徒然なるままに
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如来性から顕れる守護の霊は「全的無行為」によりすべてのいのちを導かれる | ||
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主な更新情報
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度重なる地震の影響で傾きかけている本堂で修法(瞑想)をしている。
少しの風でも、あちこちの柱がきしみ、がらんとした堂内に響く。地震前と明らかに異なるきしみ音が大きくなっている。
寺が建立されておおよそ四百年弱。東日本大震災や今回の福島県沖地震などによって、このきしむ音に不気味さをおぼえざるを得ないが、また、しかし、それは、今なお、大地にしっかり立とうとしている木造の柔軟さ、傾きから少しでも戻ろうとする木造の意志のようなものがあのではないかとさえ思うほど、四百年近く維持されてきたこのお堂の必至さに、逆に、心が打たれるのである。
ふと、いま、世界が混乱している事態に、われわれの守護の霊があるというものならば、彼らは、いま、いったい、何をお思い、どう導こうとしておられるのだろうかという素朴な疑問が湧いてきた。そして、古代の哲学者プロティノスが「神のはからい」や「われわれを割り当てられた守護霊について」のくだりを思い出していた。
というのも、小生は、学生の頃、霊性を模索していたときに、ひとは見えざる世界から、魂の兄弟である守護霊の導きを得ており、この世にあるものの如く、その見えざる守護者と対話することも可能であるという現象を示す者に何度となく遭遇したことがあったからだ。
彼らが示すその不可思議なる守護の霊の現象とプロティノスの思索で語られる守護霊とは、果たして、本質的に同一のものであるのか?という疑問があった。
現代にあって、地球規模で多くの人々が、いま、この現象世界において、疫病や災害による孤立化を余儀なくされている中、いったい、守護霊は、見えざる如来性から、我々に、何を問い、どのように我々を導こうとされておられるのか。そして、その守護の霊の導きを我々が如実に受け取ることは可能なのであるか?という素朴な問いであった。
プロティノスは、次の如く思索する。
では、だれが(あの世界でわれわれを導く)守護霊(ダイモーン)となるのであろうか。
この世で、守護霊であった者が、守護霊となる。(中略)
人々の守護霊は、その人のこの世の生き方を支配している原理(理性的、感覚的、もしくは植物的原理)より上位のもので、活動せずして統治(全的無行為による統治)し、活動するものに承認を与え、導くものである。(中略)
つまり、魂というものは多であり、すべてであって、上位のものであるとともに、下位のものでもあり、生命の全体に及んでいるものである。(略)
では、こうした守護霊との対話は、如何にして起こりうるのであろうか。この修法によって問うことは可能であろうか。
すると、この問いとは無関係に、次のような念い(心の響き)がした。
まず、修法(瞑想)は、そのような経験を継続したり、拡張したりすることではない。
なぜなら、経験を基に、それを継続し拡張しようとすることは、それを意志すること自体、自我であり、目撃しようとする者であり、経験という過去に縛られている行為にほかならない。これは、全く、修法(瞑想)とは異なる次元の行為である。
ブッダが示された修法(瞑想)は、あらゆる経験の主体となっている自我の活動を終わらせることであった。全的無行為、すなわち、自我の活動が終わることで、はじめて、精神、心は無碍自在となり、本来の行為と化す。それが、如来性の全的無行為といわれるものである。
経験に執着し条件付けられた自我の行為は、まさに、経験が過去に根ざすものであり、時間に縛らるが故に、そのことが、生の現実、実相と解離せざるを得ず、この、二元性が、すべての錯誤と混乱をもたらす要因となるというのである。
生の現実は刻々であり、過去は過ぎ去ったものである。しかるに、刻々の新たなる今の事実をまのあたりにして、その、まのあたりの事実を直視できない結果を恐れる不安と恐怖が根底にある。それでうまくいけば喜び、うまくいかなければ混乱に陥る。所詮、心のざわつきにすぎず、こうした自我による経験に依存する行為は、想定外の生の現実には無策であることを思い知らされる。経験や信念に対する過信や妄信はこうした現実の生にあっては錯誤と混乱を生み出す要因でしかないことに気づかざるを得ない。
まさに、いま為さんとする修法(瞑想)とは、あるがままの事実を如実に直視することにある。
ゆえに、修法(瞑想)の本質は経験の堆積に対する、不断の、無意識的、意識的浄化にある。一日のある時間を限って行うようなものではない。それは、朝から夜まで、見るものによらず、しかも、絶えず、ひたすら、見ることそのものから顕れる如実の行為である。
それゆえ、ひたすら見る行為においては、日々の生活と修法(瞑想)、宗教的生活と俗世の生活との間における区別はない。そのような区別は見るものが時間に縛られているときにだけ生じるものである。そして、そのような区別こそ、混乱や不幸を生じさせているもとであることに気づけるのは、生の現場にたつもののみである。如来性の無行為は生の現実に立つ汝の如実の行為をおいて他にない。。
なんとなれば、修法(瞑想)は、自我主体の個人的なものでも、自我集団の社会的なものでもなく、いずれをも超越しており、それゆえ、そのいずれをも含むものであるからである。
それこそは、愛であり、叡智であり、慈悲であり、不生の仏心であり、自我によっては決して推し測ることのできないものである。この、自我によっては決して推し測ることのできない慈愛の仏心の開花こそが、修法(瞑想)の証であり、まさに行為そのものに他ならない。この全的無行為といわれる、我々の如実の行為こそが、あらゆる困難と苦悩を終わらせ、創造的生に導くものである。この如来性をもたらすものは、不断の修法(瞑想)にほかならない。・・・・・
この、響きを聞いた後、それではと、すかさず、次なる愚問を発した。
見えざる世界における守護霊や諸天善神、天使や大天使、神、菩薩や如来等に対し、祈念を凝らすことは、苦悩に直面しているわれわれの自我の主体が経験的に修学的に生み出す逃避の幻影に過ぎざるものだというのであろうか。
すると、
守護霊は、厳然と、存在している。それは、如来性そのものにほかならないからだ。ゆえに、守護霊は自我の働きや行為とは無縁でありながら、なお、生命全体の全的無行為を通じて、日々の生活と修法(瞑想)、宗教的生活と俗世の生活との間に区別なく、厳然として、汝を直接導くものである。
われわれは、自我の喧噪に翻弄されている自身をあるがままに観察し、自我の喧噪が止んだとき、そこに、自ずと、天真爛漫で無碍自在な慈悲と愛と叡智の働き手としての行為に導かれる。そこには、われわれと守護霊の乖離はなく、一つである。
......
度重なる地震の影響で、東側の柱が、くの字に折れ曲がり、本堂全体が東側にひどく傾いてしまった。このままでは、ほんのちょっとした揺れでも倒壊を免れることはできない。大急ぎで、くの字に折れ曲がった八本の柱を、レンチで少しずつ戻し、鉄骨で補強し、多少の地震にもしばらくは耐えられるよう工事を進めていただいている。奇しくも、その鉄骨の支柱を添えた瞬間に、まるで、その効果のほどを試すかのように、震度5弱や震度4の余震に見舞われたが、大丈夫であった。
おかげさまで、これまで、少しの風でも激しくきしんでいた本堂の柱が全く動じなくなり、閑かである。いま、修法(瞑想)していて、これが何よりも有難いことであり、自分の都合を投げたして、寺の非常事態に全力で当ってきださる方がおられたおかげであり、まさしく、如来性の賜のようであり、必死に寺の保全に努め、協力してくださる方々に、深く、深く、感謝を捧げたい。
龍雲好久
被災状況と修復工事進捗状況(被災し、危険箇所を優先して、わずかずつながら、一部修復し始めました)










