこまれていく。
あの笛の音は確かに「今、ここ在ること難し」であった。かすかだが、あるがままの全てを明らかに する不可思議な音色であった。
 夕暮れ時、田畑の広がる真っ直ぐなあぜ道をどこまでも歩む。はるか向こうの森の寺から晩鐘 の祈りの響き伝わると、一日の畑仕事を終えた農夫たちが、ふと「我にかえった」ゆに、鍬や鋤 の手を止めて、静かに祈っている。その姿は全世界で
繰り広げられている悲惨な苦悩をそのまま包み込むかのように、寡黙ながら慈悲に満ちて世界を 圧倒するかのように「今ここにあること難し」と響いているようであった。


 マスメディアを通じて流れるものはあまりにも喧しく、悲しいことばかりであることは昔も今も世相に 変わりはない。さまざまな大国が大騒ぎをする中にも、あの琵琶法師の琵琶の音が聞こえるない のだろうか。「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあ らはす 驕れる者久しからず ただ春の夜の夢の如し 猛き人もついには滅びぬ ひとへに風の前 の塵に同じ」と・・・。
 雅楽で歌った今様の中に「色はにほへど 散りぬるを我が世たれぞ 常ならむ有為の奥山   今日越えて浅き夢見じ  酔ひもせず 」があった。この時響いていた篳篥の笛の音は無常の 寂寞感を一層際立たせて美しいほどに広がっていた。
 これらはブッダの悟りの心境である「諸行無常」・「諸法無我」・「生滅滅己」・「寂滅為楽」を 歌にしたものだ。

 だが、ここで、間違えてはいけない。それは、「嗚呼、無情!」を詠んだのではなく、「心を鎮め て、声なき声を聞け、音無き音を聞け、妄見・邪見を拭い去って、姿なき姿をあるがままに見よ、 全ての真実が、今ここありがたしであり、それのみが世界の悲惨な自我による暴力を終焉させる ものである」と歌っているのである。
                萬歳楽山人 龍雲好久
 


大師秘伝
 昨年から今年にかけて、或る不思議な響きが内面においてずっとしていた。  しかし、それ は、音というより無音に近い重く深い響きであり、また、語りかけているようにも思えるが、言葉とし て明確ではない。
 だが、その響きは、明らかに、何らかの意思を伝えようとしているかのようであり、繰り返し響いて いる。しかも、その響きは四六時中、絶えることなく、すでに一年以上経過し、今日に至ってい る。
 未だ言葉にならない響き、イメージにならない想いではあるが、時折、突然、自分の中で、フォ ーカスし、明確化されることが、度々起こることがあった。そのフォーカスはたいてい、予期せぬ 時に、一瞬にして起こる。
 繰り返し起こるフォーカシングとその都度に明確化してくるビジョンは、いわゆる暗在系と明在 系の接点にあらゆる存在の核心であることを象徴するものであった。
 暗在系とは遍在性、すなわち中心のない遍満性なるが故に決して観測し得ない系をいう。神 学的には神の国や天国。仏教的に極楽浄土、蓮華蔵世界、曼荼羅界など神話や象徴によ って表現を試みるが、表現し得ない先験性、すなわ阿字本不生を指す。

 明在系とはビックバンからビッグクランチにいたるすべての存在系であり素粒子からマクロ大宇 宙に至る森羅万象の生死流転の現象界を指す。

 暗在系はその中心性の無い遍満性から先験性そのものであるが、明在系は中心を持つ局 所性によるがゆえに顕現される世界であり、観測、計測可能な系で宇宙の始まりから終わりまで をこの明在系によって把握される。

 ここで与えられている重要なメッセージは、明在系における局所性や中心性は単なる断片化 された個々の集合と相互依存性にあるのではなく、個々は完全なる独自性を有するが故に自 他の独自性を含み越える新たな独自性を生み出しうることによって含み越えられ統合されるとい う新たな独自性と創造性が、暗在系の遍在・遍満性によってもたらされるということである。
 明在系は時間や空間や次元の枠による条件付けに縛られるが、その背後には時間や空間 や次元の枠に非ざる暗在系が時々刻々に先験的に作動している。しかも、個々がより大きな個 に含み越えられる場合、全体が個を支配するということではなく、完全に自立し得た個が適格 に統合されて初めてより大きな全く新しい統合体が創造されるというホロン構造的に進化するの が明在系の本質であることである。その統合の本質にあるものがいわば暗在系の先験性である のだが、暗在系というのは明在系の次元を越えたところにあるが故に本質として先験として次 元を通じて明在系の次元に経過し、顕現化されたものは消失するが、先験より次々に生み出さ れる。

 ここでいう次元とは、わかりやすく言えば、仮に一次元は点でその動きは前後の直進性のみの 次元。仮に一本の橋を渡る時に、一次元の人間が同士が向こうとこちらからやってきて橋の真 ん中でぶつかれば、譲るスペースはこの次元にはないから、どちらかが後戻りするか、相手を倒 さない限り前に進めない。二次元というのは一次元の前後に左右の次元が加わった面の世界 であるので、ここで、直進しかできない一次元の人間と前後左右の平面を移動できる二次元の 人間が出会ったとき、一次元の人間は前に進むか後ろに戻るかのどちらかしか選択肢はない が、二次元の人間は、ちょっと脇どけて一次元人間を交わして前に進むことが可能だ。そのと き、一次元に人間の目には右左は目に入らないから、目の前から二次元の人間が突然姿を 消して、突然後ろに現れたとしか見えない。同様に、二次元は面の移動しかできないので、前 に壁が立ち
はだかれば引き返すか壁を壊すしかないが、三次元の人間は上下の次元が加わるので、壁を 飛び越えれば先に進める。三次元の人間がジャンプしたとき二次元の人間には、三次元の人 間が突然消えて、突然壁の先に現れたと思うだろう。同様に、三次元の人間は四方八方上 下とも囲われてしまえ身動きがとれないが、四次元の人間は平気でその囲みを通過できる。わ れわれは五官六根の感受できる三次元の世界を見ているが、暗在系という四次元以降多次 元からやってくる先験性によって顕現化さた明在系を見ている。このように次元とは一つの仕切 り板すなわちスリットのようなものであるのだが、その次元におけるスリットの穴を通して暗在系と明 在系が交差していることが今回の重要なメッセージである。
 その暗在系と明在系の交差する中心性が万生万物あらゆるものの自立性、自存性であり、 ミクロからマクロにいたるまで同一の中心性すなわち一者、密教的には大日如来、神学的に はキリストといった象徴で表現されり二のない一である。 これらは次元におけるスリットの上では 大円で映し出されるが、それは仮想であり、実相はあらゆる次元を突破した暗在系と明在系が 中心でねじれてもともと裏も表もなく、暗在系と明在系を統合させる宇宙の重力磁場が作用し た時々刻々の全く新しい創造の源であり、その心があなた自身であることを自覚しなければなら ないということだったのである。


 新年早々、例によって難解な心の通信となってしまったが、ずっと響いている不可思議な響き の正体はこれらを象徴するあの弘法大師空海の御影が右手に持つ五股金剛杵が個々の万 生万物が内在させている不生の仏心であり、明在系と暗在系の中心にあってかけがえのない 生命であり、それを脅かすいかなる驚異が驚異が目の前に立ちはだかろうと、暗在系の金剛不 壊心(いかなるものも破壊し得ない堅固な)遍在性すなわち遍照金剛であることをひとりびとりが 今ここに自覚すべきことがあの不可思議な響きの明確な意味であったことをご理解賜りたい。
 このような内示があるときは必ず決まって大変動が起こるまえぶれである。それはしかし、災い転 じて福となすために与えられるものである。何事か不測の事態に遭遇した時は南無遍照金剛と となえて、自心に五股金剛を観ぜよ。
われわれにとって、いま、世界はことそれほどに重大な局面を迎えているのかもしれない。
  萬歳楽山人 龍雲好久


天も感じたりや供養の風涼し
 この寺は俳聖松尾芭蕉が活躍していた時代に建てられた寺である。開基和尚は芭蕉より十 年先輩で、芭蕉と同じ年に遷化している。
 この時代は今のように人々が自由に往来できる時代ではないのだが、しかし、文化交流は極 めて深いものがあり、不思議に思う。
 今日の飛躍的な情報伝達や交通網の発達は、当時の状況に比すれば、天地ほどの違い であるのだが、文化の深みについては、自身を顧みて、なお、この時代にな全く及ばないように感 ずる。
 享保四年五月に、この寺で俳聖芭蕉翁追善供養が開かれ、人々の暮らしに薫り高き豊か な正風を吹き込まんと、石に「芭蕉翁」と刻し、芭蕉が須賀川の等窮宅で詠んだ「風流の初め やおくの田植えうた」の短冊を土中に埋めて「田植塚」が立てられた。このような芭蕉翁を追慕す る句碑は日本全国に約3000基ほどもあるのだが、その中でも、この寺の石碑は奥の細道中、東 北ではもっとも古いものであり、今日でも、著名な俳人が時折、訪れてくる。
 
 この芭蕉翁の苔蒸した石碑は、黙して何も語らないが、この折り、春と秋に発刊された俳諧誌 『田植塚』乾・坤の写しが今でも残っている。それに目を通すと、この時代の文化の香りが漂っ てくる。 この誹諧誌には挿絵はあって、かつての寺の境内の様子や、乙女の田植え風景が描 かれていて、当時の様子を今でも彷彿とさせる。、
 その句集は追善興行一人一句で、まず、句集の編者燕説から始まる
 風流の田うた揃えむ初手向
 稽首して咲ゆりの一族
 このあと三十人ほどの句が続く。
 そして、碑前手向として
五月十二日導師を請し 朝日山におゐて供養をいとなむ。おのおの碑前に合爪して風雅安楽 の華を捧げ奉るとして、
 天も感じたりや供養の風涼し
 蛍かな石碑の箔の底ひかり
 とふらいによれ芍薬の羅漢たち
 奉るあやめに墓も動くべし
 其流汲んで手向んかきつばた
 
 と近在のものから遠方全国各地の俳人の句が百人ほど続くのである。芭蕉の高弟などの句 が多く納められていて、俳諧草分けの頃の貴重な俳句集であるが、その初版本は小寺にその 写しがあるほかは残っていない。 
 この俳諧誌に描かれたこの寺の境内の絵図を見ると、実に整った伽藍であった。四百年ほど 経た今では、当時の地勢を残して、見る影もない。が、それでも、田植塚や本堂、天神堂、蓮 池、隠れキリシタンのマリア像など歴史の痕跡はかろうじて護り伝えられているのである。
 さて、享保四年頃のこの寺絵図にに、清流と蓮池が描かれていて、その池は今でも残るが、 雨水しか流れ込まないドブ池となってしまっている。ドブ池とはいザリガニ目当ての子供たちで毎 日賑やかである。
 再び蓮池にしようと、たくさんの蓮を池に植えてはみたものの、ことごとくだめであった。ザリガニ が、蓮の芽をすべてちょん切ってしまうのである。ザリガニの繁殖力はすごくて、毎日子どもたちが ザリガニ釣りに来ていても、なた早朝白鷺がザリガニを食べに来てもいっこうに減らない。大きな 鉢に蓮を入れて、すいめんより高くしてみてもだめであった。
 この池に蓮は無理だなあとあきらめざるをえなかった。六十年以上この池に蓮が咲いているの を見たことは一度もなかった。

 ところが、今年の夏は、蓮にとっては向いている気候なのだろうか、寺の北側の別の小さな池 に、関西から頂いた蓮が池全面に広がり、色とりどりの美しい花を咲かせ、九月になった今でも まだ咲き続けてくれているのである。植え込んで二年目だが、こんなにいっぱい咲かせてくれると は思っても見なかった。大きな葉の緑と高く伸びた先の蓮の花は実に美しい。池全体に葉が生 い茂り、鳥から魚を守っていた。高い茎の華のつぼみがいくつも出ていて、毎日がとても楽しみ であった。
 最初に開いた花は真っ白で実に清浄で気高く、気品のある白蓮であった。
 確かに、今では、古代蓮などと称した蓮が大きな鉢に植え込まれて門前を飾る寺も増えては いるが、やはり、池に泥田に自生する蓮の力強さと美しさには全く適わない。
 蓮の本当の美しさを毎日楽しませていただいた。
 だた、この寺は前々からそうであるように、いつもと違うことが起きる時には、必ず、如来からの 啓示が含まれていることが多い。しかも、如来の慈悲の光明が間近に示されるときには、決まっ て、我々にとってははなはだ困難な課題に直面することと一体である場合が多く、なにか深いわ けがあるのであろう。とはいえ、これは不吉な予見というよりも、避けられない宿命、因果に苦しむ ことがあって、その大きな試練に直面せざるを得ない状況にあることを如来が察知されておられる かのように、不可思議にも身近な自然現象通して、警告を発せられのである。
 だが、この如来性というものは、何も特異な神々や仏菩薩明王が出現するのではなく、われわ れのあるがままの現実という事実を通して発現されている。それゆえ、奇異な現象ではなく、どん な不可思議なことも自然法爾なのである。天地自然すべての生きとし生けるもののあるがままの 事実の中にこそ、如来からの語りかけがなされている。その、語りかけに気づく文化が芭蕉の正 風でもあったように思われる。

 池に自生した蓮を見ていると、あのブッダの姿も偲ばれるのである。
 かつて、ブッダは、戦争や疫病、自然災害や社会の不平等に苦悩する人々の傍らに立っ て、こう語られた。
「苦悩するものよ、あの汚泥に咲く蓮の花をご覧なさい。あなたの本性は、あの蓮の花のように、ど こまでもまっすぐで、毅然としていて、力強い。かくも美しく、決して汚泥に染まることがな、決して 何者も穿つことの出来ない尊いいのちである。その、まっすぐないのちは生死という現象世界で はない「本不生」という「一者」からすべて発せられているからなのだ。何者によっても破壊される ことのない本不生のエネルギーとはあの蓮の花のようなものである。
 さあ、悲しむものよ、苦しむものよ、心を落とし、生きることを見失ったものよ、怒り、恐れ慄くもの よ、おしゃべりに夢中になっているものよ、世をはかなんでいるものよ、虎視眈々と盗みを働くもの よ、神のために正義の為に民衆のために自らを誇示するものよ、しばしとどまりてあの麗しき蓮をよ く見給え。 あの蓮の花に、混沌とした宇宙からほとばしり出た麗しき瑠璃色の大地(惑星地 球)に、乳雲海が漂い、激しい稲妻の光が十方に放たれ、そのエネルギーは龍のごとき上昇と 下降のエネルギーとなって生命体をはぐくみながら永遠の運動を繰り返す実相を顕し、その実相 である如来性があのをいま、ここに見事に全く新しい咲かせているのだよ。混沌の中にとどまり固 着するものは何もなく、あの如來性のみが、刻々と全き人生をいま、ここに、如実に生きている。 君たちはすべての混沌から解き放たれた全き新しいのちをいきているのだ。
 何一つ、この働き、一者から離れるものはない。
 しかし、なにゆえにこうも世界は激しい苦悩に覆われてしまうのであろうか。それは、この本質を 見失い、自己欺瞞というどろどろした虚妄なる世界に病没しているからにほかならない。
 すべての矛盾、欺瞞が何を引き起こすのかをまっすぐに見なさい。どんな恐ろしいことがあって も、君の本性は決して覆されることはない。 そして、あの蓮の花のように麗しき人生の花を咲かし 続けなさい。如来は君が苦しんでいるからこそ、いつも君とともにいることを知りなさい」と語られて いる。それを聞いた。
 
 四十五年も毎年伺っている師匠の寺の檀家さんのところで、暑い盛りの盆の棚経を終え帰ろ うとすると、八十近い亭主が、
習いたてだという句を詠んでくれた。
 棚経の僧の背あおぐ母おもう
 棚経の僧の声残りて母しのぶ




遍照の霊光
   あした朝にあお仰ぐ へんじょうのれいこう遍照之霊光

   ゆうべ夕にみ観る えんみょうのがちりん円明之月輪
 
 この詩は恩師から賜った扇子に書いてあった詩である。
 昭和四十八年一月、京都の東寺で行われたごしちにちみしほ後七日御修法でだいぎょうじ 大行事を務められた恩師がその記念として、弟子に請われて、ご書印くださったものである。
 後七日御修法とは、今から千二百年ほど前、真言宗の高祖弘法大師空海が東寺に於い て国家安寧・世界平和・萬民豊楽を願って、天皇陛下の玉衣をお加持されて以来のものであ るが、今日まで継承され、毎年、真言宗十八大本山の大管長猊下方が東寺に集まって、正 月七日過ぎから一週間、国家安寧の新年の大祈祷が修法される。これは、真言密教最高位 の僧による修法とされ、最長老で最高位の阿闍梨が最後に修する祈祷秘法とされ、いのちが けとなる。
 我が恩師は昭和四十八年一月に行われた後七日御修法で大行事という「修法の大監 督」を特別に数年にわたり務めることを請われた人間国宝の大阿闍梨であったのだが、その時 に書いてくださられたものである。
 あれから四十二年経つが、ふと、その扇が出てきて、大変懐かしく思って眺めている内に、こ れはこれは単なる扇子ではなく、密教の最奥義を印した大変な詩である事に気づいた(今更な がらではあるが)。今、これは新たな光彩をもって私の心に飛び込んできている。折しも、正月元 旦午前〇時より紅玻璃色阿弥陀如来の新年の大護摩祈祷を修法している最中であった。
これは、密教行者の深遠な大境地でありながら、われわれ凡夫不可欠の日々の祈りである。欠 けることのない如来の慈悲を体現する大切な祈りの詩であった。

 その詩の示すところは 読んで字の如しであるが、いまの私にはこう響いている
 
 新たな生命の目覚めの朝(生) 
 今立ち昇る朝日の大いなる霊光(大日如来)を仰ぎ
 本不生の新たなるかけがえのない一日の躍動に尽さなん

 夕べには 一日の働きを終えて、たとえ、未熟なたりといえども、二度とない人生(死)と諦観 (内観)し、あの圓明なる月の如く円満なる心もって、穏やかに、かけがえのない一日の巡り合い に感謝しつつ本不生の床につく。

 一年一生 一日一生 刻々本不生 日々新たなり

 どうぞ、この一年が みなさまにとって 心豊かなかけがえのない一年でありますように
                           合掌
 萬歳楽山人 龍雲好久



遍照と一者
 前回は現代科学における万物の理論というものを門外漢でありながら、取り上げたのは、物理 学や数学、天文学における最先端の理論が、ブッダ(釈迦牟尼佛)親説の「阿字本不生」に 迫るのではないかという、小生にとってきわめて興味深いものがあったからである。 そこで問わ れていたのは単なる現象の枠内だけの経験的科学だけでは解明できない大宇宙・大自然界の 不可思議なる現象に直面した科学者たちの生涯をかけた探究の真摯な姿が繰り広げられてい たからであった。

 彼らの、これらの難題は自然科学的に必ず解明できるはずだという探求することそのものへの 篤い思いがあったが、
 それはまた、神学者や宗教者にとっては、神への挑戦といった由々しき問題で、まさに神を冒 涜する人間の傲慢さほかならないと激しく危惧せざるを得なかった。そして、現代は産業革命や エネルギー革命、情報革命としょうして、たえず侵略と戦争を繰り返し、地球存続、生命の存 続を最も危険な状態にさらしている。これこそが愚かな人類が自らを滅ぼしかねない証拠ではな いかと警鐘を鳴らし続ける。

 だが、しかし、産業革命以来、こうした宗教と科学は真理をめぐって激しく対立してきたかのよう に言われるが、よくよく注意してみると宗教は科学による文明の利器をえて、逆に、より強固な世 界侵略の道具として利用してきたのではないだろうか。

 まさしく、人類の精神構造の愚劣さにメスを入れなければ、狂信盲信する精神的異常性を持 つものに、科学によって生み出された核爆弾という凶器をもたせる危うい現実が絶えず人類を 震撼させ続けている。彼らには、必ず、宗教やイデオロギーや信仰などといった自分に好都合 な大義名分が見え隠れしているのである。
 ここまで来ても、人類は自らの精神構造の愚劣さに気づかないものなのであろうか?
それとも、そのようなことは当たり前の人類の性で、今更、指摘されなくてもわかりきった、それでい てどうすることも出来なかったことじゃないか。ただ、それに対応して生き残る智恵を考えねばなら ないとでもいうのであろうか?

 だが、それでは、人類の滅びかねない絶望的なまでの悲痛な叫びに目をつむること、即ち、自 己欺瞞にほかならない。嘆きや悲しみに麻痺し、他人ごとにする自己欺瞞に陥った精神の末 路は、孤独と崩壊である。
 個人的にも集団的にも、社会的にも国家的にも、地球規模的にも、人間が関わるあらゆる分 野で、この「自己欺瞞」による争いと破壊の火種を取り、滅亡の種をまき散らしている。
 自己欺瞞と言うのは「自分自身を欺く」ということなのであるが、その、自己欺瞞の最たるもの が自己逃避のための何らかの盲信・狂信であろう。「自分に自信のないものほど、経験や人の 教えに自分を超えた力と価値を見出し、それによって、ダメなものが、社会が、世界がマシなも のとなっていくと信じていく」が、ダメなものからマシなものへというなんでもない当たり前の指向性 の奥に巧妙な自己欺瞞が潜んでいる。それに気づくものは少ない。

 どうだろう、大義名分や信条・モラル、あるべき姿、目標・・・・が、平和で安らぎに満ちた、人 類一人一人がいきいきとした世界を導き出せたであろうか。いや、そういった旗を振り号令をかけ る大義名分が今日までの人類の歴史の中で何をしでかしてきたか、それはあまりにも歴然として いるのではないか。
 こうした欺瞞性こそが、今日の不平等な社会を増長してきた張本人である。自信のないもの、 自信に満ち溢れたもの、不幸なもの、幸せなもの、差別するもの、虐げられるもの、貧しいもの、 富めるもの、成功するもの、敗退するもの・・・と、これらの人類の病的なまでの自我が自己の内 部においても、家庭においても、地域社会においても、学校や職場においても、グループや組織 集団においても、国家においても民族においてもたえず侵略と侵害の渦を巻いた戦いを繰り返し ている。

 いったい、「誰」がそんなわかりきった愚かしい世界を展開しているとでもいうのだろうか。他者だ ろうか。しかし、他者を意識する限り、自他の戦い必然である。そこには自己の利権が優先さ れ、それを侵害するものや異端な者を倒し、変え、変革や革命するによって、自己の望む世界 を拡大しようとして、血みどろの戦いを堂巡りに繰り返す。徒党を組んで、権力を笠に着て突き 進もうとする背景には「ひとり」の人間の脆弱性があるのではないだろうか。「自分」ほど力がなく、 何ほどのことも出来ない。自分じゃなく、そういった無力な自分たちを束ねて強靭にする何かを得 て確信することが必要だという。まさにこれが自己欺瞞に陥るところの当のものである。

 実は、筆者がここで繰り返し取り上げようとする自己欺瞞の問題は、この「自分とは何か」とい う自己意識を持つ「全てのもの」への問いがあるからである。もちろん、ここで問題にしているのは 「自分とは何か」という観念や認識論のたぐいではない。
 まさしく、「いま、ここで、見る」もののことである。そこでは「見る」こと以外には無く、「誰が」という 認識の主体を論ずることはない。なぜなら、見ることを通して、脳や感覚や記憶に蓄積された経 験は確かに「自我」を形成し、一一の存在の主体性
を形成するのであるが、その経験や認識による主体性こそがが「あるがままに見る」ことを妨げ、 条件付け、色を付け、差別を生み、分離と争いの根拠となる自己欺瞞にほかならないと見抜く 者にとって、「あるがままに見る」とは認識の経験主体によって見るのではないということを理解し ている。
 では、認識の主体性無く見ることは可能であるのか。「見る」が先であり、「認識や経験」が後 だということがはたして可能だということか。認識の個別の主体性がない、即ち、自分がないこと で見ることは、そもそも「見る」ということを成り立たしめるのであろうか。それとも、個別の認識の主 体無く「見る」があるとすれば、それは誰か?

 ここからが重要な事である。認識の主体である自己中心性は「そこからここへ」という「時間と 空間」を幻想する。そうでないと、瞬々に現れるものを認識できない。「いつ、誰が、何処で、ど のように」という認識による経験に依らなければ世界を把握できないと考えているが、しかし、その 動きは常にゴテゴテである。いちぶ、経験により予測し得ることは可能だが、予測にすぎない。つ まり、ブッダがいうように、映しだされたものは、過ぎ去り終わってしまったものの記憶、残像にすぎ ない。それを実体視して、あたかもそれが現実に在ると認識していること自体が幻想、虚妄を生 む自己欺瞞のはじまりなのである。だが、それを外した「見る」ものとは一体何か。
 これを理解するヒントが「いま、ここ」なのである。マクロな大宇宙やミクロなヒッグズ粒子に至るま で、それはたえず「いま、ここ」であり、「いま、ここ」には、実は「時間や空間」の条件付けは働いて いない。一人の人間にとってどんなに遥か彼方の無限の大宇宙の果であろうとも、あるいはど んなに測りがたい微小な超微粒子の世界であろうとも、ひとりの人間と同時に「いま、ここ」なので ある。
 「私」がここから歩いて10分かかる「駅」、私を中心にしては10分後のいまの駅にしか立てない が、では、その10分の後に駅が出現するのではなく、たえず、歩いている私いかんに依らず、駅 は「いま、ここ」であることに変わりはない。駅に向かっている私は、次の瞬間、暴走した車にはね られているかもしれないし、駅はタバコの火の不始末で燃えているかもしれない。全ては「いま、こ こ」に瞬間としてたえず新しく顕れている。では、その「いま、ここ」ものは単に瞬間瞬間のなんの因 果とも無関係な、個々別々の全く時間や空間に無関係なバラバラの事象にすぎないのであろう か。因果を言うなら、原因と結果の無の連鎖、そこにはなんの絶対もなく、因果応報、相互依 存性の単なる無機質な連鎖という虚妄なる「空」の無神論論に陥るか、極大や極微の万物を 生み出し、大宇宙を統べる絶対なる「神」という因果を支配し超越する唯一絶対者の一神論 に陥るか。しかし、いづれも自己欺瞞がつくりだした理論にすぎない。大きな過ちの始まりなのであ る。

 そこで再び問う。「いま、ここで見るものとは誰か」。
 (さあ、紙面に限りがあるから、急ぎ語ろう。)それは「全一」なる「一者」であり、その「一者」とは 「二のない一」であり、それを見ることも知ることも、覚ることも至ることも出来ない。なぜなら「全て は一者」に他ならず、見る者自身であるからにほかならないからである。眼は眼そのものを見るこ とが出来ないように、刀は刀自身を切ることが出来ないように、「一者」は「一者」自身を見ること はない。では、「いま ここで 見る」のは誰か。見られているものとは何か。見られるものは虚妄、 見るものは「一者」にほかならない。 

 人間に限らず、あらゆる生命は一つ一つの独自性を輝かせている。こ独自性の要にあるもの が、「われ」や「自己」とい感受性や相の要となる「一者」自身である。 この森羅万象一切の 万生万物に遍在する自己の感覚としての「一者」である。
 それは自己感覚として働いているが、個々別々の孤立的自己感覚ではなく、全てに通ずる 自己感覚である。孤立無援の孤独な自己感覚ではなく、全体の「一者」に通じ、しかも、自立 自尊の「一者」である。森羅万象、万性万物、個々のものは、すべて「独りあるものとしての一者 の全き存在」であると同時に「全体」である。

 ということは「どんな顕現も一者として完全である」というこである。「素粒子」であろうが「原子」 であろうが「分子」であろうが「鉱物」であろうが「植物」であろうが、「動物」であろうが、「魂」の意 識体である「エーテル体」「メンタル体」「アストラル体」「コザール体」「ブッデイ体」であろうが、 「一者」として完全に独り立つものして顕現している。それ故にこそ全ては顕現しうるということであ る。
 
 全ては「一者」から「生み出されたもの」であり、「一者」は絶えず生み出し続けるものであるとい うのは虚妄にすぎない。生み出されたものは、ブッダが示されたように絶えず留まることなく消失す ることで更新されるものである。時空に留まるものは断片化された抜け殻であり、虚妄に過ぎな い。
 だが、小さな虚妄なる我々にとって、宇宙がいかに広大無辺なものであろうとも、「全てがいま」 なのである。たとえ何億光年先にしかたどりるけない遙か彼方の宇宙であろうと、「常にいま」で ある。なぜなら全ては「二のない一」即ち「一者」である。
 「一者」は全てに同時にいま顕れ更新し続けるものである。
 この阿字本不生の「普遍」である全てに顕現し続ける「一者」こそ「見る」ものにほかならない。
 嘆きも悲しみも喜びも「一者」なるが故であり、それをあるがままに見ることにこそ「普遍の一者」 が在り、そこから不生の仏心一如も自らの行為が生まれる。
 自己をもって現実を直視することこそが光明であり、一切が「自身の光」であることこそが真の 宗教的行為である。
 


           
       b 萬歳楽山人   龍雲好久


意識革命
 そもそも、今から2500有余年前に、インドの地でお釈迦様(ゴーダマシッタルダ釈迦牟尼佛)の 説示さようとされたものは、人類が長い進化の過程で陥っていた虚妄の法、すなわち人類がハ マってしまった、政治・経済・文化・宗教などにおける認知上の迷妄を打破するための挑戦であ ったのかもしれない。



 ブッダはこう説かれていた。「人々はわがものと執着したもので悲しむ。自分の持っているものは 実に常住でないからである。これは必ず失われる性質のものである。とわかったあとは、在家にと どまていてはならない。」
 「わがものと執着する」のは、例えば目の前のそれを、「わがもの」と認識し、外に在る実体とみ なしているのであるが、この判断は知覚が意識した「静止像」を、記憶している「静止像」由来の 形態観念に照合して外界にある「わがもの」と思っているだけであり、実際は想起された形態観 念どおりの実体が外に在るのではない。目の前に知覚されている「静止像」を、想起された観念 どおり「わがもの」と認識するフィクション(虚妄の法)を真に受けるのではなく、その知覚原因とし て外界に〈経過〉する実態を「常住でなく、必ず失われる性質のものである」と判ったら出家する のがよいということである。

「わがもの」として執着の対象となっている事物は、「実相」では「実に常住でなく」、「失われる性 質のものである」とされる。「常住でない」とは「静止して存在するのではない」、「〈今〉変動しつつ ある」という意味である。さらに「失われる性質のもの」とは、「停滞なく、経過して(〈今〉のその変 動が)消失する」、つまり、「過去になる」という意味である。

 このことは、同じ在り方が知覚されることはなく、今、外界に知覚されたものは、太初以来一回 だけ経過して消失する性質のものである。
 われわれの知覚の原因になっている外界は、経過して《消失しつつある〈今〉の〈変動〉であ る》から実は常に「捕捉される静止的事物」がない。これが、ブッダの示された〈空性〉であっ た。ブッダは世界が〈空性〉であることを心から認識するために出家するがよいと勧めていたので ある。


 さて、読者諸氏のなかには、NHKのクローズアップ現代で取り上げられていたのでイスラエルの 歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏著サピエンス全史』(上下巻)をご存じの方も多いであろう。
 この本は、135億年前から現代及び未来に至るまで歴史年表上、人類250万年の歴史を4 っつのターニングポイント(1,認知革命。2,農業革命。3,人類の統一。4、科学革命)を挙げ て、全く新しい切り口で解釈している。(興味のある人は、直接、原著・翻訳本にあたってほし い)

 その独特の切り口は誠に斬新で驚異的でさえあるが、妥当性が高い。
 先ず、認知革命。これは、今から、およそ7万年前。われわれの祖先、ホモ・サピエンスが生き 残れたのは、認知革命にあった。
当時、より力が強い、ネアンデルタール人という別の種族もいましたが、生き残ったのはホモ・サ ピエンス。ネアンデルタール人は、リンゴなど、実際に見えるものしか、言葉にして周りに伝えられ なかったが、ホモ・サピエンスは、神様のようなフィクションを想像し、それを全く見知らぬ他人に 伝えることができたという。。

 まさしく、フィクションを想像し、みんながそれを信じる。そのことで多くの仲間と協力し、大集団で の作
業が可能になった。これが人類の最初のターニングポイント、認知革命により、われわれの祖先 が集団で大きな力を発揮し、地球上の覇者になった。

 しかし、ユヴァル・ノア・ハラリは「文明の発展が人間を幸せにするとは限らない」と指摘。
 例えば、およそ1万2,000年前に始まった、農業革命。これは、集団で力を合わせて小麦を 栽培することで、食料の安定確保ができ、人口が増加。社会は大きく発展したというのが、通 説だが・・・。
 しかし、集団としては発展したけれど、人間一人一人は、狩猟採集時代より働く時間が長くな り、不幸になる人が増えた。しかも、貧富の差まで生まれたという。
 ここで彼の驚くべき指摘は、"食糧の増加は、よりよい食生活やより長い余暇には結びつかな かった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られ る食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。"

 さらに、特異な指摘は「小麦という植物から見れば、人間を働かせて小麦を増やさせ、生育 範囲を世界中に広げた。つまり農業革命とは、"小麦に人間が家畜化された"とも言えると指 摘する。

 さらに「実は幸せかどうかを考えるのは、最も大事なことなのだが、歴史を振り返ると、人間は集 団の力や権力を手に入れても、それを、個人の幸せと結びつけるのは得意ではなかった。現代 人は、石器時代より何千倍もの力を手に入れているが、一人ひとりはそれほど幸せには見えな い。」
 "2014年の経済のパイは、1500年のものよりはるかに大きいが、その分配はあまりに不公平 で、アフリカの農民やインドネシアの労働者が一日身を粉にして働いても、手にする食料は、50 0年前の祖先よりも少ない。
人類とグローバル経済は発展し続けるだろうが、さらに多くの人々が飢えと貧困にあえぎながら 生きていくことになるかもしれない。"

 この問題は会社やお金だけでなく、宗教や法律国家もそうである。これらは全て、人間が生み 出したフィクション。それをみんなが信じることで人間は発展してきたけれど、人間一人一人は、 狩猟採集時代より働く時間が長くなり、不幸になる人がえた。しかも、貧富の差や人種差別まで 生まれた。 資本主義は、いま、限界に来ているかという質問には、「資本主義は近代で最もう まくいった考え方で、宗教とさえいえる。
でも、そのために大規模な経済破たんや政治的な問題も起きている。いま、たった一つの解決 策は全く新しいイノベーションを起こすことだと思う。今の資本主義や貨幣経済に代わる新しい 概念というもの、みんなで抱えることができる共同のフィクション。
単なるフィクションではなく、共同で持てるフィクションを作る必要がある。」

 「サピエンス全史」はわれわれの未来を展望し、人間の能力をはるかに超えたコンピューター の登場。遺伝子を思いのままに操作した、デザイナーベイビーの可能性など、科学技術の進歩 で人間を取り巻く環境は、急速に変化している。
 未来のテクノロジーの持つ真の可能性は、乗り物や武器だけではなく、感情や欲望も含め て、ホモ・サピエンスそのものを変えることなのだ。
 おそらく未来の世界の支配者は、ネアンデルタール人から私たちがかけ離れている以上に、 私たちとは違った存在になるだろう。」"

 「今後1、2世紀のうちに人類は姿を消すと思う。でもそれは、人間が絶滅するということではな く、
バイオテクノロジーや人口知能で、人間の体や脳や心のあり方が変わるだろう。ということ。そうし た将
来の人間、超ホモ・サピエンスはこの先、人間は自分たちが作った科学にのみ込まれてしまうの か。
それとも、うまくコントロールできるのか。その、未来を切り開く鍵は、私たち人間が欲望をコントロ ールで
きるかどうかだ」と説いている。
 
 この、『サピエンス全史』に触れて、痛感するのは、ブッダが最も厳しく挑戦されたのは、人類
ホモ・サピエンスとして進化するプロセス上、必然的に拡大せざるを得ないフィクションへの依存 性が飽くことなき欲望のおける欺瞞性であったのかもしれないということだ。
 しかし、残念ながら、仏教の歴史もまた、サピエンス全史が指摘するホモ・サピエンスと
超ホモ・サピエンスの延長線上にあり、冒頭に掲げたブッダの説示は、難解だと一笑に付し、 自己の教派の布教拡大こそが、人類の未来を展望すると信じてやまない。
 ブッダの親説は『ホモ・サピエンスの空性における意識革命』なくして、超ホモ・サピエンスの新 生創造は怒らないとおっしゃっておられるような気がしてならない。
                                           萬歳楽山人 龍雲 好久


大地のぬくもり
 朝晩めっきり寒くなってきて、あれほど暑かった日々が遠い過去のように思われる。
 しかし、咲き残るコスモスの花がひとつふたつ、微風に揺れるように、まだ、草木や土にぬくもり が漂う。
 野良仕事も、収穫を終えて、一段落なのだろうか、何かしら安堵した優しい土の香が心地よ い。思わず、ありがとうと、土いじりをしたこともないものでも、土に触れて感謝する。
 霊山の雲の合間から、一条の朝日が差してきて、広く、深く、森を林を田畑を家々を町並み を、紅玻璃色の深く優しい黄金色の光に包み込みつつ、くっきりとした陰影を映しだす。
 その光は、どこか、懐かしいてしようがない。この懐かしさは一体なんなのだろうと、しばし心を留 める。すると、それは、朝まだき光ではあったが、夕日にも似て、夕餉の支度、風呂を沸かす薪 の煙り、薄暗くなるまで遊びにふける自分を「ご飯だよ」と呼ぶ声を思わせる。一瞬にして母なるも のを甦らせるこの思いはなんなのであろう。
 確かに、この世で生きることは実に容易ならざることである。誰しもが、人生の絶えざる挑戦に 晒されながら、自分を保持すべく躍起になって生きてきた。世間という環境は否応なしに、食うか 食われるか試練に晒す。正直な人生を生きるものも、不正直な人生を生きるものも。何処かでい つも戦い、挑み続けている。自分はたえず詭弁を浪し、平気で嘘をつき、おめおめと生きてただ けに、四面楚歌に陥り、孤独である。
その孤独と虚ろな自分への恐怖に耐えられず、大義の中に身を移し、絶えずおしゃべりと噂話と 自己主張を繰り返す人生。それでも、自分は自分だと、これまで、孤軍奮闘してきたものの、ふ と、この、夕日にもひた朝日にあって、一瞬、我に返ったように、「ただいま」と我が家に帰ってい た、子供が甦る。あの、なんの不安もなく、まっすぐに生きてきた自分が懐かしい。天真爛漫で一 点の曇もなく、ひたむきだったほんの僅かな一瞬。それが、やがて、他者との関わりがますにつれ て、臆病で、小心で、ひと目を気にし、まるで、自分を殺すかのような偽りに満ちた人生にどっぷ り浸かってまま、すっかり忘れていた、感情がいまによぎった。

 この何処か懐かしい陽光の中で、しばし、佇んでいると、ふと、自分はいったいなにをしてきて いるというのかという問があらわれた。それは、責めるというものでもなく、問いただすというものでも なく、裁きにかけるというものでもないものであった。

 しかし、この光にあって湧き上がるこの感情は、単に、欺瞞の人生に疲れたものが、すべてを 放棄して、我が家に帰りたいだけのノスタルジア、あるいは、自己逃避であるのだろうか。
 確かに、誰しも、自分の人生の居場所必要だ。だが、どんなに居心地か良かろうが悪かろう が、たとえ、容赦ない呵責と叱責の中で放浪していようと、休む間もない過酷な戦闘状態にお かれようと、いつかは、死が、すべてを終わらせてくれる。生きることに辟易し、休みたい。もうこん な偽りに満ちた人生を終わりにして自由になりたいのが本音なのだろうか。

 そういえば、生きながらえればながらえるほど罪業ばかりが積もる人生をおめおめと生きていてな んの意味があるのであろう。このまま、生きていてよいのだろうか。そんな思いが湧いてくるが、死 ぬこともできない自分に諦めに似たため息がこぼれる。

 すると、先程まであたりを照らしていた紅玻璃色の光が自分にさしてきて、優しく、しかも、威厳 に満ちた響きとなって、返ってきた。

 君のいのちは、昨日・今日・明日と生きる君の思い(自我)の中にはないのだよ。君がたとえど んな人生を辿ってきたにせよ。それはすでに終わっている。
 君は自分が、この世に生まれ、育ち、成長し、やがて、老い衰え、死にゆくものと見ているが、 それは自分があるからであり、本当は、あると信じている自分は、そこには無いのだよ。

 君は、昨日の自分が、今生きており、明日に生きる自分だと見ている、だが、それは、脳や記 憶が形成している自己感覚からくるもので、脳が死滅すれば消えてしまう自己感覚でしかない。 それが生まれれば有り、それが失われれば無くなるという、
 「それ」は脳や記憶による反応で、実体ではない。本当の自分はそれではない。

 君は大宇宙・大自然界の壮大な天地創造の進化が過去・現在・未来の壮大なプロセスを 経て、大宇宙・大自然界の営みによってもたらされているのが自分だと見ている。なるほど、そ れは確かな事実であろう。だが、そう見ている自分というものは、何であろうか。脳や記憶や概 念、経験により自己形成化された虚構の自分にすぎないのではないか。

 しかし、現実の自分は何かといえば、先験(まだ現れざるところ)より、今に経過し、消失するも のであるから、経験され、蓄積された自己感覚は現実のものではなく、カンバスに描き出された 仮想現実を実体視する虚構の自分である事に気づくことができるだろうか。なぜなら、それは実 に単純明快な事実に基づいている。すなわち、君は、記憶や思いや想像を以て過去を振り返 ったり、未来を思い描くことは可能であっても、では、「今」という一瞬を一秒たりとも前に戻すこと はできないし、過去に身をおくこともできない。また、m今より一秒たりとも先に、すなわち未来に身 をおくこともできないのが事実である。SFや漫画や理論上は過去・現在・未来を自由に往来でき ても、それは仮説でしかなく、時間の歴時性(先験より今に経過し消失する過去)を逸脱すること は事実としてできない。これは実相においては時間が成り立たないことを如実に示しており、それ を真如といい、如来という。それが実相ならば、当然、空間も成り立たないのが実相である。そ れが、空間として成り立っているように見ているのは、物資を実体視しそれ依存しているからであ る。

 いま、瞬間に現れた自分を脳や記憶に蓄積し、それを、絶えず、先験より今に経過し消失し 続ける実相を、記憶に留めつつ、今を繰り返し録画し続けることで、外界に重ね合わせる。そし て、あたかも外界に実体があり、それらが時間と空間を経て生きていると捉えているのだが、錯 覚であるとも思わない。
 だが、録画された映像は過去のもので、今の現実ではないと誰しもがわかるように、いかに、脳 内や記憶において繰り返し過去を再現したとしても、時間そのものを過去に戻すことも、未来に 移すこともできない。映像や音源といえども、記録されたものの改変や編集は行われても、決し て、移した瞬間の今をもう一度時間を遡って、録画を取り直すことは、決してできない。
 
 生々流転の森羅万象を実体視しているのは脳や記憶や概念上の自己感覚によるのだが、 実体とするから、生々流転の進化のプロセスを実体における変化のプロセスと見てしまう。それ がものに執着するもととなる。あたかも、自分という実体が、この世に生まれ、育ち、死に逝き、無 になるとみて、更に、死後の世界における自己の実体を仮想する。しかし、あの世やこの世を実 体視しているものとは、一体、誰か。

 このように、君が実体として見ているものはなにひとつ実相ではないのだよ。

 では、実相とは何か。何度も示すように、先験より今に経過し消失し続けるということ。すなわち 刻々に生まれ、刻々に死んでいく実相は大宇宙体であろうと大自然界であろうと、この世であ ろうとあの世であろうと、時空によって実体化されたものの生滅を言うのではなく、すべては瞬瞬に 全く新しいいのちが、先験より今に経過し消失し続けている事実を実相というのだ。

 ということは、今君が自分は生老病死、変化変滅を繰り返している実体の自分の変化だと見 ているが、それは虚妄の自分を見ているに過ぎない。事実は仮想の変化変滅の中に吹き込ま れる全く新しいいのちとしての実相にある。本当の君は今この瞬間に、全く新し創造性から、 刻々にもたらされ続ける刻々に全く新しい君なのである。過去にも未来にもまったくなかった全く 新しい君であるのだよ。実相としての今の君は一秒前の生き残りでもなければ、一秒後に消えて しまう君ではなく、刻に全く新しい君が刻々の今に経過しているのだ。それはいかに広大無辺な 大宇宙であろうと、また大自然界であろうと、君以外のあらゆるいのちが君と同じく過去に一度 も出現したことのない、全く新たな創造としてもたらされているであり、それ故にすべては全く新し
い現れであろ。過去を引きずっているのは君の脳であり、記憶にすぎない。
 君がこの紅玻璃色に輝き出す朝日にあって、ふと、なんとも言えぬ安らぎを覚える
のも、実は、君自身をもたらすものの先験なる実相がまさしく万物に遍満している創
造の母であり、慈しみであり愛であるからなのだよ。

 ここまで来て、ふと、見上げれば、なんと高い青空、そして、突然、かまびすしく騒ぎ立てる小鳥 たちの鳴き声。野外活動に並び歩く嬉々とした子どもたちの声が遠く聞こえる。
 この深まりゆく秋の気配の、ああ、なんと広く、高く、かすかなのであろうか。どこまでもつつみこむ 閑けき大地の景色。あたかも、あの激しかった急流がすべての活動を終えなんと、ゆったり、深 く、全き静けき大川となりて、大海原に環えらんとする、がの水底の不可思議なる静けさが、なお 一層の、秋の深まりを感じさせる。
  


                                             龍雲好久


自然
台風による甚大な災害が東北や北海道に及ぶことは昔はあまりなかったように思うのだが、今 年は複雑怪奇な台風の動きに直接さらされている。やはり、報道によると地球温暖化によるメガ クライシスに突入しているのだろうか。
 そういえば、環境汚染の問題が取り上げ始められたのはいつの頃だったろうか。鮮烈に印象 に残ってたのは確か物理学者フリッチョフ・カプラ博士の『ターニング・ポイント』が世界に大きな センセーションを巻き起こしていた頃だったように思う。この頃は、一部の物理学者や数学者の 間で、物理学の最先端の研究は、いよいよ神(不可知)の領域に入っていると噂され、多くの 天才科学者が東洋思想にそのヒントを見出そうとして、世間が驚いていた。そそて、そこから導 かれるのは、どうも不可知の中にあるものは混沌ではなく、神の意思、ビッグサークルなる大宇宙 の調和の法則が流れており、それを無視した文明は自滅せざるを得ないと気づいた自然科学 者たちが、これまでの独善的文明による自然破壊は、人類に大きな禍根を残すであろうと警鐘 を鳴らしつつあった。しかし、その頃はそのような警鐘を鳴らすのは、科学者のほんの一部の見解 として、たいていはまともには取り扱われなかった。その頃のことなのだが、用事があって上京し、 都内を歩いていた折りに、駅構内の一角で「環境汚染の問題考えるコーナー}があって、大き なスクーリーンに「これ以上自然破壊がすすむと地球はどうなるか。自然界はどう変わり、あらゆ る生命体にとって、いかに深刻な影響を与えるか」というオゾン層破壊による地球温暖化につ いて、かなり詳しく、しかもかなりの危機感を持って報じられているのを目撃したことがあった。
 しかし、この時は、雑踏の中、誰ひとりとして、その画面に目をやるものはなく、ただ、多くの人々 が行き交うだけであった。
 それが、とうとう、今日、メガ・クライシスとして、現実のものとなってきたのである。世界各国がこ の問題で真剣に話し合うようになったのは、かなり状況か深刻化してからのことであるが、あの 時、放映スタッフの一人は「ときすでに遅し!」とかなり絶望的な物言いをしていたが、確かに、 ここ数年来の異常気象と自然災害は日増しに深刻になり、しかも、何もかもが未曾有のあるい は観測以来初めてという異常さである。やはり、ときすでに遅しで、自然回復力の限界を当に過 ぎているというのだろうか。
 日進月歩の科学は、その破壊の猛威と脅威に歯止めがかからず、しかも、ことここに至っても 人類の欲望の傲慢な相剋から抜け出せない現状から、未来の状況は、まさに、メガクライシス すなわち滅亡の危機と呼んでいる。
 確かに、地球存亡の危機にあって、互いに利権を主張しているときではなく、人類の英知を結 集してこの危機を乗り越えていくべきだということは、誰しも思うことなのであるが、世界の様相は、 実に覇権や利権の争奪に明け暮れている。人類はどうなっていくのだろうか。大地が崩れてい るというのに・・・・
 果たして、煮えたぎる地球にあっても、生命が続く限り、生き残れるべくを叡智を結集し続けうる のであろうか。
 環境を破壊し、生命存続の危機をもたらしているものは、皮肉なことに産業革命以来、繁栄 と裕福と権利を追求してきた結果であった。拡大し続ける飽くことなき人類の欲望による暴力的 搾取のメカニズムを常に大きく増幅させるものは科学であった。人類や国家の野望に科学が組 み込まれ、民族や国の存続をかけた戦争と破壊を繰り返し、大量破壊・大量虐殺へとエスカ レートする。さすがにこれでは自分の存続すら危ぶまれると気づいたのは、すでに人類が核爆弾 を投下してしまっあまりの惨状を目撃してからだが、しかし、抑止力と称して核所有国は増え、開 発がどんどん進んでおり、かのアメリカのオバマ大統領の「核兵器の先行使用は行わない」とす る宣言も取り下げざるを得なかったようだ。
 飽くことなき人類の欲望は、がん細胞のように自然を蝕み、破壊してきた。
 そのつけはすでに回ってきており、地球生命の存続が危ぶまれているときに、何を得ようと人間 同士が争うのであろうか。
 地球自体はその大自然界を通じて、ずっと悲痛な叫びを発し続けていたであろう。地球におけ る豊かな自然界の循環システムが破壊され、地球自身の自然治癒能力の限界を超えてしまっ て、悪循環が始まっている。
 しかし、とはいえ、人々や自然現象を通じて、先験的に人類の意識の変容を促すビジョンや 啓示、現象や秘蹟などが示されてきたのは、どういうことなのだろうか。そもそもそういったことは幻 想・妄想、誤認のたぐいで、単に唯物的因果応報による自滅のパターンを辿っているだけなの であろうか。
 しかし、地球上に生息している生き物は、この現象世界のなかで、原因と結果、相互依存の 因果応報のカルマの法則を無視することはできないから、人類の所業が悪ければ必然的に、 自業自得の滅亡の一途をたどるものかもしれない。
 だが、それでは、我々はただ手をこまねいているしかないのだろうか。このメガクライシスかた立ち 上がることなど土台無理な話なのだろうか。そうではないと思わざるをえないビジョンを目の当たり にして、こうして、ペンをとり、繰り返し、そのことを訴えている。
 そのビジョンはいずれもフイなことではあったが、二度体験している。一度目は十数年前に萬歳 楽山山頂に初めて立ったとき。二度目は三年前の事だった。
 「突然、眼前に、真っ暗な虚空が広がり、そこにぽっかり浮かぶ球体が顕れた。それは実に美 しい瑠璃色の輝きをした球体であった。まるで、地球のようであった。やがて、その瑠璃色の球体 に雲海がたなびき、球体を覆っていた。その雲海の合間で稲妻の閃光が走っていた。しばらくす ると、球体の中心から、閃光が放射状に四方に伸び、それはあらゆるものを貫き通す強い光で あった。が、決して眩しいものではなく、やわらかな光であった。その一条の金色のはやがて、緑 がかった龍体に変化し、球体の中心から放射する光にそって8の字描くように放射帯に添う無 数の光の束でもあった。ちょど、密教の宝具の五鈷杵のように輝いている。その五鈷杵のような 光の真ん中に瑠璃色の球体があるように見える。その流動的光は縦横無尽に流れている巨大 なエネルギーのようではあったが、五鈷杵のようなたを圧倒するものではなく、本源のエルギのこん こんと湧きいづるように見えた。やがて、その瑠璃色球体からまっすぐに伸びる一筋の光が小生 の頭上から入ってきて小生の全身をめぐり、小生の中心から瑠璃色の球体の中心に向かうの で、その光についていくと、球体の芯にちかづくに連れ、紅色の蓮の花に変わり、その蓮台に水 晶球があらわれ、それはやはり芯のほうから神々しい光、夕日のようなやわらかなどこか懐かしい 気のする、輝ける水晶のような球体となり、更に近づくと、なんとその中心に宝冠をかぶった如 来、すなわち大日如来が顯れ、全くのやわらかな光に満ちており、大日如来の御手は根本の 印から法界定印を結び、そして彌陀の定印を結ばれて変動し、そこで固定されたかのように変 化が止まった。それ以上進めないので自分もとどまっていたが、やがてその如来の足元に光が 導かれ、その光とともに如来の体内に侵入した途端!突然、森羅万象、万生万物の芯の一 切にその阿弥陀の定印を結ぶ大日如来の顕れであり、個個は単なる部品ではなく、全ては一 者そのもの、すなわち不生の仏心がであることを了得した。」
 これは、まさに、「真如」なる「不生の源流」がこんこんと湧きい出て、森羅万象の「仏心=一 者」として刻々に精進すべきとを伝えており、それが、人類の意識を変容し、地球生命のありよう を創発せしむるものだということにほかならない。先験より今に経過し消失し続ける実相にこそ生 命は常に新たなる源流の創発となる。過去となって死滅した物質や妄想に固着せず、我々 が、「親より賜った不生の仏心ただひとつで生きてこそ、メガクライシスは止む。」という如来の響き であった。
 本堂で一人本尊に向かい、このようなことを思っていると、本堂の縁側ではコオロギがいまこ の時を必死に鳴いている音が、圧倒的な美を持以って、全山に響き渡っている。


                                    龍雲好久


自己を見つめる
 今年は正月早々、内観者のお世話をすることになった。この内観というのは、種々あるが、こ こでは大和郡山の吉本伊信という浄土真宗の僧によって創案され普及されたものによってお世 話させていただいた。この内観は一般にかなり普及されたもので今日では、様々な宗教関係者 の内観。精神医療関係者の内観療法。学校関係者の内観。受刑者を扱う刑務所における 内観。企業の社員内観など様々な方面で活用され、世界中で行こなわれている。各界の専 門の研究者や内観研修所主催者による内観学会は世界的にも権威がある。
 内観は三尺四方の衝立(法坐という)の中で、ひたすら自分自身と向き合う。
1、世話になったこと。2、返したこと。3、迷惑をかけたことを自己を見つめる鍬として、父母を始 め縁のあった人々に対し、ひとりひとりの人間関係を、0歳から今日まで年齢を区切って、自分 がどのようなものであったかを繰り返し振り返る。
二時間おきの面接で面接者に自分が調べた一部を披瀝する。一日およそ15時間半、7日か ら8日かけて集中的に自己を見つめる。これまでの縁のあった方々に対する自分をひと通り調 べるには、どうしても一週間は必要であるからである。そ
れでも、本当に内観になるには5日目頃からで、それまではたいてい内観でなくて外観でしかな い。そのため、最初は「こんな事やっていて果たして何になるのだろう」という強い疑念と拒否感 が伴う。しかも、トイレや入浴以外は全く席を立てないので、身体が慣れるまでイライラし苦痛であ る。朝目覚め夜床についていても、絶えず内観し続ける。無論、外の世界との連絡は一切遮 断する。上記の三つの尺度で自己を見つめること以外は全て禁じられるので、座とか呼吸法と か瞑想法とか密教ヨーガ観法とかいうような特定の宗教儀礼や作法は全て排除されている。
 このため、内観は特定の宗教行為には当たらない普遍的なものだと認められ、世界中に普 及された。
 むしろ、逆に、皮肉なことに、内観道場は宗教施設よりも心身医療関係者や企業家、一般 の内観体験者が医療機関や企業施設、一般住宅を開放して内観の道場をを開設している 事が多い。
 しかし、ではこの内観は宗教的に皮相なのかというと全く逆で、例えば禅の達人であっても、密 教の大阿闍梨であっても、念仏行者であっても、シスターであっても、大教祖であっても、まして 判事であっても、この内観の前には、自らの悪行の限りを自覚せざるを得ずタジタジになる。一切 の仮面が剥ぎ取られるほど深いものである。もちろん、これは、それぞれの信仰や
宗教的経験の深さにもこの内観は応じうるということで、内観にも深さがあり、それはひとえに内 観するもの自身によるということである。
 さて、今回内観をされた方は俳優であり、経営者であり、幾つものセミナーを全国展開し、本も いくつも出版しているという人物であったが、これまで、全く面識はなかった。
 私も、かなり忙しい時期で、この冬は亡くなる方も多く、かなりハードな日々が続いていた。これ では、責任が持てそうもなく、他の道場を紹介しようと思っていたやさき、ある不思議な事がおこ り、受けざるを得なくなってしまった。
 実は、いつもの様に正徳寺の阿彌陀如来の前で端座黙想しているときであった。如来が突 然、語り始められていわれるのには、(この私が本尊として造立された背景には、非常に厳しい 念仏三昧にあった浄土宗の無能が往生して2年目であった。
その恩徳を偲んで造立され阿彌陀如来なのだが、実は、無能上人の行は浄土真宗にも密か に受け継がれていた厳しい念仏行「往生はいかにと問う身調べ」に通じているものである)と。こ れを聞いてはっとした。この阿彌陀如来は私が雑事の忙しさと、ほかの自己凝視のあり方を理 由に、ここ10年ほど開設しなかった内観を開設しなければならないと仰せになられたのか?
しかもその日、法圓寺に戻ると、「吉本伊信先生ご夫妻の写真がひょっこりでてきました」と妻が 私に見せたのである。吉本伊信の内観の原点がこの浄土教に伝えられていた「身調べ」であ る。「身調べ」というのは、今自分が死んで、さて、自分は
彌陀の浄土に行けるものなのか、それとも地獄に真っ逆さまなのか、自分のこれまでの生きざまを 死を賭して厳しく見つめるもので、その為、不眠不休、断食を続けて、念仏を唱え続ける。つまり 往生念仏三昧に入るのである。この世に戻れない死者が浄玻璃の鏡の前に立たされるのであ る。この念仏三昧は、私も真言密教の不動念誦法で陀羅尼を数万遍唱える行をしていて体験 したことがある。或る段階に入ると、自分の一生が走馬灯のように、しかも克明に、自分の眼前 に映し出される。
誰が見ているのか、自分自身の生涯が体内に身ごもるうちからこの世に出生し、今日に至るま であらゆる状況が内面的にも外面的にもそのまま映し出される。それを陀羅尼をとなえつづけな がらずっと内側から観続けていると、突然、両親の御恩ばかりか、すべての関わりが自らを慈し む慈悲の響きとなって全身全霊を包み込み、その慈悲の全きありがたさに感無量となる。それに 引換え、おのれの自身の愚かさに愕然となり、いたたまれなくなる。とうとう、進退窮まってしまう。 が絶望の淵にたったとき初めて如来の慈悲の温もりだけが感ぜられて、感極まる。滂沱たる涙 にむせぶ。
 吉本伊信の内観も、実は、最初の二、三日でこの覚悟が決まる。それまでは、外観(思念的 に自分を見ている)でしかない。今回お世話させていただいた彼は事業家としてかなり成功し、 絶頂にあった(本人が言うのだからそうなのだろうが)。その彼は内観に入って二日目、ひと通り 母に対する内観を終えると、面接時にこういうのである。「はっきり言って、内観はつまらない。ちっ とも面白くない。二時間ごとに自分を調べろといわれても、内観に集中できるのは最初の十分ぐ らい。後は、これからの自分の行動のアイデアばかりが浮かんでくる。肝心の内観は、ただ、頭 の中で内観、内観と回っているだけである。
こんなでは全く無意味である。下山(内観をやめて帰る)したい」というのである。実は、この方は 三日間だけということで内観をしに来たのだが、早くも二日目で、内観に見切りをつけようとして いた。決断と行動がとりえらしい。そこで、「あなたは、明日があると思っているから内観にならな いのではないか?内観は、自分が死んで初めて内観になるのです。その覚悟がなければ、おっ しゃるように無意味です。帰っても良いのですが、どうでしょう?」彼は、それで、再び内観を始め た。限られた時間ではあったが、かなり真剣に内観をした。二時間があっという間であるという。 気づくときは一瞬である。
 ところで、アミー(彌陀)の不可思議が小職の周りに今このようにしきりに示現し続けているのは なぜなのだろうか?終末がくるのであろうか?いや、終末などと言うまでもなく、人は否応なく死な なければならない。その時に、往生はいかにと自らに問うことになる。そのことを如来はお示しにな られたかったのだろう。
 彌陀の内観を始動させる年を迎えた。読者の内観をおすすめしたい。
                             萬歳楽山人 龍雲好久


祈り
 七月に入り、寺はなんとなく慌ただしくなってきた。
境内の庭木や草花の勢いが強く、どんどん伸びてくる。梅雨は未だ開けていないせいか、蒸し 暑い。暑くとも蝉はまだ鳴いていないせいか、妙に静かである。
 なんという鳥なのであろうか、少し大きめの鳥だが、何度も境内にやってきては、しめ縄の白い 垂れをしきりにちぎってどこかへ持っていく。巣作りに余念がないのだろう。いくつものしめ飾りが、 今ではすっかりちぎられてしまった。初めてのことである。
 早朝、本堂で黙想・祈念をこらし、洪鐘を打ち鳴らと、音に反応して小鳥たちがチチチと集ま る。しばらく、読経を共にするが、終わる頃にはどこかへ飛び立ち、また、元の静寂に戻る。葉群 に、陽光が眩しく輝き、木々や葉の影が廊下に揺らぐ。
 それから、四キロほど離れたお堂を巡る。ひっそり佇むこの寺には山門と鐘楼があり、庭木に 花々が咲き乱れる花のみ寺である。遠く山並みを見渡し、のどかな田畑が広がる。
 堂内の戸を開け放つと、近くの果樹の香りともに、五色の幕が揺らめく。香が焚かれる阿弥 陀大仏のお顔には、笑みがこぼれ、朝日に神々しく光輝く。読誦するのは天啓の『本不生大神 咒』。洪鐘を打ち鳴らと、小鳥たちがチチチと集い、しばらく、語り合った末、ぱっといなくなる。こ こは、ゴーッという地鳴りと風を切る新幹線やカタコトと渡る東北線が直ぐ側を走る。そのたびに お堂が揺れ、西の丘の方には高速道路が走る。
しかし、如来の不生の沈黙性はシンとして微動だにせず、そこに現れ続けている。圧倒的な沈 黙の深みをもってこれら全てを包み込み、深く浸透している。
 こうした中で、しばし、平安を祈る機会を得てからというもの、心なしか、地震が収まりつつあるよ うな気がして、しばらく欠かすことができない緊張感の元、朝な夕な、災害からの復興を念じ、黙 想せざるをえないでいる。
 ある日のこと、鐘楼に登り、夕べの鐘を突きつつ、萬歳楽山に安寧の祈りを捧げていると、被 災地慰問を終えられた天皇陛下ご夫妻のお乗りのなられた新幹線が側をお通りになった。それ を気づかせたのは高架橋の橋下を巡回し、待機しているパトカーの赤色灯であった。祈りを終え るとパトカーも役割を終えたのであろう、静かに立ち去った。
 これで確信した。巨大震災から陛下のおられる東京は護られており、日本は沈没することはな いことを・・・。なぜなら、萬歳楽山は天皇を護る霊山とされて、その名を冠せられているという天 啓が降りているからである。(中国の故事にも由来している)
 天与の『本不生大神咒』の黙祷。いま、これを欠かすことができないというのに、この愚僧のせ いか、誰もまともに本気に扱うものはない。みな世俗のことにかまけた復興に汲々とするばかり で、大事な阿字本不生のことをないがしろにしている。



 オーン 空寂なる不生の仏心より 全てに透徹し 
 大宇宙大心霊 ブッダ・メタトロン・エノクとして曼荼羅界会を顕現したもう 
 ダンマの流れ マハーヴァイローチャナに 帰依したてまつる
 まさに願わくば われらをして 法眼圓明なる慈悲と愛と叡智の
 不生の仏心たらしめ給え スバーハ
 オンアミリタテイゼイカラウン オンアポロキティシュバラ
 ノウボウアルナーチャラビジャランジャ 
 ノマクサンマンダバザラダンセンダマカロシャダソワタヤウンタラタカンマン
 
 これをいつでもどこでも念じていなさいと告げられているのだが、みなさんは
どうであろうか・・・・
      萬歳楽山人 龍雲好久


雑念を捨てて
 東日本大震災から一年が過ぎたが、被害の甚大さは様々な問題を残し、被災者は苦難を 強いられている。失われてしまったかけがえのないものへの悲しみは、一瞬のゆえに、未だに信じ がたく、悔いが残るばかりである。先日あった人は、震災後、人生観が全く変わってしまったとい う。死が当たり前で、生はたまたまたなのかもしれないと・・・
 また、別の人は言う、やり場のない怒りはまるで自分の尾に噛み付いているウワバミのように虚し い。
 原発破壊の脅威が侵略者によるミサイル攻撃やテロ攻撃によるのではなく、まさか巨大地震 の大津波による最悪の事態とはなんという皮肉か・・・。
 しかも、なお、関東直下の巨大地震、東南海巨大地震を危惧する声が現実味を帯びてい る。それは誰しもが思う傷口を逆撫でするような嫌な予感である。
 国土という身体が深く傷つき、汚染が深刻になってしまった今日といえど、これから先何が来 るか、はかりしれないけれども、また、、いかに気の遠くなるような歳月がかかろうとも、現実を直視 して、一歩一歩、歩みを続けるほかない。
 いま、こういう時だからこそ、ブッダの声に耳を澄ませたい。



 それはこう響いている。
 「もしもあなたが、パン屋やカメラ店、書店、野外のレストランなど、たくさんの店が並んだ小さな 町の街路を通り抜け、橋の下を過ぎ、婦人洋服店のわきを通って、別の橋を渡り、製材所のわ きを通り過ぎ、それから森の中へ入って水の流れに沿って歩き続けるときに、自分の目と感覚を すべて完全に覚ましつつ、しかも精神に一閃たりとも思考をはさむことなく、通り過ぎてきたそれら すべてのものを見つめるならば、分離のないあり方とはどういうものか、おわかりになるであろう。そ の流れに沿って1、2キロほど歩きながら、しかも再び微塵も思考を働かせることなく、急な流れを 見つめ、そのざわめきに聞き入り、その色彩を見、灰緑色の山を伝わって下ってくる流れを見、さ らに再び一切の思考、一切の言葉を交えずに、木々を見つめ、枝を通して青空を見、そして緑 なす葉群に目をとめるならば、そのとき、人と草の葉との関に空隙がないということがどういうこと かおわかりになるであろう。
 もしもあなたが、またもや思考を何ひとつ働かせず、明るい紅色から黄色や紫まで想像しうるあ らゆる色の花々が咲き乱れ、夜来の雨できれいに洗われた草が青々と豊かに生えている草原 を通り抜けるならば、そのときあなたは愛とは何かがおわかりになるであろう。青い空、空高くいっ ぱいに風をはらんだ雲、あるいは空にくっきり輪郭を見せている緑の丘のつらなり、鮮やかな草とし ぼみかかった花をごらんなさい・・・これらのものを昨日の言葉を何ひとつはさむことなく見つめ、精 神が完全に静まり返り、思考によって何ら乱されることなく沈黙し、そして観察者がまったくいない とき、そこには調和がある。それは人が花や雲、あるいは広々とした丘のつらなりと文字どおり合 体するということではなく、むしろそこにあるのは自分と他者との区別のない全的な非在感であ る。市場で買った日用品を運んでいく婦人、黒い大きなシェパード犬、ボール遊びをしているふ たりの子ども・・・・もしもあなたがこれらのものを、まったくの無言のうちに、一切の判断一切の連想 をはさむことなく見つめることができれば、そのときにはあなたと他者との間のいさかいに終止符が 打たれるのである。
 言葉や息考を介在させないこのような状態は、〈私》と〈他者〉の区別が存在する領域や境界 を待たない、精神の無量の広がりである。それは断じて想像上のものでもないし、空想の翼に運 ばれているのでもなく、あるいは待望されていた何か神秘的な体験といったものでもない。それは 目の前の花にとまっている蜜蜂や自転車に乗った少女、あるいは家にペンキを塗るためにはし ごを登っている人と同じくらい現実的なことなのであり、そのときには分離状態の精神が引き起こ すあらゆる葛藤に終止符が打たれるのである。それは観察者としての目を交えずにものを見、言 葉の価値づけや昨日の基準を交えずにものを見ることである。愛のまなざしは思考のまなざしとは 違う。一方は思考がついていけない方向に至り、他方は分離と葛藤と悲嘆に行きつく。悲嘆の 方からはついに愛に至ることはできない。両者の間の距離を作り出すのは思考であり、思考はど うあがいても愛に
至ることはできないのである。
 小さな晨家のわきを通り、草原を通り抜け、鉄道に沿って戻っていくと、昨日はもう終わったの だということに人は気づくであろう。生は思考が終わったところからはじまるのである。ブッダが指 摘されるように、日々の自分の言動を支配しておるものは、過去の思いと明日への慮りであり、そ れが思考と言われるものである。
 特に、それらの中心にあるものは常に人との関係によって形成された自我である。そしてその自 我は絶えず思いの中心思想であり、は過去・現在・未来、常に人との関係性に対する慮りであ る。日々の心の喜怒哀楽不安恐怖怒り等あらゆる思い
が常にそこか発生してくる。こと、それ程に人との関係(人ばかりではなくあらゆる関係)は生きるこ とにおいて抵抗の核となっている。その自分の精神の状態を刻々に凝視することで、過去の幻 影を引きずらずに生きることが可能だ。自己凝視がどういうものか、それを実行することで自覚し なければならない。ただ、これを手段とすることは背景に恐怖心が働いているかぎり、自己凝視 をしていないことに等しい。それは絶えず抵抗が沸き上がってくることで理解できる。あるがままとは まさにそういう厳しい現実からスタートしている。
 何時の時代にあっても、ブッダの指摘する課題は大きい。
しかし、執着の原因である思考を見破り終わらせることは容易ではない。
 萬歳楽山人 龍雲好久
 。


本不生
 早朝、お堂に登り、本尊に向き合い、ロウソクを灯し、香をたく。数珠を擦っ て、祈念を凝らし、経文を唱え、鐘を打つ。
そんな日常のわずかな一瞬のうちにさへ、思考の雑念はふつふつと沸き上がって くる。
 これが、世間のただ中にある自分の絶えざる状態なのだが、その世間とはとり もなおさず外と内とに分離した自我のざわめきなのである。そのざわめきの根底 にあるものは、常に過去を悔い、未来を恐れている自分である。
 精神が思考の渦で堂々巡りをしているとき、そこには、必ず何らかの恐怖心が ある。それは、日常のいろいろな関係で挑戦を受けたことに対する意識的、無意 識的な不安や恐怖である。この関係性の恐怖は進化の過程で遭遇してきた喰うか 喰われるかの激しい戦いの記憶でもある。生き残るための種の保存本能が根底に ある。大自然界における生き残りをかけた戦いという記憶が生命体の心身の奥深 く刻印され、どんな些細なことのように見える刺激でも、心の闇のように潜む奥 底からフツフツとガスのように沸きあがるようにみえる。
 この自縄自縛の恐怖心は、放っておくと生きるか死ぬか暴発を引き起こしかね ない。個人であれ、集団であれ、その元凶は自己保存のために作動するエゴイズ ムによる搾取と影ずる。搾取するものもされるものも、取るか取られるか、喰う か喰われるかの自他対立による本能的な搾取戦争の悲劇に余念がない。悲劇、そ う、この戦いは進化を促すというより、搾取側もされる側もともに深い傷を残 し、膿んだ傷の瘡蓋のようにいつまでも心を苦しめ、やがて、精神を腐らせてし まう。まさに悲劇である。
 ゴーダマシッタールダ釈迦牟尼佛はこの我々の宇宙創造以来際限もなく繰り広 げてきた孤立化の課程である悲劇を終焉させるべく、正法を指し示された。人類 の虚妄なる執着に基づく暴力性を終わらすべく、自己変革へと固着した人類の意 識の奥深くにメスを入れられた。それは、数十億年もの進化のプロセスの下に数 十兆もの細胞に刻印され続ける自我の欺瞞性、条件づけられカルマという世俗性 を暴き、この混沌とした思念や思いからの解放をもたらすものであった。
 だが、今日、人類のカルマは底しれず、ブッダが出現して二千五百年を経た今 もなお、自分を含めた世界の人々はなお混沌として、自縄自縛のカルマから抜け 出せず、もがいている。
 それだけに、ブッダが問われたことは人類にとって最も困難な課題であるのだ ろう。そもその、ブッダは宗教や信仰や祈りによる安易な気休めや逃避は自己欺 瞞の幻想に至り、自らを滅ぼし世界を滅ぼしかねないと、強く警鐘を鳴らされお られたにもかかわらず、そのブッダの教えを今に継承する自分は供犠と祈りを基 盤とする世俗性の中で腐っている。
それが、「私」の偽らざる実体である。これこそ偽善者と言わずしてなんという のであろうか。


 ブッダは「人々はわがものと執着したもので悲しむ。自分の持っているものは 実に常住でないからである。これは必ず失われる性質のものである、とわかった 後は在家(世俗性)にとどまっていてはならい。」と「出世間」であることを強 く促されている。
 このブッダが指摘されるところの意味は何であろうか。
「わがもの」として執着の対象となっている事物は、「実相」では「実に常住で なく」「失われる性質のものである」とされる。「常住ではない」とは「静止し て存在するのではない」、「いま変動しつつある」ということ。そして「失われ る性質のもの」とは、「停滞なく、経過して、いまのその変動が消失する」、つ まり、「過去になる」ということ。これは、「いま知覚されるものは」過去の同 じあり方が知覚されているものではないということ。すなわち、「いま・ここ」 として知覚されているものは、「先験である知覚原因が、太初以来、一回だけ経 過して消失する」という真実相(本初不生)にあって、常に新しいというという こと。
 しかし、世俗に囚われた我々は、その「常に新しい知覚原因」に向き合うこと なく、しかも、われわれに「知覚されたものは必ず消失するものである」真実相 にも関わらず、その真実相受け入れることを拒絶し、心身に記憶や経験に止めた ものを蓄積し、それら虚妄なるものにもかかわらず、実体として表象化し、永遠 なるものを打ち立てようともがいている。この自我中心の虚妄なる世界に執着し ている愚かさから早く抜け出しなさいとブッダは示されていた。
 嗚呼、しかし、このブッダの指摘がわれわれにとっていかに困難なことか、有 史依頼の今日までのわれわれの文明や文化の経緯を「私」という個人の実体を観 ればよく分かる。
 特に、人間固有の宗教性?においては、絶対者や神、無数の神々を佛菩薩たち を妄念し、実体視し、それに固着する自我の所産と行為に気づくことはなお困難 で、未だに世間は神や正義やイデオロギー、自我の理念や信条のもと、殺戮と搾 取を繰り返す巧妙でしたたかな暴力性から免れないでいる。
 今朝、早く、大光山正徳寺本尊阿弥陀如来の御前で「祈念」を懲らしながら、 何気なく自分を見つめていた。
 ふと、気配を感じて阿弥陀大仏に目をやると、そこにはなんとも言えぬ微笑み があった。慈しみに満ちた光があふれでていて驚いた。如来性から響いて来るも のがあった。
 「ブッダが指摘される真実相に向き合うには、「いま ここ」で、この際限も ない妄念で占められている自分に気づきなさい。そして、「いま ここ」であな たが向き合っているものは、そういった自分の妄念には関わりのない、常に新し い真実の相であることに心向け、気づきなさい。「いま ここ」「いま ここ」 「常に いま ここ」というようにです。ブッダが示されたように「消失した」 いのちなきものにしがみついていては、刻々と「いま ここ」に現れている全く 新しいいのちの真実相に向き合うことはできないのです。「いま ここ」「いま ここ」です・・・・。
 この如来の響きを聞いて、こころがハッとした。居眠りから覚めたかのごとく すべてが「いま ここ」に明晰であり、静であった。打つ鐘の響きに呼応するか のように、朝の日の光を浴びた五色の垂れ幕が、心地よい風にゆらりとはため き、お堂を撫でる。集い来る小鳥の群がひときは盛んにおしゃべりに余念がな い。カタコトと列車が近くをっ取り過ぎた。すべての生命が光に輝いていた。や がて、人々も起き出してくるのだろう。
 「いま ここ」「いま ここ」いのちの実相は常に新しいいまここである。
                          萬歳楽山人 龍雲好久


今に新たなり
 過去の映像や音の再現は記録に過ぎず、実相ではない。過去が再現しているかのように思う が、
過去そのものが戻っているのではない。
 従って、時間はないのだから、ここからそこという空間も存在しない。試しに、今という瞬間に自 分がこことそこにいることができるかどうか試してみるとよい。ここにいる自分があそこにいることは ない。今ここにいる君が一瞬たりとも一秒前の過去に身を置くことができるであろうか、一瞬たりと も一秒先の未来に自分を置くことができるだろうか。記憶や映像や想いは繰り返し再現できて も、今、地雷を踏んで吹き飛んでしまった自分は、二度と地雷を踏む前の過去には戻れな い。
過去・現在・未来は認識上の記憶に基づくものであり、虚妄なのだ。われわれは、常に「今 こ こ」の存在なのだが、しかし、それでは、認識は成り立たない。なぜなら認識は感覚が今ここに向 き合うが記憶に残らねば、今ここは、現れを感受した瞬間、去ってしまっており、感受されたものは 記憶に残る残像でしかなくなるのであるからである。
 竜樹菩薩の『中論』で釈尊にささげられた「帰敬偈」は中論の根幹をなす、ブッダの根本的 視点が説示されている。
 すなわち、

 「滅するのでなく、生ずるのでない。断滅でなく、常住でない。
  一たるものでなく、区別のある多でない。来るのでなく、去るのでない」

 ブッダが観ているものは、先験から今に経過し、消えてしまうという常住ではない実相であっ た。
 では、虚妄は根も葉もない幻影なのであろうか。われわれが今感受している世界は根も葉もな い幻影なのか。
 ブッダはそうは言われず、世俗諦(世俗の真理)であり、事実である。だが、欺瞞というのは、 その現象を感受し、認識するわれわれの側で起こると指摘された。
 つまり、脳などの記録システムの中でいったんとどめ置いたものを次々と蓄積し、それをもとに 表象化し、それを外界の現象と重ね合わせることで、あたかも実体が時間と空間のなかで存在 し、変動しているととらえることが虚妄であると指摘されたと筆者は考えている。
 私見的に考察すれば、現実世界の実相は絶えず新しい。なぜなら、われわれが向き合い感 受するものは常に今ここだが、それは、感受した瞬間、過去となって消失した、それではなく、今 の全く新らしい現実の感受だからである。
 われわれが今あるのは、時間と空間の虚妄性の中にではなく、時々刻々の今にあり、過去は 消失し、未来は、まだないという歴時的事実の、まったく不可思議な生死同時の感受の中にあ る。
 今の事実は過去のものではなく、常に新しい事実である。感受は刻刻の今なのだとすれば、世 界は刻刻の今であり、時空はない。感受が時空を作る。素粒子のごとき極微の宇宙であろう と、百三十五億光年先の宇宙の果てであろうと、その時空を生み出すものはそれを感受し、認 識するレベルによる仮想現実であり。虚妄、数学や天文学・物理学が計算上仮定する数式で しか表現できない虚妄なの
だ。だが、時空はないが、極微粒子から極大宇宙に至るまですべては今として同時であり、今 に新たなる現前であるとしか言いようがない。

 そこで、再び、世間とは何かを問いたい。
 この虚妄性は根も葉もない妄想を指すものではないが、世界が実体としてものが存在している のではなく、時間空間にとらわれているわれわれ世間から観れば、常に変動してやまないものの ように見えるが、それは認識に基づいた虚妄であるが、われわれは刻々に感受する現実は、常 に今なるもので、今、感受するものは一回限りの唯一無二の全く新たなものだということだろう。
 考えるまでもなく、変化しないものはない。瞬時に代わるものもあれば時間をかけて、ゆっくり変化 するものもある。だが、昨日のそれは終わっており、今日のそれはまったく新しい。そして明日はま だ生まれいないのだ。

 あるがままの実相は常住でないということ。
 君も私も世界も、まったく新たな今を刻刻に生み出している本不生であるのだ。だから、本不 生を頭
で知ることはできないが、今をいきる。かけがえのないまったく新しいいのちであり、それが本不生 の実相といえるのかもしれない。
ブッダは虚無を示されたのではなく、認識の虚妄性を指摘した。その虚妄性は時間と空間を描 き出し、そこに世界の実在性を幻想化し実体と観ているが、それは虚妄を実体とみる自己欺瞞 に過ぎない。それは執着、苦悩を生むだけだ。常に変化し新しい創造に満ちた実相に、あるが ままの真実に虚
心坦懐に向き合えと指摘されたと考える。
 本不生というブッダの源流は、今、ここに新たなのであろう。
 だからこそ、われわれは、今、かけがえのない時々刻々の一回限りの実相を、すべて、とともに 只、
ひたすら生きるのである。


今ここに
●全てはいまここに
 この「全て」とか「いまここ」にという場合、やはり、その表現の裏には、時間の概念が潜むことを 免れないでいる。
 真に時空を越えているもの自身は、おそらく、決して、「全て」とか「いまここに」という感覚はない であろう。というのも、そもそも感覚自身、個別性をはらみ、時空を意識していると思われるからで ある。
 時空を越えていること自体、ものではないし、いわゆるいまという時間感覚はないので、「全て」 とか、「いまここに」ということをいうことはない。
 しかし、時空を越えているという場合、全く時間や空間の感覚がないならば、その時空の感覚 や有り様はどこから生じているのか。単に脳内神経の感覚による虚像の世界なのであろうか。す なわち世界は虚妄だということと、時空を越えるという問いは、やはり、時空に根ざさざるをえな い。
 つまり、いまこうしてそのことを思考しているのは「われ」であるから、やはり、時空を越えたもので はないので、越えるものを表現しようとすると、「すべて」とか「いまここに」ということによって、時空 の条件付けから脱却した状態を表現しようとするのだ。
 それはまた、感覚や思考や概念、意識や無意識、霊感などを通じて、歴時性を度外視した 超時空感覚をなんとか表現しようとするが、それもまた、やはり、時空内に条件付けられた虚妄 にすぎない。
 では、ここでそのように言い切る最大の根拠は「実相は、いまここに顕れるやいなや即座に消 失し、過去となる」という事実があるからである。
 この実相という事実によって、実相は知ることによっては知り得ないものではあるが、いまここに 絶えず更新された新事実にむきあう「われ」がその実相を観る。しかし、実相を経験し記憶にとど め保持しようとすることは、刻々の実相に向き合うのではなく、知り得た知識や表象に基づいて みるのであり、知られているもの止めおくことで実相とは異なる虚像となる。それを虚妄だというの である。
「先験性は現れるやいなや消失し、残るものは過去という遺物、残滓にと化す。
 それを実体と観て、「いま顕れているものは過去からいまにいたり未来につながる連続体の変 化ととらえ、外界の実体が時空の中で変化し生滅していると観ている。
 しかし、これはバーチャルリアリテイを実体と誤認することと同じようであるが、しかしそれとは異な る。少しまえまではよくマンガをパラパラめくることで実像が動いて見えるが、それはあくまでも記録 され描かれた世界の話という意味では虚像であることは疑いもない。絵に描いた餅が実際の餅 ではないように。
 ブッダはもちろん描かれた餅は餅ではないと指摘されているように見えるが、実はもっとも難しい のは、実際の餅そのものが虚妄だというところである。
 これは、色は空だといっているように聞こえるが、「われ」が向き合う事実が虚妄であるなら、「わ れが向き合っている」という事実はどうなるのであろう。その向き合うわれが虚妄なら、全てが虚妄 にすぎない。そこで第一原因に向き合う「われ」をも否定することであたかも実相が顕れるという 「無我」説が横行し、さらには「超自我」やら「アートマン」や「ブラフマン」など絶対普遍の虚妄 なる幻想を抱くに至る。
 かれらのいう「無我」や「真我」は「有・無」といっしょで、実体の有無に基づいている。
 ここが、ブッダの指摘される本不生と本質的に異なるところである。
 ブッダは「先験がいまに変動し過去となる」という外界の実相を指摘された。本不生に向き合 い顕れる外界は常に更新されている」と指摘されるだけである。歴時性と外界の実相を把握せ よということである。
 
 では、把握されないものが、向き合うことによって把握される場合、それは把握された瞬間、直 ちに虚妄になるということを意味するとすれば、宇宙の歴史や大自然の変化、誕生し、成長し 朽ちていくプロセスや様々な因果関係というものは、虚妄だというのであろうか。
 把握されたものを記憶したり概念化すること自体、虚妄であることは、理解できるが、時々 刻々変化しつつ目の前に繰り広げられる森羅万象、この事象はどこから来るのであろうか。明 らかに意識や感覚外の外界に顕れている。個人の意識外であることは他者の消滅によって宇 宙が消滅していないことで明確である。 外界を実体と観るなということは、外界の否定ではな く、外界の実相を観よということである。
 すなわち、外界の実相は「先験よりいまに変動して絶えず更新されている」のであり、外界にも のが実体としてありそれが時空の中で変化していると観るのは虚妄の表象を観ているに過ぎな い。万象が時空を越えていまに変動し全てが一瞬の内に同時に更新している。先験が同時に いまに変動しているこれの中にいわゆる「われ」と「一者」の根拠を観るというのが小生の考えると ころである。だが、これをもう少し検討しないと、従来の誤りの阿字本不生に陥る。



●無時空と非時空

先験の実相は無時空という観念論からは派生しない。歴時性という厳粛なる実相をブッダは 本不生にいおいて否定していない。
 時間と空間をバーチャルリアリテイとして展開する破壊時空論と阿字本不生における実相の 歴時性は全く異なる。
 一方は観念論であり、一方は実相である。
 では、このわれが地球の裏側にいく時空や電車の走る時空、惑星の運行、音波や超音波、 電波や光波など歴然としている外界をどう扱うのであろうか。
 この世は相互依存性によって構成されており、仮和合の世界に過ぎないので、実体ではない と考えている仏教もある。
 しかし、和合する実体を観ているから虚妄に過ぎないと否定されざるを得ない。
 確かに、世界は彼あればこれしょうずというようの因縁所象相互作用として外界は流れている ようにみえる。
 ここで、大自然界を観てみよう。
 あの川の流れは、海水が太陽の熱を縁として、水蒸気となり、上空に舞い上がり、雲となり、 風に乗って山の頂にぶつかり、雨雪霰となって、地表におりたち、あるものは地下深く潜り込み、 あるものは清流となって谷川へ下り、地上の草木の水分補給となり、地表の汚泥を洗い落とし、 温泉になるもの、濁流になるもの、そして、大河となって再び海へ戻る、自然界の循環システム。 そのときそのときの条件か環境縁によって、増えたり減ったり、きれいだったり汚かったり、暑かっ たり冷たかったり、氷の固まりだったり、流れる水だったり、水蒸気の気体となって空中に漂った り、しかし水の分子そのものは変わら水の本質を失わず、相互作用の条件によって絶えず状態 が変化しているにすぎない。
 この様に自然界を観ることは、虚妄であるのか、本不生であるのか。
 そう、ここでようやく「あるがままにみる」ということが浮上してくる。
 しかし、これにはまだ検討を要する課題が残る。
 一つは唯物か本不生かである。そして、もう一つは、いわゆる、ここで検討している「われ」とは 何であるかである。
 
 虚妄だとするなら、虚妄でないものとは何なのであろうか。
 これは、今日までの全ての生命の進化、文明の発展そのものを虚妄とするのであろうか。
 いま、ここで、感受し、見聞きし、思考し、生きている実体は虚妄であるなら、全ては空しい幻想 の所産というのであろうか。

 そもそも、一体、この、向き合うものとは何なのであろうか。この向き合うものそのものを否定するこ とは、虚妄を否定するのだが、その虚妄を生む、この向き合うものそのものも虚妄であるというのな ら、顕現そのものが虚妄であることになる。
 しかし、これでは、そもそもが否定されるから、もう、これ以上の展開は無意味な観念論に過ぎ ない。なぜなら、それでは、「われ」を問うことそのものが虚妄にすぎないことになってしまうからであ る。

 しかし、まだ、問いきれていない。ゆえに、もう少し尋ねてみよう。
 「われ」を問うポイントは「本不生」に「向き合う」「われ」は「実相」を感受するが、それを実体視 することを「虚妄」化してしまうというところにあろう。
 確かに、本不生は自らを不生とは云わないが、この「われ」は虚妄であるがゆえにこそ、その本 不生を問わざるをえない。
 しかも、本質を問うことがなければ虚妄も阿字本不生もわれわれの中では問題になることはな いのかもしれない。

●先験と一者

 プロティノスによると、「一者」は「現前」するが把握されるものではないという。彼の緒論の展開 はいざ知らず、ここを押さえると、彼が指摘する「一者」とは、まさに「本不生」に他ならない。
 「本不生」の「先験性」は、文字通り、「経験に先行」しているものであるが、後先、前後の時 空上のものではない。
 「一者」から「現前」したものが残れば、そこに、時空が生じ、後先前後やウィルバーの云う四 つの象現という一者からの下降と上昇という分裂と統合のでいう含み越えていく、進化の構造 が指摘しうる。「物質」「生物」「心」「霊」が描かれることになる。
 これは、不二一元論に通じる。だが、「ブッダは一者の現前は残らないという」ことを示す。先 験が現前し、消失して過去になることは時間差はなく、常に同時であるそれ故に、把握できな い。わずかに、現前を記憶することで残る虚像を現前に照らしだして、表象化することで現前し ている位置(空間)と流れ(時間)を把握するが、それは「一者」ではなく「虚妄」であると指摘さ れた。

 ブッダは、一者は「常に新たなに現前する」ものであり、「すでに過去となった残像に執着する な」と注意された。

 現代的に言えば「残像は脳内の反応。しかし、現前は常にいまである。」といえる。


●祈りについて

 一者の現前は、何故か、個々の声となって自我の残滓を残し、その自我は分裂と対立を生 み、孤独である。
 太初以来、一度きりの現前は残滓となって脳や意識に軌跡を残す。
 現前は常に新しく、残滓は過去の遺物。そこに現前はないのにも関わらず、過去の遺物に現 前性を同化させ、残滓があたかも生きている表象として実体化する。
 ぞの残滓の世界はまさに弱肉強食、熾烈なテリトリーの争いを繰り返す。あの羽虫はあの蛙に 食われ、その蛙は蛇に飲み込まれ、その蛇は猛禽の餌となる。これが、現実であり、それをどうし て虚妄というのであろう。

 あの高速道路をひた走るトラックは、この嵐に遭い、スピンし激突事故で、突然、帰らぬ人とな り、幼子が知らずに待つ。その父を呼ぶ声は余りに不憫である。

 何を以て虚妄というのであろうか。無常をいうのか。あまりにも過酷で非情なる現実。あるがまま とはいったい何なのであろう。

 一者、それは、分裂し断片化したものにとっては、決して理解し得ない、全てのわれ。
 はたして、世界は全てのわれの残滓なのだろうか


《法座資料H25.09.28》

「われ」とは

 いつものように本尊の御前で祈りを捧げていると、ふと、わきあがる思いがあった。
 それは、このような思いであった。

いまここで、祈りを捧げる「われ」というのは

 本来、仏陀が指し示された
「外界における〈変動〉は、過去と未来の境の〈今〉に位置して〈経過〉し、消失して、常に改まっ ているので、無常な外界は〈今〉静止したものとして成立しないまま〈経過〉し、消失する。知覚原 因は外界にある静止した対境ではないため、我々には捕捉されない。したがって、表現されるこ ともない」
という仏陀真説からすれば、

 知覚原因に向き合う「われ」は「不生なる先験」に向き合い知覚するところの「所産」といえる。 というのも知覚原因に向き合う「何か」がなければ、本不生は知覚されない。
しかし、知覚されないから「無い」というわけではなく、「本不生そのものに知覚機能がないから、 記録されない」ということである。
 
あるいは、「われ」そのものが知覚の「有無に非ざるもの」ということのいずれかであろう。

 いずれにしても、知覚の第一原因に本不生の先験性をいうのであれば、「今、知覚に顕れ、 経過し、消失し、過去となる」このプロセスに「われ」があるとなれば、その「われ」は太初以来一 回限りの顕現であり、しかも、第一原因に向き合うものなのだが、そもそも、「第一原因に向き合 う」「われ」とは「何」なのであろうか。

 不二一元論者のいうように「世界は神の戯れ」であり、「われ」はその役者なのであろうか?
 
 少なくとも、「先験」・「今」・「過去」ということが云々される時点で、すでに、そこに時間性がふ くまれる。であるから、第一原因に向き合うという時点で、時間と食うんお枠内にあり、そこは、す でに「虚妄」の世界であることになる。

 仏陀は「われ」や「世界」を虚妄とされたが、では、「非我」である「本不生」が「われ」を経て知 覚されている、この現実世界をもたらす第一原因は、一体どこからどうして生じるのであろうか?
 我々は今、この物質界という現象世界を感受しているのであるが、それが、何故、実像ではな く虚妄なのか?それを甘受することが甚だ困難である。
 
現代の文明社会は、すべて現象世界を実体化し、そこに基盤をおいて進化していると考えてい る。
 そこには感受された表象が脳内の虚像であり、実像ではないと見ることは困難な世界である。
 そして、その感受された記憶により形成した表象の虚妄なる世界に基づくところの自己感覚を 「われ」であると思っている。

 では、虚妄なる世界を形成してしまう以前にある、すなわち、本不生を第一原因として感受して いる「われ」とは、そもそも、一体、「何」なのであろうか。
 それは、科学でいう脳細胞からか、それとも、物質という仮の表象を越えた実相から来るので あるか。 脳から来るものであれば、それは、この世界を「実在する世界」と判断し、「宇宙のダイ ナミックな変動が起こる時間と空間における生々流転のなかから、たまたまこの惑星地球の中 で進化してきた、人類を始め生命体の脳の発達度合いによる自己感覚である」と判断する。そ れがまた、現代科学を展開する「もの」すなわち「われ」であり、それははそれぞれに異なる多様な る「われ」でもある。

 もし、物質界を越えた異次元の世界と通じるとしても、それは、その数式を計算し予測する「わ れ」であり、概念上の「われ」の働きであるが、それもまた、脳の働きに依存し、現象世界に実証 を求めなければならない。

 また、科学の限界を超えて神の領域に踏み入ったにしても、これも、また「われ」に起点をおくも のであり、時間と空間の枠内であることを免れ得ないので、あえて、概念上において時空を越え ることを仮定するしかなく、それをいかに「空」「無我」「本不生」と名付けようと観念でしかない。 いかに瞑想やヨーガの「サンマーディ」であろうと、観念の域を出ない。つまり、虚妄を免れ得な いのである。故に、この物質世界同様、かの霊界を実在界と認識するにおいても意識発達の 段階が形成される時間と空間を含んでおり、虚妄性を露呈していると言わざるを得ない。

 ということは、霊界という非物質的世界は、精神による虚妄なる表象世界であり、たとえ無限 の進化における広大なヒエラルキーが形成されていようとも、それは、虚妄なる世界の中でのこと にすぎず、これはまた、きわめて物質的であるといえる。

 「われ」の根拠となるものが、脳という物質であろうが、靈という概念上の非物質であろうが、そ こには「われ」を中心をおくことにより生ずる「時間」と「空間」と「次元」という切り取られた虚像の 中で繰り広げられた虚妄なる表象世界でしかない。
 その虚妄なる世界を構成する「われ」は自我なのであるが、その概念上の「われ」を「われ」と同 化するゆえに「われ」に中心をおく。そうであるかぎり、そこから、自他の区別やら、より大きい、より 小さい。ここからそこへ、過去・現在・未来という世界が繰り広げられ、計量化される極微から 極大の世界、さらに、その世界で繰り広げられる生滅流転の無限の時間が想定される。
 
 一方、物質、非物質を問わず、そこは、因縁仮和合の相互依存性の世界であると考える、 今日の仏教の主流をなしている見解は、全ては原因と結果の流れであり、ビッグサークル(大 円)であるとし、神の実在性を否定し、「われ」そのものの実在性をも否定する。因縁と条件と結 果が無限に連鎖する世界であり、固定した実在のものではないと言う。この立場は、現象世界 は原因と結果、因縁和合の仮の世界であり、「空」であるがゆえ、仮の自我が形成されてはい るが、それを越えたアートマンもブラフマンも神の実在も、我が生み出し虚像でしかないという。 あるのは現象世界に流れる彼あればこれ生ずるという原因と結果の「法」のみであり、それを反 映する実体の無い世界を「空」とする。

 だが、これも、大きな落ち度があって、生滅流転する仮世界を「仮有」とし、法を「空」とすれど も、仮和合の構成単位は否定できないままなので、そもそも、起点をこの世界においており、仮の 世界とはいえども、それが虚妄であるということは見逃している。原因となる最小単位を想定しな ければ説明できないという矛盾点をそもそも抱えているのである。いかに「空」を「零」とし、「無」を そうていしようとも、概念上でしかなく、概念化して空無の現象を論じているに過ぎない。
 ヒッグス粒子の発見に世界が湧いているように、存在の始まりは何かということに夢中になって いる近代科学と同様、宇宙の存在を実体としてみる現象論の域を免れない。

 そこで、再び、問いが起こり、いや、宇宙は断片ではなく、大円、ビッグサークルとして統合され ているものであり、全体として、ヨーガ(調和)するものである。断片をいくら寄せ集めても、それは 断片の集合にすぎず、それを統合し包括する全体性は「一者」が存在する。しかし、全体という ものは単なる断片の寄せ集めでは成り立たず、必ず、「一者」において統合されるものであり、そ れは「一と多」ならざるもの、不分割ののもの、不計量のもの、不知のものである。なぜなら、知は 不知を知ることはない。知られるものは不知を切り取った断片にすぎない。断片化されたものは 全体を知ることはできない。では、不知のものは何故、どうして、断片のものを「一者」として統合 しうるのであろう。そこで、「一」は同時に「多」であり、「全」であるというホログラムのように、いかに 細分化し、断片化しても失うことのない「全体性」を保持するという。
 しかし、これは、やはり、古くからの「不二一元論」の繰り返しとなる。不二一元論の最大の弱 点は「一者」を「絶対神」の臨在と観る虚妄性にあるという。
 
 そもそも、果たして、このブッダの親説は適切なものであるのだろうか。ブッダはこの「本質のわ れ」を否定されるのであろうか。
 
 そのようなことを考えていると ふと湧き上がる思いがあった。

 全ては一者から生み出されたもの。
 しかし、生み出されたものはいくら宇宙という無限大の規模で寄せ集めることができても、一者 たり得ない。
 理由は、簡単。一者は絶えず生み出し続けるものであり、生み出されたものは絶えず留まること なく消失し、更新されるがゆえに、時空に留まるものはその抜け殻に過ぎないからである。
 それゆえ、時空に留まろうとする虚妄なる我々は、その視点を中心に、宇宙を極微から極大に いたるまで常に計測することによって宇宙を手中に収めようと躍起になるが、時空の限界を越え ることはできない。その虚妄なる我々概念化する宇宙は常に時間と空間にされる。

 だが、小さな虚妄なる我々にとって、宇宙がいかに広大無辺なものであろうとも、全てがいまな のである。たとえ何億光年先にしかたどりるけない遙か彼方の宇宙であろうと、いまであることを 一者という。つまり、一者には時空の制約はない。時空の制約はないといっても空想や妄想や 概念を指すのではない。それらは一者たり得ない。それらには生み出す力がないからである。
 一者は自他の区別に基づくわれを言うのではない。なぜなら、他がある限り一者ではないし、 全宇宙の他を集めることができてもなお一者たりえない。故に、一者は全てに同時にいま顕れ更 新し続けるものを云う。ものとは云うがものではない。
 一者とは何か。一と多の一者ではない。全体の全ての空間と時を集めて一つにまとめても一 者たり得ない。つまり、全体主義でもなければ、世界を生み出す一者を別におき、それを一者と いうのではない。
では、一者とは何か。
 その一者とわれとは何か。その本質をここでは問うているのだ。


 実は、小生がここで扱おうとしている「われ」とは、正確に言うと、「われ」であるが「われに非ず」 「われに非ざれども他者に非ず」「自他に非ざる」「われ」を扱おうとする。
 言語的には矛盾するが、しかし、第一原因を感受する「われ」そのものをさす。これを果たして 「われ」というものなのか、ラマナ・マハリシのいう「真我」と呼ぶのか、盤珪禅師の「不生の仏 心」と呼ぶのか、その呼び名や命名はともかく、「第一原因を感受する働き」そのものをして「わ れ」とするなら、この働きは、どうも、万象万物に普遍の働きであるように思える。

 今、ここで鳴く秋の虫、ゴーッと通り過ぎる電車も、その中にいる人々も。あの高速道路をひた 走る車も、ドライバー達も。けたたましくさえずりながら立ち去るあの鳥も。田の是道を散歩する人も 犬も。あの山麓に散在する家々も、そこに暮らす人々も。頭きて怒鳴る彼も、一切を無視し、怒 りの意志を表示する彼も。みな、「われ」という感覚を持ちながら、それぞれ異なる独自のいのちを 生きている。この、人であろうが動物であろうが植物や鉱物であろうが、それぞれがもつ「われ」と いう感覚と中身は、彼らと私とで果たして異なるものなのだろうか。異なるとすれば、いったいなぜ 「われ」なのであろうか。自我の形成は確かに成長や発達段階により、あるいは、生まれ育った 環境や時代によって様々であろうし、しかも、何一つとして同一のものはないのである。

 しかし、この私自身がもつ「われ」という自己感覚そのものは、ほかのものが持つ「われ」という 自己感覚に違いがあるのであろうか。自己感覚そのものに違いはない。もし、異なるとすれば、そ れは色づけられた仮面の自己であって、もしかすると、仮面をはずした素顔の「われ」は、彼の 「私」も彼女の「私」も、犬や猫、ねぐらに鳴きながら帰るカラス達。ころころと鳴くオロギも、風にざ わめく木々の葉も、今ここの「われ」であり「私」であるなら、みな一つの「われ」ではないのだろう か。一つというのは一と多でいう分離と統合ではなく、非一非多。本不生を指す。先験性であ って、意識や頭脳には決してとらえきれないものだが、五感はその先験性に向き合って仮想現 実を現実として展開。そこに時間と空間を仮想し生成発展消滅有無を虚妄する。この「われ」 は「われにあらず非我」なのであるが故に、全てに先行しているのだろうか。それ故に、全てに普 遍的な感受性なのだろうか。だとすれば、この「われ」という全ての現象に含まれる「自己感覚」 はいったいどこから来るのであろうか。

 繰り返しになるが、この自己感覚の「自己」とは「自他」の分別や経験や発達によって形成さ れた積み上げられた虚妄の「個性」や「自我」を指してはいない。本不生に第一原因として向き 合う「非我」である。いや、もちろん、「非我という実体」を言うのではなく、「われ」をという感覚の 第一原因をさす。実はこの「非我」という働きがなければ全ては、いまここというものがそもそも生じ ないのであるから、いまここに生きている我々にとっては論外のとになってしまう。しかし、いまここと 言っても、虚妄なる「われ」の展開する虚妄なる構築された世界の中のいまここではない。

 これは、非我という実体がほかにあってそれが千変万化してこの世界に現れているというので はない。
 全てが千変万化していると観るのは私だがもちろんその「われ」でもない。なぜなら、その「われ」 こそが、虚妄なる世界を生み出す元凶であることを釈迦牟尼佛指摘されていた。

 ここで、私が見聞きしている世界をなぜ虚妄と断ずるのであるかを問いたい。
 ブッダの困難な表現ではこう示されている。
 「外界における〈変動〉は、過去と未来の境の〈今〉に位置して〈経過〉し、消失して、常に改ま っているので、無常な外界は〈今〉静止したものとして成立しないまま〈経過〉し、消失する。知覚 原因は外界にある静止した対境ではないため、我々には捕捉されない。したがって、表現される こともない。
 ここで、上記の仏陀の親説とは相容れないもののひとりとしてプロティノスを考えたが、以外にも その論は、このブッダの親説を踏まえている上での緒論であった。《プロティノスは龍樹菩薩に会 いたがっていたと聞く》 
 (略)

 しかし、「われ」はそういった区別を越えている。時代や空間、そういったものを越え、もちろん、 脳細胞や経験、言語中枢や感覚による概念やイメージではない。アートマンやブラフマンなど という宗教的妄想でもないでもない。はたして「それ」を「われ」というのかわからないが、普遍的 自己感覚こそが第一原因を感受するものなのかもしれない。

 いったい何なのであろう。
 本不生からすれば、脳や記憶により形成されている虚妄なる個人すなわち虚像であるという。 しかし、その「自分」とか「われ」という感覚や認識は、また、無数のいのちの輝きを放つものに等 しく根付いている「われ」でもあるように見受けられる。

 人間に限らず、あらゆる生命は一つ一つの独自性を輝かせている。こ独自性の要にあるもの が、「われ」や「自己」とい感受性や相である。 あえていうならば、万象万物すべてに、この自 己の感覚があるのではないだろうか。この自己の感覚が自他を生み、成長、進化、盛衰などの 世界を繰り広げ、空間や、時間を生む。
 生まれた時代、生まれた場所によって、個性も輝きもまちまちで、太古以来一つとして同じもの は生まれていない。だが、そうした個別の生命が持つ自己の感覚というものは、過去を集約し、 未来を計る。それはまた、生命の進化や弱肉強食の壮絶な争いを繰り広げるものでもあった。こ の「われ」という感覚とはいったい何なのであろうか。人間ばかりではなく、生命を有するもの全て に自己の感覚が働いているように見える。人間誰しもが有している「私」という自己感覚。人間 ばかりでなく、動物も植物も鉱物も、素粒子もそれぞれに自己があるという。しかも、自己の感覚 は脳の発達により、その反応はまちまちであるが、しかし、自己という感覚は、人間でいえば変わ らないように見える。つまり意識障害がなければ、誰でも昨日の自分と今日の自分が全く違って いるとは感じない。生まれたときから死ぬまで、あるいは死後も変わらず同じ自己と信じて疑わな い。それが本当の自己か、脳や記憶や経験の感覚が生み出すものなのかは不明だが、なおも 不思議だなあと思うこと
は、万物全て自己感覚を有しており、その形作られた状態により自己は様々であるが、「われ」 の感覚は皆等しいということ。ここが不思議である。彼も私も、彼女も彼も、あの犬や猫ですら、 のに咲く花ですらみな一つとして同じものはないのだが「われ」という自己意識を有している。その 「われ」という感覚はどうも皆一緒のようだ。個別の「われ」はミクロのレベルからマクロのレベルに 至るまでそのレベルという条件が付けられた自己感覚である。が、条件付けがどのレベルであろ うと自己感覚がありるということはまことに不思議である。個性や個別千差万別であるが、それら はみな「われ」であり、その「われ」が全てであり、普遍なのではないか。つまり、森羅万象はみな 「われ」なのではないか。自己意識という虚像なのか自己の感覚はもちろん、はあるが、自己と いう感覚は普遍なのであろうか。五感を通した脳の記憶が自己の感覚を生みだし、この経験と 記憶によって自分を意識している。この記憶や経験は刻々に現れる本不生の脳に映し出され た映像感覚であり、それは、写し取られた虚像にすぎない。ゆえに、自分というものは虚妄であ る。
 この世に現れたものという感覚、これによって、始めと推移と終わりがあり、自己の感覚はこの 脳がある限りのものであり、脳の破損や死滅によって、自己の感覚は失せてしまう。これは、脳生 理学の立場であろう。右脳と左脳の働きであのアメリカの脳科学者の復活の記録からすれば、 悟りの体験も左脳の感覚であること以上のものは語り得ない。

 万象すべて自他の区別なきいのちであると感受するは左脳の特徴だという。さすれば、映し出 すスクーリーンが脳である。では脳は身体と同じように消滅変異の物質なのだということであれ ば、世界の認識は脳が全てであるのだろうか。そして、自己の感覚は脳の発達と進化によるもの でしかないのであろうか。
 
 


おさないこころにほのかなあかりをともしてくれたかけがえのないほとけさまのものがたり


 昭和34年ごろ、父が住職としての長い修行に出かけている間、病弱な母と妹と私の三人でひっ そりと寺の留守番をしておりました。ある日、その師僧が手配してくださった大法輪閣『佛教童 話全集』12巻が、近くの本屋さんに届きました。身体の弱い母に連れられ、その童話全集を受取 りに行き、大きな風呂敷いっぱいに包んで持ち帰りましたが、その重さがとても心地よいもので した。
 今思えば、このときの夢中になって読んだ感動は、今でも、心の法燈となってほのかに照らし てくれています。あれから、もう60年は過ぎ、父母も妹もすでに他界しておりますが、小生には 生涯忘れ得ぬ宝物でありました。
 しかし、この本は、いまはもう、劣化が激しく、本を開く度に紙はポロポロ剥がれ落ちてしま い、ますます傷みが激しくなってまいりました。涙がこぼれてしまいます。再版のものを探しま したがこの童話全集は絶版のようです。
 諸行無常とはいえ、勿体ない気持ちでいっぱいです。
 せめて、この法燈が消えないうちになんとか残せないかと、スキャンして、下記に保管してみ ました。
 大切な童話でした。参考までにご覧頂ければ幸いです。
『佛教童話全集』一巻
https://drive.google.com/open?id=1-mXNwcsyd18eJkfGSANS124HGTWRM_IF

『佛教童話全集』二巻
https://drive.google.com/open?id=1VbpsvJESoV2oIxGeLLre24DP7An0ctEe

『佛教童話全集』三巻
https://drive.google.com/open?id=1zE8-jdDlJ1SnCNnh-844AZYtwzmpyOyF

『佛教童話全集』四巻
https://drive.google.com/open?id=1OYftB-nGYwS8lrRM-2uaYbt4k51X7A3j

『佛教童話全集』五巻
https://drive.google.com/open?id=1Qi7Qx7fyzAIJD3FAXI74Bm669_LNT_gX

『佛教童話全集』六巻
https://drive.google.com/open?id=1rMtkr4AoQQs_bY6pVj73S1nV8QhUIMI6

『佛教童話全集』七巻
https://drive.google.com/open?id=18nEV4MXIYSVO4NADmdd6qYLwIRhztplC

『佛教童話全集』八巻
https://drive.google.com/open?id=1pt209R7iExvAil1X_RfovXOY3YpPwKlW

『佛教童話全集』九巻
https://drive.google.com/open?id=10iQc9tbD4L5Vn6PIBuJVfjPR-PlIUlda

『佛教童話全集』十巻
https://drive.google.com/open?id=1tkKHYbGuWwB7LB8PJ5IKOgrslG7Pqw5D

『佛教童話全集』十一巻
https://drive.google.com/open?id=1RLfkHDIoqmhfU_fM-K2yxun_cgfEeIyT

『佛教童話全集』十二巻
https://drive.google.com/open?id=1SCU_G13Dryuy4fQRFPvyF31gIx6EiowI



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