朝日山萬歳楽院法圓寺


徒然なるままに




如来性から顕れる守護の霊は「全的無行為」によりすべてのいのちを導かれる


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2021年06月03日  度重なる地震の影響で傾きかけている本堂で修法(瞑想)をしている。



 度重なる地震の影響で傾きかけている本堂で修法(瞑想)をしている。
 少しの風でも、あちこちの柱がきしみ、がらんとした堂内に響く。地震前と明らかに異なるきしみ音が大きくなっている。
 寺が建立されておおよそ四百年弱。東日本大震災や今回の福島県沖地震などによって、このきしむ音に不気味さをおぼえざるを得ないが、また、しかし、それは、今なお、大地にしっかり立とうとしている木造の柔軟さ、傾きから少しでも戻ろうとする木造の意志のようなものがあのではないかとさえ思うほど、四百年近く維持されてきたこのお堂の必至さに、逆に、心が打たれるのである。

ふと、いま、世界が混乱している事態に、われわれの守護の霊があるというものならば、彼らは、いま、いったい、何をお思い、どう導こうとしておられるのだろうかという素朴な疑問が湧いてきた。そして、古代の哲学者プロティノスが「神のはからい」や「われわれを割り当てられた守護霊について」のくだりを思い出していた。

 というのも、小生は、学生の頃、霊性を模索していたときに、ひとは見えざる世界から、魂の兄弟である守護霊の導きを得ており、この世にあるものの如く、その見えざる守護者と対話することも可能であるという現象を示す者に何度となく遭遇したことがあったからだ。
 彼らが示すその不可思議なる守護の霊の現象とプロティノスの思索で語られる守護霊とは、果たして、本質的に同一のものであるのか?という疑問があった。

 現代にあって、地球規模で多くの人々が、いま、この現象世界において、疫病や災害による孤立化を余儀なくされている中、いったい、守護霊は、見えざる如来性から、我々に、何を問い、どのように我々を導こうとされておられるのか。そして、その守護の霊の導きを我々が如実に受け取ることは可能なのであるか?という素朴な問いであった。

 プロティノスは、次の如く思索する。

 では、だれが(あの世界でわれわれを導く)守護霊(ダイモーン)となるのであろうか。
 この世で、守護霊であった者が、守護霊となる。(中略)
 人々の守護霊は、その人のこの世の生き方を支配している原理(理性的、感覚的、もしくは植物的原理)より上位のもので、活動せずして統治(全的無行為による統治)し、活動するものに承認を与え、導くものである。(中略)
 つまり、魂というものは多であり、すべてであって、上位のものであるとともに、下位のものでもあり、生命の全体に及んでいるものである。(略)

 では、こうした守護霊との対話は、如何にして起こりうるのであろうか。この修法によって問うことは可能であろうか。

 すると、この問いとは無関係に、次のような念い(心の響き)がした。

 まず、修法(瞑想)は、そのような経験を継続したり、拡張したりすることではない。

 なぜなら、経験を基に、それを継続し拡張しようとすることは、それを意志すること自体、自我であり、目撃しようとする者であり、経験という過去に縛られている行為にほかならない。これは、全く、修法(瞑想)とは異なる次元の行為である。

 ブッダが示された修法(瞑想)は、あらゆる経験の主体となっている自我の活動を終わらせることであった。全的無行為、すなわち、自我の活動が終わることで、はじめて、精神、心は無碍自在となり、本来の行為と化す。それが、如来性の全的無行為といわれるものである。

 経験に執着し条件付けられた自我の行為は、まさに、経験が過去に根ざすものであり、時間に縛らるが故に、そのことが、生の現実、実相と解離せざるを得ず、この、二元性が、すべての錯誤と混乱をもたらす要因となるというのである。
 生の現実は刻々であり、過去は過ぎ去ったものである。しかるに、刻々の新たなる今の事実をまのあたりにして、その、まのあたりの事実を直視できない結果を恐れる不安と恐怖が根底にある。それでうまくいけば喜び、うまくいかなければ混乱に陥る。所詮、心のざわつきにすぎず、こうした自我による経験に依存する行為は、想定外の生の現実には無策であることを思い知らされる。経験や信念に対する過信や妄信はこうした現実の生にあっては錯誤と混乱を生み出す要因でしかないことに気づかざるを得ない。

 まさに、いま為さんとする修法(瞑想)とは、あるがままの事実を如実に直視することにある。
 
 ゆえに、修法(瞑想)の本質は経験の堆積に対する、不断の、無意識的、意識的浄化にある。一日のある時間を限って行うようなものではない。それは、朝から夜まで、見るものによらず、しかも、絶えず、ひたすら、見ることそのものから顕れる如実の行為である。

 それゆえ、ひたすら見る行為においては、日々の生活と修法(瞑想)、宗教的生活と俗世の生活との間における区別はない。そのような区別は見るものが時間に縛られているときにだけ生じるものである。そして、そのような区別こそ、混乱や不幸を生じさせているもとであることに気づけるのは、生の現場にたつもののみである。如来性の無行為は生の現実に立つ汝の如実の行為をおいて他にない。。

 なんとなれば、修法(瞑想)は、自我主体の個人的なものでも、自我集団の社会的なものでもなく、いずれをも超越しており、それゆえ、そのいずれをも含むものであるからである。

 それこそは、愛であり、叡智であり、慈悲であり、不生の仏心であり、自我によっては決して推し測ることのできないものである。この、自我によっては決して推し測ることのできない慈愛の仏心の開花こそが、修法(瞑想)の証であり、まさに行為そのものに他ならない。この全的無行為といわれる、我々の如実の行為こそが、あらゆる困難と苦悩を終わらせ、創造的生に導くものである。この如来性をもたらすものは、不断の修法(瞑想)にほかならない。・・・・・ 
 
 この、響きを聞いた後、それではと、すかさず、次なる愚問を発した。

 見えざる世界における守護霊や諸天善神、天使や大天使、神、菩薩や如来等に対し、祈念を凝らすことは、苦悩に直面しているわれわれの自我の主体が経験的に修学的に生み出す逃避の幻影に過ぎざるものだというのであろうか。

 すると、

 守護霊は、厳然と、存在している。それは、如来性そのものにほかならないからだ。ゆえに、守護霊は自我の働きや行為とは無縁でありながら、なお、生命全体の全的無行為を通じて、日々の生活と修法(瞑想)、宗教的生活と俗世の生活との間に区別なく、厳然として、汝を直接導くものである。
 われわれは、自我の喧噪に翻弄されている自身をあるがままに観察し、自我の喧噪が止んだとき、そこに、自ずと、天真爛漫で無碍自在な慈悲と愛と叡智の働き手としての行為に導かれる。そこには、われわれと守護霊の乖離はなく、一つである。
......

 度重なる地震の影響で、東側の柱が、くの字に折れ曲がり、本堂全体が東側にひどく傾いてしまった。このままでは、ほんのちょっとした揺れでも倒壊を免れることはできない。大急ぎで、くの字に折れ曲がった八本の柱を、レンチで少しずつ戻し、鉄骨で補強し、多少の地震にもしばらくは耐えられるよう工事を進めていただいている。奇しくも、その鉄骨の支柱を添えた瞬間に、まるで、その効果のほどを試すかのように、震度5弱や震度4の余震に見舞われたが、大丈夫であった。

 おかげさまで、これまで、少しの風でも激しくきしんでいた本堂の柱が全く動じなくなり、閑かである。いま、修法(瞑想)していて、これが何よりも有難いことであり、自分の都合を投げたして、寺の非常事態に全力で当ってきださる方がおられたおかげであり、まさしく、如来性の賜のようであり、必死に寺の保全に努め、協力してくださる方々に、深く、深く、感謝を捧げたい。

 
                                                                        龍雲好久
被災状況と修復工事進捗状況(被災し、危険箇所を優先して、わずかずつながら、一部修復し始めました)

徒然なるままに



いま、萬歳楽山から感受するもの



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令和3年6月12日 土曜日 萬歳楽山と普賢金剛について



いま、萬歳楽山によって示されていると感じるもの    龍雲好久

@萬歳楽山は、「宇宙の根源にして、個々の生命の基本たる、無始無終の普門本體の金剛サッタ即ち本初佛たる普賢金剛サッタの性海より、大日、阿シュク、寶生、彌陀、不空成就の五佛を始め、神々樣々の色身を示現し、種々様々の説法と、種々樣々の意慧を啓示する妙用の立體曼荼羅の山である」こと。

A宇宙の根源にして、個々の生命の基本たる、無始無終の普門本體の金剛サッタ(普賢金剛とも、普賢法身等とも云ふ)は第六會の金剛頂經たる廣本の般若理趣經などで、 これを最上根本佛(Paramadya-buddha)と云ひ、『文殊菩薩最勝名義經』(Namasamgiti) などでは、本初佛 (Adi-buddha)として示されているものであること。

B萬歳楽山が普賢金剛サッタの曼荼羅壇であるが故に、萬歳楽山の供養の儀軌として『般若理趣經』の解が求められていたこと。

Cゆえに、萬歳楽山は無始無終の普門本體の金剛サッタ即ち本初佛たる普賢金剛サッタであり、この普賢金剛サッタによって、萬歳楽山にとって『般若理趣経』は重要でありで、『般若理趣経』の「ブッダ親説に基づく阿字本不生の解」に必然的に導かれていること。

D萬歳楽山そのものが、制底(Caitya)であり、仏塔であり、卒塔婆であり、曼荼羅であること。
ジャワのボロブドールのような人造の建造物ではなく、自然界に潜象・現象が互換重合して顕現した山であり、仏塔であり、卒塔婆であり、曼荼羅であること。

Eなにゆえ、萬歳楽山に無始無終の普門本體の金剛サッタ即ち本初佛たる普賢金剛サッタが顕現しているのであるのか?

 その理由として考えられることは、これまでややもすると見失われがちな「ブッダ親説の阿字本不生」の覚醒による人類意識の変革が、いま、不可欠であるからであろう。

 すなわち、これまで、

人類が虚妄の思想や宗教やイデオロギーの謬見に堕していることへの警鐘と、

物質に片寄りすぎた文明の発達により衰退化した天地自然や宇宙に対する直感的感受能力の回復

潜在・現象の重合による天地創造の実相を把握し、それが故の金胎両部不二の体・相・用であることが直観できなければ、人類は、果てしなき我欲の権化と化し、滅びの一途をたどるしかない、破滅の絶壁に、いま、立っているからであろう。

 よって、法身塔とは現象と潜象の三身仏の塔であり、卒塔婆であり、曼荼羅である。

 ここに奉安すべきは、

 龍樹の『般若論』の「帰敬偈」に知覚されている「ブッダ親説」そのものであること。

そして、それは、まさに、万生万物一つ一つの「いのちの核心」に据えられた大宇宙体の根本原理であること。

龍樹の『般若論』の「帰敬偈」に知覚されている「ブッダ親説」とは、

 滅するのでなく、生ずるのでない。断滅でなく、常住でない。一たるものでなく、区別
のあるものでない。 来るのでなく、去るのでない。と、その方は戯論の寂滅した吉祥な「縁起生」を説示なさった正覚者である。そのよ うな説教者の最勝の方に私は敬礼する。

である。

Fしたがって、法圓寺に度々出現し続ける氷の聖像や三角四面体によって導かれたところのハーッタッククの『エノクの鍵』や楢崎皐月の『日本の上古文明と日本の物理』や日本の『記・紀』、『旧事紀』、や空海の傳持の金胎両部不二の曼荼羅や両部神道の『十種神寳』・『麗気記』などは、神話や密教における単なる標示や象徴というより、厳然として作動し続けている天地創造における「潜象と現象」の互換重合による実相としての幾何学構造を如実に示したものであることにほかならないこと。

 まさに、宇宙の根源にして、個々の生命の基本たる、無始無終の普門本體の金剛サッタ即ち本初佛たる普賢金剛サッタの阿字本不生の先験なる性海より、大日、阿シュク、寶生、彌陀、不空成就の五佛を始め、神々樣々の色身を示現し、種々様々の説法と、種々樣々の意慧を啓示する妙用の刻々に新生創造している立體曼荼羅であることを如実に示すものであること。

Gよって、『般若理趣経』は普賢金剛サッタのことを、「大樂金剛不空真實三味耶」と云ひ、これを呼ぶに最高本初佛、即ち最上根本佛(Paramadya-buddha)の名を以てして居り、それがゆえに、「大樂金剛不空真實三味耶」がブッダ親説の「阿字本不生」であることを自覚せねばならない。

 「阿字本不生」はゴーダマシッタールタ釈迦牟尼佛・ナガールジュナ龍猛菩薩・龍智菩薩・金剛智三蔵・不空三蔵・善無畏三蔵・一行阿闍梨・恵果阿闍梨・弘法大師空海によ傳持された秘法である。

 それを現代に甦らせるために、その根底にブッダ親説とJ・クリシュナムルティのコメンタリが重要であった。これにより、人類は虚妄から自由になって阿字本不生に供応する原理を感受できるのであろう。

I最近の『万物の理論』や『新宇宙論』が、仮説とはいえ、古来より自然現象への直観や宗教的覚醒によって神話や宗教的象徴として示された阿字本不生の潜在現象の法理に肉薄しつつあること。

J最新の宇宙理論にも、ブッダ親説が指摘する「虚妄性や欺瞞性に対する厳粛なる検証」が求められており、絶対主義や教条主義的宗教の欺瞞性を喝破しつつあること。

Kしたがって、人間の欺瞞性に対し、厳しく迫り、無始無終の普門本體の金剛サッタ即ち本初佛たる普賢金剛サッタの「大樂金剛不空真實三味耶」を証すことが重要であること。

Lわれわれが、日本の神話や両部神道以前に伝えられてきた天地自然の潜象と現象の物理への直観性を取り戻し、確立することが、いま、ここで、真に問われているのではないかということ。

Mかくの如くに萬歳楽山登嶺をなすべし。

 萬歳楽山における方壇五層の繞道に於ける見えざるものの佛像、並びににそのビジョンは、本初佛としての金剛サッタ、即ち普賢金剛の性海より發現する妙用を示すものであると。その妙用を本性の上から分類すると、

金剛不壊の菩提心、換言せば、心の眼を開いて宇宙の本體たる大生命に合一する金剛部の妙用と、

至る所に宇宙の寶を發見して、これを公正に使用する寶部の妙用と、

宇宙特に萬生萬物の本性を實の如くに觀察して、その自性があたかも蓮華の泥中に生じてその汚泥に染まらない如くに清浄のものなることを了知し、互いの自己確立を敬い、慈しみの調和に満ちた世界を響かせる蓮華部の妙用と、

自ら宇宙の大生命としての活動體なることを悟ると共に、如何なる艱難や迫害に遭遇しても、撓まず屈せず新生創造する精進の羯磨部の妙用

との四種となり、

これを六波羅蜜につきて云へば、

金剛部の妙用は、菩提心を以て戒とする尸羅波羅密にして忍辱波羅蜜を兼ね、

寶部は壇波羅蜜

蓮華部は般若波羅蜜にして禪那波羅蜜を攝し、

羯磨部は精進波羅蜜と云ふことになつて居るのである。

更にこれを、現代的に意を迎へて云へば、

金剛不壊の生命の世界と、

寶の世界と、

愛の世界と、

自由活動の世界

になるので、この四世界を順次に主どるものが、阿シュク、寶生、阿彌陀、不空成就の四佛である。

故に萬歳楽山の見えざる制底では、

これを方壇第一層より第四層に至る四方に安置し、

更にこの四佛四世界を一として統轄するものが、如來部の主たる毘盧遮那なるが故に、これをその上層の四方に奉安してある。

而も、この五佛五部五世界の妙用は悉く圓壇三層の普賢の性海より發現するものなることを象徴したるのが、

萬歳楽山のボロブヅウルに見られる制底と等しき所以であること。

以上の内容の詳細については、別の機会にゆずる。


参考文献:『理趣経の研究』栂尾祥雲著 密教文化研究所発行から「普賢金剛薩タの立曼荼羅しての ボロブゾウル(抜粋)」
https://drive.google.com/file/d/1vctP1kGv1XyLR-TfICLya509Tl3dHYFy/view?usp=sharin