真言宗豊山派



朝日山 萬歳楽院 法圓寺


2003年04月12日
法圓寺の山号『朝日山』の由来
 法圓寺の山号『朝日山』の由来
                           1999/11/13 當山主・好久
○法圓寺の山号『朝日山』は
朝日連峰の『朝日岳(朝日山)』を指す。
 (位牌には第四世住職は出羽の湯殿山注連寺(醍醐三宝院流)出身の大阿闍梨あることが刻されている) 

 先日、思い立って、法圓寺第4世宥応上人のご出身が「注連寺」とお位牌に記されてあったので、どんな寺であったのか、山形県の湯殿山へ調べにゆく。
 そこは出羽三山の湯殿山注連寺であった。『即身佛』と森敦の小説『月山』で有名であった。朝日村にあり、出羽信仰の奥の院に位置するという。
 法圓寺の第四世は俳諧集『田植塚』のときの住職であり、俳号を「乙角」と称した。當山がもっとも隆盛を極めたときの住職でもある。なぜ、出羽の注連寺からやってきたのか気になっていたが、注連寺の朝日村をみてはたと得心がいった。永いこと不思議に思っていた法圓寺の山号『朝日山』の由来を暗示している。(朝日連峰の朝日岳を指す。)
 おそらく、當山の開基上人宥圓快雄上人及び第二世の開山上人尊海上人(湯殿山の行人の末字名に「海」がつく行者に通ずるか?)及び第三世実宥上人と出羽朝日村の湯殿山関係の阿闍梨であったろうと推測される。(ちなみに現在豊山派の「大日坊」・「本覚院」もある。)
法圓寺開山の山号『朝日山』がそれを如実に物語っている。
○法圓寺創建は寛文一年八月よりも古い。
  (法圓寺の創建は快雄上人15〜25歳までの間)
  {慶安三庚寅年から万治三庚子年(1650~1660)}
 保原町の長谷寺の末寺と配されたのは、上保原の泉福寺に残る資料(保原町史5)によると、延宝三乙卯年(1675)十二月十二日江戸の月番の寺院・真福寺に届け出られている。
 寺院本末帳が最初に整理されたのは寛永十年(1633)『諸宗本末帳』であるから、このときはまだ法圓寺は存在していなかったかもしれないし、存在していたかもしれない。寛文2年(1662)の創建と明治時代に整理された「寺院明細帳」に記されているが、その記録にには「創立不詳」ともあり、おかしいと思い、桑折町史の資料を丹念に調べているうち、『上杉家古文書』の寛文一年(1661)八月に報告された「伊達信夫寺数覚」にすでに「朝日山法圓寺」が出ているので、寛文一年には法圓寺が存在していたことははっきりしている。法圓寺の創建は當山建立の僧・宥圓快雄上人15〜25歳までの間{慶安三庚寅年から万治三庚子年(1650~1660)}であることはほぼ間違いないと思われる。

○延宝三乙卯年(1675)十二月十二日法圓寺が醍醐三宝院流報恩院の地方本寺・保原の長谷寺の末寺として登録された。(法圓寺創建後5~10年経ってから)

○明治十一年に奈良県初瀬にある長谷寺を総本山とする真言宗豊山派に所属し現在に至る。
  (このとき、江戸期の本末関係は解消される。) 

※ 法圓寺は、創立後5〜10年たった延宝三乙卯年(1675)十二月十二日に保原の長谷寺末として届け出られた。届け出たのが第一番であったので、末寺筆頭となり、その後数年を経て他の近隣寺院が長谷寺末寺・門徒の寺数三十余が届け出られている。当時はどの寺院も本末関係をはっきり結ばなければ存続を許されなかった。ただ、当時の法圓寺の住職達の本末関係の移動や出入りを見てみると、本寺筆頭の末寺であるにもかかわらず、法圓寺から保原の本寺長谷寺に移った住職は今日まで一人もいないし、逆に本寺から下がったとみられる住職もいない。他の末寺から法圓寺に昇ってきた住職はおられる。これは、長谷寺の末寺として登録されてはいたが、かなり独立性の高い寺であったのであろう。

※ 法圓寺の敷地は天文七年(1538)の「段銭帳」によると伊達家の旧臣で桑折出身でその当時出羽の国長井庄のの伯楽(ばくろう)の名家(馬医)・桑島氏の館であった。おそらく法圓寺は桑島氏のあとの役割を受けて(伊達家の出先機関)その敷地を譲り受けて法圓寺が建立されたのであろう。「法圓寺一宇建立之僧」と位牌に明記されている當山開基宥圓快雄大阿闍梨(1635~1694)は元禄七甲戌年(1694)五月二十二日に60歳(満59歳か)で遷化されているから、快雄大阿闍梨26歳のときにはすでに法圓寺は建立し終わっておられたことになる。法圓寺創立期は快雄上人15〜25歳までの間{安三庚寅年から万治三庚子年(1650~1660)}になることはほぼ間違いないといえる。今から三百六十年ほど前の創建となる。それ以前は伊達家の旧臣桑島氏の館であったから、伊達家が米沢から仙台に移り伊達家の家臣達が桑折から仙台に移動した時期の創建である。それにしても、朝日山といい、桑島氏といい、出羽といい、伊達家といい、法圓寺建立の奇縁が伺える。
 余談になるが、近年、月舘の伊達家ゆかりの長谷部氏の依頼を受けて、『おでひめの短刀』平成十一年まで御安置させていただいた経緯も不思議である。この短刀は長谷部家に戻った。どうも、伊達家・出羽・奥州平泉・源氏・佐藤一族の見えない流れが背景にあるようだ。

 ※さて、法圓寺は、はじめ湯殿山に関係する僧によって建立された真言系の寺院であったが、その後、幕府の政策により、本末関係を登録せねばならず、幕府指定の地方の本寺長谷寺の末寺として届け出たことは前述の通りである。保原の長谷寺の末寺筆頭として配されたことは江戸の「寺院本末帳」にも記されているが、届け出が第一番目になされたからである。保原の長谷寺本山は醍醐報恩院である。後に明治になって豊山派に組み入れられた。このとき豊山派に組み入れられた寺院は「寺院本末帳」からの推移を見ると本山を江戸の弥勒寺とする福島の真淨院を本寺とする末寺一派と伊達家の菩提寺であった亀岡寺系列の寺院及び醍醐報恩院を本寺とする長谷寺一派である。

 江戸の頃は、法圓寺も、この地方における出羽三山信仰の中心の寺として重要な寺であったことは、桑折が伊達家発祥の地であり、奥州街道、羽州街道の分岐点であり、交通の要所、伊達家の要所でもあることから伺える。出羽三山の内、湯殿山が真言の醍醐三宝院流の流れを汲んでいることと、長谷寺が醍醐三宝院の中の報恩院流の流れであるから、法流のうえからも深い関係が見られる。

○文化十年(1813)新潟県蒲原郡『乙宝寺本尊出開帳』先寺院として法圓寺が出てくる。
 また、貴重な文献として最近石井僧正(伊達町福厳寺)からいただいた資料によると、文化十年(1813)新潟県蒲原郡乙宝寺の『乙宝寺本尊出開帳記録』(中条町郷土史研究会報)にこの地区の代表格として法圓寺が出開帳寺院として選ばれている。法圓寺のあとは松川の西光寺である。このときの住職は當山十一世宥精上人最晩年の時代であり、愛宕大権現(北越の田沢何某寄進)・秋葉大権現を當山に勧請(文化五年)した住職でもある。このときにはすでに次の第十二世堯空上人も在寺しておられたかもしれない。
 この『乙宝寺本尊出開帳記録』には当時の法圓寺の檀頭として「田村武左衛門」・「菊田伴右衛門」両氏の名が出ている。
いずれにしても、法圓寺開山の由来が見えてきたような気がする。

2003年05月19日
風流の初めや おくの田植うた   芭蕉真蹟

享保四年(1719)に建立さた法圓寺の「田植塚」の傍に、
小職好久が長いこと念願しておりました
松尾芭蕉の真蹟「風流の初めやおくの田植うた」の句碑と
(芭蕉が須賀川で詠んだ句の真蹟をこの塚に埋めて供養したという故事に由来して、芭蕉の真筆を石に刻みました。)
同じく享保四年(1719)に発刊されました『俳諧田植塚』の原本の序文とその当時の法圓寺の境内図を石に刻むことができました。
石はある檀家の方から奉納していただいたものです。

2003年01月30日
風雪に耐える寺
昨夜来の暴風雪に、朝方おそるおそる起きて戸をあけてみましたが、いづれの戸も凍り付いてビクとも開かないのです。しばらく、全く外に出ることができませんでした。やっとの思い出外に出ますと、ご覧の通り、本堂がすっかり雪で覆われて、混乱しているのも忘れるくらい、ハッとするほど美しいものでした。
「凛として風雪に耐えて法圓寺」 

2003年04月12日
内陣の御本尊
手前:〔宗祖〕弘法大師・空海 
 「南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)」

中間:〔秘仏〕歓喜佛(ヘールカ:チベット500年前)

最奥:〔本尊〕大日如来(金剛界)
 ウ殃淹湫折爪舗檻

光明真言(オンアボキャベイロシャノウマカボダラマニハンドマジンバラハラバリタヤウン)   

2007年02月26日
読経録音盤:『檀信徒のおつとめ』法圓寺・歓喜寺
読経録音盤:『檀信徒のおつとめ』法圓寺・歓喜寺

https://drive.google.com/open?id=1Rr7k33VMylRlpwBDn8T7cWJ9CfgKi7HA  ←読経録音盤です。これを聞きながら下の経典を                           をご覧ください。



2006年02月26日
子供達の元気な声をがにぎやかである
 最近、法圓寺の境内がにぎやかになってきている。
今年に入って急にそうなってきている。子供達の元気な声をがにぎやかであることは嬉しいものである。小さな子供達を連れた母親達のたまり場にもなっているし、小学生はもちろん中学生達のたまり場にもなっている。昔とは違い世代ごとに時間帯がずれるが、よく集まって楽しそうに団らんしている光景は、何ともいえずほほえましくなる。
 秋葉三尺坊の境内を一部を、子供の遊び場として、解放して久しい。町内会からの要請を受けてということであった。遊び場には、町で用意した砂場やブランコ、滑り台、鉄棒、うんてい、などがある。このような遊び場は、町に三十箇所ほど作ったが、利用度と管理の問題で、社会福祉協議会が「そんなに金をかけられない。利用者である町内会で管理しなさい。」ということになって、誰が管理するかいつも金銭のかかることゆえ、互いにたらい回ししながら、しかし、何とか今日まで持ちこたえてきた。法圓寺の遊び場は比較的利用度が高いという申し入れが小学校の校長先生からあったりで、町内会と町とで遊び場を確保することになり、毎月一回町内周り番で遊び場を掃除していてくれる。以前は、遊び場も草がぼうぼうであれていたが、今はすっかり、いつもきれいになっている。見えないところで、近所の人たちが奉仕作業をしてくれているのだ。
 秋葉山の境内には昔から蓮池という心池があるが、近年は水路の水があまり流れ込まないし、生活排水が流れ込み、すっかりドブ化して、いわゆる、寺の池らしくないが、とにかく、ザリガニが繁殖し、ここ数十年、ザリガニ採りの子供達でいつもにぎやかである。この傾向は二.三世代に渡っている。ザリガニがいれば蓮の花は咲かないし、池をきれいにして、錦鯉でもいるようにすると、子供達の遊び場にはならない。最近も、誰かが、水芭蕉の花を咲かせられるかもしれないとこの池の畔に苗を植えてみたが、結局、子供達に踏みにじられてしまい、かなりショックであったようだ。かといって、この池をドブのままにしていれば、その背景に環境汚染の問題が潜む。自然の良い環境を確保するには周りの環境に依存しているだけに、境内内だけではどうしようもない。
かえって、小さな池を保存する方がやりやすいのかもしれない。
 享保年間のこの寺の伽藍に比べれば(境内の図が句集『田植塚』に残っている)、この寺には山門はないし、周囲を結界する塀もなく、一部フェンスはあるものの、隙間だらけの寺で、何とか江戸時代の頃のような状態になったらいいのになーと、小さい頃から感じていたが、これも最近、あるおばあさんの「このお寺はどこからも入ることができて、ほんとにいいですねー。こういうお寺は他にないですよ。いつも通らしてもらう度に、そう感じているのです。」という一言で吹き飛んでしまった。なるほど、誰でもが佛の温もりに触れられる寺が大事なのかもしれない。
 門を作り塀を回すより、本尊大日如来の懐に遊ぶ温もりを大事にしなければと感ずる次第である。

2006年02月26日
弘法大師(こうぼうだいし)御略歴
弘法大師(こうぼうだいし)御略歴

『空海(くうかい)』(七七四〜八五三)
 
 真言宗(しんごんしゅう)の開祖。
 密号(みつごう)(灌頂(かんじょう)を受けたときに授けられた名前)を遍照金剛(へんじょうこんごう)と号せらる。

讃岐(さぬき)(香川県)の人。姓は佐伯(さえき)氏。幼名は真魚(まお)と伝わる。

十五歳のときに都に遊学され、のち山野に七年、久修練行(くしゅうれんぎょう)された。(謎の七年間)。
飛鳥(あすか)(奈良県)の久米寺(くめてら)で『大日経(だいにちきょう)』を感得されたが解せず、延暦(えんりゃく)二十三年(八〇四)入唐(にっとう)され、長安(ちょうあん)青竜寺(しょうりゅうじ)の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)より密教(みっきょう)の奥旨(おうし)を受けられ、大同(だいどう)元年(八〇六)帰朝される。
 密教弘通(ぐずう)の勅許(ちょっきょ)を得られて、諸国を巡錫(じゅんしゃく)される。

 弘仁(こうにん)三年(八一二)京都の高雄山寺(たかおさんじ)で最澄(さいちょう)をはじめ多くの僧に秘密灌頂(ひみつかんじょう)をお授けになる。
弘仁(こうにん)七年(八一六)高野山(こうやさん)を下資(かし)され、金剛峰寺(こんごうぶじ)を開創された。

『三教指帰(さんごうしいき)』『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』『般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)』等の御著作が多く、また書(三筆の一人)や詩文にも長じられ、文化輸入、定着に大功労を尽くされた。

 承和(しょうわ)二年(八三五)高野山で御入定(ごにゅうじょう)。

 延喜(えんぎ)二十一年(九二一)弘法大師(こうぼうだいし)と勅諡(ちょくし)される。

2005年03月29日
襖絵『法の深山』 
【法圓寺に奉納された六枚の襖絵】吉田日貢画
 本堂の北側涅槃の間

 『法の深山』

法の深山のさくらばな

昔のままに匂うなり  

道の枝折りの跡とめて

さとりの高嶺の春を見よ

  一つの繪
 もうこんな処には人も住まないだろうと思うほどだいぶ山奥深く分け入った。突然、視界が開け、その山間の湖畔が目に入った。山また山が続くその谷間からはいくつかの滝がと渓流の流れがそこで合流しているのが一望できた。湖畔の向この丘の一角にはいくつかの民家がひっそり身を寄せ合うようにしてあった。さらに湖畔の右奥の方には石畳が山奥に続きそこを辿ると、山の中腹当たりに五重塔があり、さらに堂々とした立派な本堂が見えた。全てがスッポリと山々の気に溶け込んでいる。
 ちょうど私の傍に大きな山桜の木があって、見事に満開であった。その木の傍に腰を下ろし桜の花を楽しみながら、思いがけず出会った仙境の春の眺望にしばし時を忘れていた。あちこちで鶯が鳴き、時折峪わたる声が深くこだまし、微風がわたるたびに花びらが舞う。実に長閑である。岩肌が覗く山々には赤松が茂り美しく緑なし、遠く谷間の雲のように山桜があちこちに咲いてた。湖畔の色は何ともいえぬ美しく優しい青をしていた。あちらこちらから清流が流れ込みその水しぶきは白く輝き飛び跳ねていた。ずっと眺めているうちに、湖畔の左奥のほとりで蟻ほどに小さかったが、確かに人がたった独り、釣り糸を垂れて楽しんでいる姿に目がとまった。
 その途端、全山に一体に「いのち」の息吹が圧倒する力で漲った。天地自然の全てがドンとそこに一塊となって存在した。それはどこまでも広く、どこまでも閑かで、しかも「いのち」の本流で漲っていた。そこに、人がいなければ気づかなかった。そこに彼が座っていなければただの風景でしかなかった。
 いつの間にか、私は彼の傍らに座って湖畔を眺めていた。しばし、無言ながら会話を楽しんだ。
 この風景を描き出していたのは彼であった。彼は九十を遙かに超えた老人であった。大正時代に京都絵画美術専門学校を卒業し、長いことある宮家の日本画の御前教師勤めていた。明治・大正・昭和・平成の世界的な大転換機の激動の中を駆け抜けた人ではあったが、その境涯は仙境に棲む仙人のごとき人生で、その人柄を慕う人は絶えることはなかった。
決して奢ることなく、名声をきらい、真実の人として隠遁し、あう人ごとに天地自然の理を示し続け、苦しみ悩む者の縁となり道しるべとなっていた。しかし、彼が実際に住んでいたのは、市街地のど真ん中、すなわち市井にあって常に人々とともにあったのである。彼には家族はいたが、小さな一軒家に独り住まいであった。つい先日、この世を去った。程なくして、彼の住まいはマンションを建てるため取り壊されることとなり、彼の全ての遺品も含め二束三文で処分されることになった。たまたま知らずに現場を通りがかった彼を慕う方が、この古老が六枚の唐ベニヤの襖に描いた大傑作がまさに無造作にはずされ、ゴミと一緒に打ち捨てられていたのを発見、涙ながらに遺族に懇願し、もらい受け、供養とのため寺に奉納してきたのである。
 幸いなるかな!ここに無名の襖絵が残された。「独り生きること」の真の境涯を一枚の絵に顕した見事さは、見る者をしてして感動させて止まない。無名に徹したが故のすごさであった。釈尊の教えが人類にもたらされたことに匹敵する大作である。この無名の絵を天がこの世に残れたことに感謝したい。
                龍雲 好久


御檀家さまへ
 謹啓
 ようやく境内の梅の古木の花がちらほらと咲き始め、春彼岸の季節を迎えました。
 重たい雪が多い年でしたが
 みなさまいかがお過ごしでございましょうか。
 今年はうれしいことに、境内に
「八重桜」と「白木蓮」、それに姿のよい「しだれ桜」の木を篤信の方によって植えていただきまして、ことのほか花を楽しむことができそうです。
 さらに、本堂内には満開の桜が描かれた『法の深山』の日本画の襖絵が六枚奉納頂きました。
 『一つの繪』に書いてあるとおりのいきさつでこれも篤信の方によってご寄進頂き、襖戸としてはめて頂き、常設しております。画家は匿名希望です。大正期に京都絵画美術専門学校を卒業なされ、宮家の御前教師を勤められた方ですから、その最良は推して知るべしです。昭和初期に受勲を受けられていましたが、名声を嫌い、市井に隠遁されたまま生涯を送られた方ですが、慕われた訪れる方は多かったと聞きます。この絵はご本人がもっとも大事にしておられたものです。孤高の境涯を示す画風がごく自然に醸し出されている最高傑作で、唐招提寺のや総本山長谷寺の襖絵に引けをとらないと思います。何よりのご供養をちょうだいすることができ、深く感謝しております。
 お寺にお参りの節はどうぞお気軽にお楽しみください。
 合掌
  平成一七年三月一七日

 


2003年03月25日
往昔からそこに在るが如く梅古木
法圓寺には「黄金天神」といって、360年ほど前、法圓寺の境内に祀られた天神様があります。
天神様は学問の神様で知られた菅原道真公です。「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて 春なわすれそ」 小職、去年出遭った 雑梅の大木が忘れられず、とうとう思い切って、境内に植えてしまいました。「往昔からそこに在るが如く梅古木」 天神様が喜んでくださって、何より嬉しかったです。

2003年04月12日
お大師さま(弘法大師石像)八十八体復元
    お大師さま(弘法大師石像)八十八体復元の趣意
        
 當山法圓寺の境内に、破損の著しい「お大師さま」(弘法大師)の石像が三十数体あります。寺に記録が残っておらず、詳しいことはわかりませんが、この石像はかなり古いもので、江戸時代のもののようです。古老の話によりますと、昔は八十八体あったということです。その当時・仏法興隆・寺檀繁栄・子孫長久・二世(あの世とこの世)安楽を特別に願って、きっと、當山の先師やご先祖さまたちが弘法大師に篤い信仰を寄せ、みんなでお祀り申し上げたのでしょう。昔から大勢の人々がお参りされてきたものであります。しかし、長い間風雪に晒され、風化が激しく、痛々しくもほとんどのお首すらもげている現状でした。
 幼い頃、このお大師さまのもとで遊ばれた記憶をお持ちの方も多数おいでになり、この度、何とか八十八体のお大師さまを復元できないかというお声が持ち上がりました。當山としましても、お大師さまは真言宗の御宗祖さまでありますから、先師や先祖のお心を絶やすことのないよう、復元できればまことにありがたいことでありますので、寺の役員のみなさまにお諮りいたしましたところ、「是非実現いたしましょう。」ということで、このたびの「お大師さま一体一体のご寄進を仰ぐこと」となりました。おかげさまで、ご寄進くださる方がすぐに集まりまして、ここに、弘法大師石像八十八体を復元奉納させていただくことができました。
 また、中央にお祀りしてある「修行大師」のお像は弘法大師一一五〇年御遠忌記念に當山檀信徒のみなさまにより建立奉納いただいたものですし、そのお大師さまの御足下に納めましたお四国八十八カ所のお砂は、當山の総代・故佐藤酉三氏がお四国霊場を巡拝されたものをご奉納いただいたものであります。このたび併せてお祀りすることが出来ました。
 弘法大師お四国八十八カ所霊場巡拝のご功徳、ご加護を頂戴すべく、みなさまお参りくださいますように。當山としましても世界平和、萬民豊楽、伽藍安穏、興隆仏法、檀信徒各位家内安全、子孫長久、父母師長・六親眷属・現当二世安楽ないし法界平等利益をご祈念申し上げたく、ここに弘法大師石像八十八体建立の趣意を申し述べさせていただきました。           

2003年04月12日
『十三佛』
法圓寺『十三佛』・『光明真言曼荼羅』とその「裏書き」のこと       
 『十三佛』画と『光明真言曼荼羅』は今から三百年ほど前(宝永正徳年間)に庫裡新築した折り、仏法興隆・寺檀安寧を祈願して奉納された仏画曼荼羅でございます。旧庫裡の反古の山に埋もれておりましたが、光輝を放つような何かを感じまして、無意識に其の包みをほどいてみましたところ、二幅の軸物がぼろの中から出て参りました。開いてみますと、なんとそれは、昭和二年の庫裡普請の折りに修復して永久保存を願ったご本尊の曼荼羅でありました。「あっと」息をのむ程の驚きと、危うくゴミとともに処分してしまうところでありましたので、かなり愕然といたしました。おもわず手がふるえるのをとめることができませんでした。三百年もの間、人の目に余りふれることなく、寺檀をおまもりくださっておられた曼荼羅尊でございます。かなり古いものとはいえ立派で見事な曼荼羅尊ですから、本来ならば、とても貴重な文化財になるものなのでしょう。
  近年を含め法圓寺は住職がいない時代が何度かありました。そのたびに貴重な古書の類や記録などが消えてしまい、今日ではいくら探してみましても寺にはほとんど遺っておりません。その中で重宝中の重宝であるこの曼荼羅は、法圓寺にとりまして境内に残る町指定の文化財『田植塚』や俳諧誌『田植塚』(享保四年)よりも、10年ほど古い(宝永正徳1700年頃)ものですから、希有の中の希有なる寺宝といえるでしょう。
  これはきっとご本尊や歴代の先師尊霊・ご先祖の方々が、今回の庫裡客殿建立に際し励ましてくださっているのでございましょう。お寺の事業は個人一代限りの事業ではないことを痛感いたします。


◎ 『十三佛』画一幅の「裏書き」
(法圓寺十七世・先師乗賢大和尚記)
           
「 予 明治26年11月高野山より来たり 当法圓寺の住職す 庫裡改築の已むなきに迫り 昭和二年六月工を起こす 旧屋解除の際 棟下煤塵中より鼠窩(ねずみのす)に似たる故紙塊を発見す 能く此を査するに十三佛尊と光明曼荼羅の二軸なり 外部の表装は腐蝕片々なれども 内部の尊影は五彩鮮明 画色輝々威容厳装として光を放ち玉ふ 記録の徴すべきなければ 旧庫裡の建築年代は不明なりといへども 彼れ此れ内外の事情を綜合するに 宝永正徳の頃(西暦1700~1710年)ならんか 其の落成の当時 正法興隆 除災与楽 の加護を与はんがために 此の二軸を棟木の緊縛をかれしものならん 嗚呼 其の願主の崇高なる信念は実に尊むべきなり 二百余年の歳月を経て今日まで尊影の厳存したもうは尊き限りというべし事 値遇因縁の深きを歓喜し 仮に表装修補を施し 当寺の什宝として永く後代に伝へんとす 当寺を継がるる法師 能くこの事由を認識し 保管に注意あらん事を希望**するなり(希望してやみません。)
 時維昭和五年一月十九日 朝日山 法圓寺 十七世 今井乗賢 老年記之」 


  今井乗賢大和尚は明治26年から昭和16年にご遷化なされるまで約50年近く法圓寺の住職をつとめられました。「過去帳」などお寺に残された数少ない資料をみましても、大和尚は法圓寺再興に並々ならない功徳力を尽くされた和尚で、不出生の名住職であったことがうかがえます。

2006年02月26日
『光明真言曼荼羅』
  法圓寺『十三佛』・『光明真言曼荼羅』と
 その「裏書き」のこと       
                                    『十三佛』画と『光明真言曼荼羅』は今から三百年ほど前(宝永正徳年間)に庫裡新築した折り、仏法興隆・寺檀安寧を祈願して奉納された仏画曼荼羅でございます。旧庫裡の反古の山に埋もれておりましたが、光輝を放つような何かを感じまして、無意識に其の包みをほどいてみましたところ、二幅の軸物がぼろの中から出て参りました。開いてみますと、なんとそれは、昭和二年の庫裡普請の折りに修復して永久保存を願ったご本尊の曼荼羅でありました。「あっと」息をのむ程の驚きと、危うくゴミとともに処分してしまうところでありましたので、かなり愕然といたしました。おもわず手がふるえるのをとめることができませんでした。三百年もの間、人の目に余りふれることなく、寺檀をおまもりくださっておられた曼荼羅尊でございます。かなり古いものとはいえ立派で見事な曼荼羅尊ですから、本来ならば、とても貴重な文化財になるものなのでしょう。
  近年を含め法圓寺は住職がいない時代が何度かありました。そのたびに貴重な古書の類や記録などが消えてしまい、今日ではいくら探してみましても寺にはほとんど遺っておりません。その中で重宝中の重宝であるこの曼荼羅は、法圓寺にとりまして境内に残る町指定の文化財『田植塚』や俳諧誌『田植塚』(享保四年)よりも、10年ほど古い(宝永正徳1700年頃)ものですから、希有の中の希有なる寺宝といえるでしょう。
  これはきっとご本尊や歴代の先師尊霊・ご先祖の方々が、今回の庫裡客殿建立に際し、再発見されましたことは、後進の私どもを励ましてくださっておられるように思います。
 
◎ 『光明真言曼陀羅』画一幅の「裏書き」
   法圓寺先師十七世 今井乗賢大和上 記す

私が明治二六年十一月 高野山より 此の法圓寺に住職致しましたが 本堂の改造から 庫裡住宅の新築を思ひ立ち 昭和弐年六月 工を起こし 普請を着手致し その古舎旧屋を解除の際 棟柱煤塵の中より 一の故紙塊を発見致しました 尊くもそれは十三佛の画幅に 此の光明真言曼陀羅の一軸でありました 外部の表装は 片々腐蝕すれども 内部は五彩鮮明画色輝赫 毛も損裂を見ず 記録の徴すべきなき故 建築の年代不明なるも 内外の事情を綜合するに 宝永正徳の頃ならんか 其の建築落成の当時 正法興隆 除災与楽のために 此の二軸を棟柱の中央に緊縛勧請せられしものならん 其の願主の崇高なる信念は実に尊むべきであります 私は其の値遇因縁の深重なるを歓喜し 表装修補を施し 記念として 永く後代に遺したいと思います 当寺を継がるる後董の法師 此の意を諒(あきらかに)し 保管に注意せられんことを希望にたえません(希望してやみません)
時維 昭和八年十月二十三日 福島県伊達郡桑折町朝日山 法圓寺 十七世二等司教大僧都 今井乗賢老年 七十四歳 記之

2003年05月19日
「美ちのくの 伊達の郡の 春田かな」  (富安風生真蹟)
この度、若葉同人・三谷貞雄先生のたっての希望とおよび若葉同人・故斎藤黄鶴楼翁の御家族、特に斎藤 謙氏のご尽力により、若葉主宰・富安風生先生の「春田かな」の句碑を建立することが叶いました。

富安風生(謙次)先生
若葉主宰
昭和11年 逓信次官
昭和49年 日本芸術院会員
昭和54年2月22日永眠  行年95歳

2003年05月19日
300年の時を経て今なお芭蕉翁追善
享保四年(1719)に建立さた法圓寺の「田植塚」の傍に、小職好久が長いこと念願しておりました
松尾芭蕉の真蹟「風流の初めやおくの田植うた」の句碑と
(芭蕉が須賀川で詠んだ句の真蹟をこの塚に埋めて供養したという故事に由来して、芭蕉の真筆を石に刻みました。)
同じく享保四年(1719)に発刊されました『俳諧田植塚』の原本の序文とその当時の法圓寺の境内図を石に刻むことができました。
石はある檀家の方から奉納していただいたものです。


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